『戦争と女の顔』戦争シーンのない傑作戦争映画。

9月にみた映画の備忘録。

『戦争と女の顔』(2019年製作/137分/PG12/ロシア/原題:Dylda/原案:スベトラーナ・アレクシェーヴィッチ/監督:カンテミール・バラーゴフ/出演:ビクトリア・ミロシニチェンコ バシリサ・ベレリギナ/日本公開:2022年7月15日) 

ベラルーシノーベル賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチによるノンフィクション「戦争は女の顔をしていない」を原案に、第2次世界大戦後のソ連(現ロシア)で生きる2人の女性の運命を描き、第72回カンヌ国際映画祭ある視点部門で監督賞と国際批評家連盟賞を受賞した人間ドラマ。第2次世界大戦に女性兵士として従軍したイーヤは、終戦直後の1945年、荒廃したレニングラード (現サンクトペテルブルク)の街の病院で、PTSDを抱えながら看護師として働いていた。しかし、ある日、PTSDによる発作のせいで面倒をみていた子どもを死なせてしまう。そこに子どもの母親で戦友でもあるマーシャが戦地から帰還。彼女もまた、イーヤと同じように心に大きな傷を抱えていた。心身ともにボロボロになった2人の元女性兵士は、なんとか自分たちの生活を再建しようとし、そのための道のりの先に希望を見いだすが……。監督は、巨匠アレクサンドル・ソクーロフの下で映画制作を学んだ新鋭カンテミール・バラーゴフ。主演はともに新人のビクトリア・ミロシニチェンコとバシリサ・ペレリギナ。(映画ドットコムから)

 

アレクシェーヴィッチの『戦争はお女の顔をしていない』が原案だというが、全く別の物語。戦争と女性という視点は同じでも、これは監督が自分に中で紡ぎあげた映画。

 

戦争のシーンがない戦争映画。

男との関係でつくられた女の戦争はいくつもあるが、男抜きで女性の感情が正面に据えられた戦争映画は初めてみた。

PTSDに苦しむ女性と不妊に悩む女性。いずれも戦争によるものだが、国家も男性もそこに視点はない。画像1

 

圧倒された。映画としての品格の高さ、重厚さ。セリフはまったく饒舌ではなく、それ以上に画面のつくりと俳優の表情があらわす感情の奥行きの深さ。絶望の中にわずかな希望を見出そうとしているかにも見えるが、伝わってくるのは圧倒的な絶望。

男が政治や思想で戦争を語るのに対し、ここでは女性性がもつ即物的なリアリティが前面に出てくる。男である私は、みていて切なくなるばかりで腰が引けて、何ら有効な向き合い方がわからない。

戦争映画として歴史に残る傑作。

カンテミール・バラーゴフ監督はロシアを逃れて国外脱出。

公式HPには、監督とプロデューサーのメッセージが載っている。

dyldajp.com

出身のカンテミール・バラーゴフ監督は、国外へ脱出。
ウクライナ出身のプロデューサー、アレクサンドル・ロドニャンスキーはSNS反戦のコメントを連日投稿しています。息子がゼレンスキー大統領の経済顧問を担当し、更にはロシア政府の行動を公然と非難しているロドニャンスキーの作品は、ゼレンスキー大統領出演作と共に名指しでロシア政府から放映や公開が禁じられています。
日本での公開に際し、二人から反戦のメッセージが届きました。

戦争と、それを招いたロシア政府の政治的決断に強く反対している。
だから私はロシアを去らなければならないと感じた。
この戦争は、ただ普通に人生を送りたい何百万という人々にとっての悲劇だ。
彼らの多くにとっては、この戦争を乗り越えること、
これからの人生を送ることが難しくなるかもしれない。
ましてや、不可能になるかもしれない。
これは、『戦争と女の顔』で描かれていることと一緒だ。
戦争より悪は存在しない。  カンテミール・バラーゴフ(監督)

私は今までロシア大統領選で投票をしたことがないが
ウクライナのパスポートを持っているので)、耐え難いほど恥じている。
そして、とてつもなく深い悲しみにいる。
戦争に言い訳などはない。どんな主張があったとしても。
私はよく覚えている。ソ連が私たちにアフガニスタン戦争の絶対的な
必要性を説明した時のことを。それが悲劇的な間違いだったと認めるまで、
10年の月日を費やし、15,000人のソ連兵士と100万人近くの
アフガニスタン人の命を犠牲にしたことも。
今日、ベトナムイラクアフガニスタン戦争など自国の戦争について
言い訳できるアメリカ人はほとんどいない。
そして、またしてもこの戦争は痛ましい過ちだ。
国家の経済が崩壊し、私たちの国が世界的な孤立の中停滞し、
かつてないテクノロジーの格差が深まるから、という理由ではなく、
この過ちにおける恥は消え去ることがないからだ。
これは私たちの子供や孫の代にも残る。
私たちは黙ってはいられない。戦争に「NO」を。
アレクサンドル・ロドニャンスキー(プロデューサー)