48年前の4月1日

3日。4月最初の映画に出かける。

街を歩くと、スーツ姿の若者に行き合う。

3日目ともなると、何人かで連れだって歩く姿にも余裕が見えるが、1日は違った。

男女の就活ルックの2人が、スマホを見つめながら急ぎ足で歩いていくのに行き合った。

時間は9時半。出社時間を過ぎているのではないかと余計な心配をしながら、うしろ姿をしばし眺めていた。

 

思えば、1976年4月1日。

私は辞令公布式会場に遅れず到着した。今はない教育文化センター(現在は関東学院大学のキャンパス)。教育委員会が入っており、面接もここでやった。間違いないと思っていた。余裕だった。

ただ一つの違和感は、受付で書類とともに横浜市のそろばんのマークのようなバッジも一緒にもらったことだ。

教員もバッジをつけるのか?という疑問。面接で赴任校を訪れた時には誰もつけていなかった。

適当に座席に坐って周囲を見渡すと、あちこちに立っているプラカードには総務とか教委などとある。

不安が芽生える。ここ、違うのか?

受付に戻り、教員ですけどと告げると、怪訝な顔で「え?教員は関内ホールだよ」という。

 

渡されるままに書類を受け取って黙って坐っている方もおかしいけれど、名前も確認しないで書類やバッジを渡してしまう方もかなりいいかげんだ。

いやいや、やっぱり初日から会場を間違えてくる初任者の方がずっとおかしい。

 

式が始まるまで5分しかない。

「走れば5分で行けるよ」の声にダッシュで市民ホール(旧・横浜宝塚劇場、1970年から市民ホール、現・関内ホール)へ向かう。

 

息切らせてかなり老朽化した市民ホールの座席に坐った時に式が始まった。

 

隣に坐っていたのが、今でも付き合いのあるIさん。最初から遅れてくるなんて

「なんてやつだ」と思ったと、あとから言われた。

今となってみれば、38年間の教員生活を象徴するような4月1日。

 

 

2人のうしろ姿を見ながら、「間に合うといいな」が口をついて出てきた。

 

 

1976年の出来事 | 写真素材・ストックフォトのアフロ さん

1976年の芥川賞受賞者。作品は『限りなく透明に近いブルー』。人気作家のW村上の1人。

犬の知り合い?に会う 

ようやく桜が咲き始めた。

横浜の開花予想は21日だった。10日以上も遅かったことになる。

咲きはじめたとたん、天気がぐずつくようになった。

今日も河畔に出たところで水面に小さな波紋が。

 

歩き始めてすぐにMさん、「あっココちゃんだ!」。

「今日はココちゃんに会いそうだなと思っていた」そうだ。

会いそうだは、会いたかったの気持ちの表れ。

 

ココちゃんは豆柴。体毛が柔らかく、尻尾が太くてまるまっている。

飼い主さんは40代ぐらいの穏やかそうな長身の男性。

会うのは10日か2週間に一度だが、声をかけるとすぐに反応する。憶えていてくれるのは嬉しい。

ひとしきり二人で触りまくる。飼い主さん「おとといシャンプーしました」とのこと。

別れる時の挨拶はどういうわけか互いに「ありがとうございました」。

 

最近、ルナちゃんというゴールデンレトリバーとも知り合いに。

昨日も偶然に。こちらの飼い主さんは少しだけ年配の方。

ルナちゃんは生まれて6ヶ月というが、体格はもうかなりかなり大きい。これからまだ10kgも増えるのだそうだ。

こちらも声をかけると2足立ちして抱きついてくる。そして甘噛み。

なんでもよく憶えるんですよとという飼い主さん。

「おすわり!」と言ってみたら寝そべった。腹を撫でてやった。芸より甘えの方が先らしい。

 

