この国は、戦争をしないで済むのならどんな邪悪なものでも使わせてもらいましょうと、どれほどの譲歩を続けてきたか。それはいびつな形で常態化し、この国の独自の?「平和論」を支えてきたのではないか。

 『ウインストン・チャーチルヒトラーから世界を救った男~』(2017年・イギリス・原題:Darkest Hour・125分・監督ジョー・ライト・主演ゲイリー・オールドマン


 イギリスでの封切りが2018年1月12日。日本の公開が3月30日、私がみたのが7月25日。何かと話題の多かった映画だが、全編、長さを微塵も感じさせない緊張感に満ちた素晴らしい映画だった。チャーチルを演じたゲイリー・オールドマンの写真とポスターのチャーチルの違いに驚いたが、癇の強い大酒飲みの老人の自己顕示と孤独の演技は、メイクによって際立った素晴らしいものだった。

 映画は1940年、ドイツのすさまじい進撃によって連合国軍が北フランスの町ダンケルクの浜辺に押し込められたところから、歴史的撤退戦を戦う1か月間のイギリス政府の動きを描いたもの。同じ年につくられた『ダンケルク』(2017年・アメリカ・監督クリストファー・ノーラン)を3月にアウシュヴィッツからの帰りに機上でみていたので、二つの映画が重なった。

 チャーチルヒトラーに対して徹底抗戦を叫び講和派と対立し孤立するが、その1か月間の懊悩が特異な言動も含めてじっくりと描かれる。ほとんどのシーンにでづっぱりのチャーチルに惹きつけられた。地下鉄に乗って国民と対話するシーンは秀逸である。

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 一方、映画を楽しみながら私の頭に浮かんでは消え、消えては浮かんだのは、「この映画を日本人はどう見るだろうか」ということだった。

 中学の教員として、長い間ヒロシマ修学旅行という仕事に取り組んできたが、最後までなじめなかったのは「平和教育」「平和学習」という言葉だった。

 広島にある平和資料館の正式名称は、広島平和記念資料館である。もちろん原爆資料館とも称されることもあるが。長崎の資料館はそのまま長崎原爆資料館である。この違いは何だ?といつも考えてきた。8月6日と8月9日、3日おいて開催される広島平和記念式典、これに対し長崎は、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典、若干ニュアンスが違う。市長の式辞はもっと違う。しかしやはり「平和」は欠かせない。万人の願いだから、ということだけでは納得ができないで来た。

 

「平和」を前面に出しながら、実は戦争のことを考え学ぶのが平和学習の中身なのだが、いつも戦争は「平和」と言い換えられた。平和学習のリーダーたちは平和委員だし、集会は平和の集いだ。私にはどこかまやかしの臭いが感じられた。

 私があえて使ってきたのは、変哲のない「事前学習」ということば。「平和」の代わりに「事前」を使う。面白味も何もないが、これ以上でも以下でもない学習の実態をそのまま表している。「戦争学習」とまでは言えなかった。

 「平和」が強調されるのは、「戦争」が絶対悪として忌避される思考が、この国では強いからだと思ってきた。

 被爆者の語り部の方のお話の中には、時として「いじめ」が出てくる。
「戦争は国と国の間のいじめだ。学校でいじめをやっていてなにが平和学習だ。身の周りのいじめをなくすことが戦争をなくすことにつながるんだ」。

 私は、戦争といじめは別のものだと考えている。いじめをなくせば戦争がなくなるとも思わない。それより子どもの世界だけの「いじめ撲滅」という発想の方が、子どもの生を考えるとき、ひどく現実味のないものに感じられる。撲滅よりも実体を見定めること。その意味でいじめと差別はかなり似ている。差別がもとにいじめは起こる。
差別やいじめは、子どもの社会よりも大人の社会にいくらでも散見できる。そのことを隠さずに、しっかり認識できるようになることが先決だ。大人も、教員も。だから学校では撲滅より出来得る限りの事実の認識が優先されるべきだと考えてきた。

 戦争についてはどうか。戦争はすべて絶対悪として否定されるべきものか。

 チャーチルは戦争を否定せず、侵略者ヒトラーを徹底的に否定した。そして戦う方を選び政治指導者として堂々と主張し、国民を扇動し、支持を得た。その演説は映画の中でも出色のシーンである。

 大日本帝国に侵略された人々は戦争を否定しただろうか。平和を求めながら戦わざるを得なかった人々、あえて戦おうとした人々は、はっきりと日本をヒロヒトを東条や日本軍を否定し憎んだのだではないか。

 

伊藤剛さんという方の著書『なぜ戦争は伝わりやすく平和は伝わりにくいのか』(2015年・光文社新書)の中に、藤原帰一さんの『戦争を記憶する』(2001年・講談社新書)が引用されている。ここでは広島の平和記念資料館とアメリカのホロコースト記念館を比較して、「戦争の価値観」が全く違う方向を向いていることが指摘されている。この本、読んだおぼえがあるのだが、手もとに見当たらない。伊藤剛さんが引用した部分を孫引きしておきたい。重要な指摘だと思う。

 

 《広島の記念館は、何よりも核兵器の廃絶を訴えている。平和運動で用いられる言葉を使えば、核兵器は「絶対悪」とされ、その延長上には、戦争そのものを絶対悪として捉える考え方がある。(中略)
 戦争を絶対悪とする場合、だれが戦争を戦うかによって正しいか間違っているかが決まることはない。戦争そのものが悪なのだから、戦う主体によっては戦争が正しくなるというはずもない。また、その処方箋も、侵略戦争を起こす政府を解体することではなく、戦争という行為の追放と、それを可能とする武器の追放に向けられる。(中略)
他方、ホロコースト経験の教えは、絶対悪を前にしたときは、その悪に踏みにじられる犠牲者を見殺しにせずに、立ち上がらなければならない、という教えである。(中略)
 後者は、間違っても絶対平和のメッセージではない。ナチスによる迫害が続けられていることを知りながら立ち上がろうとせず、犠牲者たちを見殺しにした諸国の行動は正しかったのか。暴力への批判に加え、暴力を放置した責任もここでは問われている。》

 

 伊藤剛さんは、日本では「70年間、「平和を求めますか?」「戦争に反対ですか?」と常に問われ続けてきたために、私たち日本人は迷うことなく「イエス」と答えることができていた。・・・つまり、日本と国際社会とでは、「絶対悪の対象」が違うということだ。日本はその対象が「戦争」自体を指し、国際社会では「平和を脅かす存在」を意味しているのである。」と言う。

 映画『ウインストン・チャーチルヒトラーから世界を救った男~』を見ていると、このことがよくわかる。逆に、70年間のこの国の平和が、何によって支えられてきたのか振り返らざるを得ない。立っている者は親でも使えの俚諺のように、どんな邪悪なものでも戦争をしないで済むのなら使わせてもらいましょうと、どれほどの譲歩を続けてきたか。それはいびつな形で常態化し、この国の独自の?「平和論」を支えてきたのではないか。

 

 戦争を学ぶこと、戦争を管理すること、何によって戦争が起こり、終わらせることができるか、正しい絶対的平和は存在するのか、学ぶべき「戦争」は、残念ながら現在も無数にある。

 

この日、2本目にみたのは『29歳問題』(2017年・香港・原題:29+1 ・111分・監督キーレン・パン)。あまりピンとこなかった。

 

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土用は過ぎてしまいましたが。