私たちは二人ともどちらかというとネコが好きだった。ジジという黒猫と16年間住んだ。

数年前に長女一家が飼っていたライという名前のチワワを2年ほど預かった。

犬という動物のことがよくわかり、自然に犬も好きになった。

散歩の楽しみはカワセミをはじめとするバードウオッチングと書いたが、数頭の犬と会うのも楽しみの一つだ。

 

ソメイヨシノより早咲きのオオシマザクラの古木

 

 

横田泉さん『精神医療のゆらぎとひらめき』ほか3月のあれこれ

 3月も明日で終わり。2月の月末には飲む機会が増えたと書いた。

2020年の今頃は、全校休校。世の中はコロナに怯えていた。4年目になる。

何が変わって何が変わらないのか。自分の生活を見る限りは、大きく変わったことはない。4歳歳をとったというのは間違いない。

同じような毎日を過ごしている。

ほとんど何にも起こらない平板な毎日なのだが、振り返ってみると平凡なりにいろいろなことがある。

困るのは、みな忘れてしまうことだ。

なんでも憶えておけばいいというわけではないが、忘れ物をしたことを忘れてしまうような小さな不安がある。たぶん老化によるものだろう。

映画以外の日々の引っ掻き傷のような出来事、少しだけ書きつけておく。

 

3月5日、友人のAさん夫妻とランチ。

前回は瀬谷のフランス料理のお店。店が見つからず、クルマで付近をぐるぐる、遅刻した。住まいからさほど離れていないところに素敵な店があることに気がついた。

今回は、私たちのセレクト。遅れずに行こうと早めに出たが、Aさん夫妻はすでに到着。いつもきっちりとしたAさんたち。

『蕎澤』のそば懐石。昼間の営業がおわって13時半から。

何年も通っているが、初めて。

   前菜(そばや豆腐を材料に)

   そばの実の料理

   そば粉の料理

   揚げ物

   種物のそば

   もりそば

   デザート

こう書くとさっぱりしたもののようにも見えるが、ゆっくり味わうそばと豆腐、野菜。

1時間半ほどのランチがとても豊かなものに感じた。おそるべし蕎澤、である。

 

食べ物もの話が続く。

3月15日。Mさんの誕生日。71歳。

9階の”あつぎのえいがかんkiki”で『瞳をとじて』を見たあと、B1のアドマーニで二人で食事。何度も来ているが、いつも満足のイタリアン。飲み放題付きのコース料理。生ビールは格段に美味いし、ワインもそこそこ。何より接客が温かい。

帰途に1時間余かかるのが玉に瑕、ほろ酔いのまま。

 

3月16日。次女の息子のA人くん(9歳)の空手の演武を見に保土ヶ谷公園へ。前回の9月に比べ、上達ぶりがよくわかる。

クルマを停めてすぐにAくんと空手クラブの世話人の方に会う。

「A人くんのおばあちゃんとおじいちゃんですか?」

「そうです、いつもお世話になっています」

こういう会話がいまだに恥ずかしいのはどうしてだろうか。

 

父親のAさんは土曜出勤。演武終了後、弟のH人くんと4人で保土ヶ谷郵便局の隣のかごの屋というお店でランチ。Mさんの誕生日ということでご馳走してくれる。私がポロポロとだらしなく食べこぼしをするのを、4歳児のH人くんが面白がっている。

 

3月17日。

東京、台東区三ノ輪で人間と発達を考える会の研究会に出席。会場は自立支援センターふるさと会のビル。

土手通りを東に歩く。スカイツリーが大きく見える。歩いて10分ほど。

三ノ輪というと「三ノ輪の親分」という言葉が口をついて出る。銭形平次だ。

地下鉄日比谷線の一つ前の入谷を通ると「おそれ入谷の鬼子母神」、が出てくる。つづけて「なさけありまの水天宮」が出てくる。

 

先日、友人のSさんに用事があってメールをしたら

「今、土手の伊勢屋に来ています」とのこと。

「10時20分着いて並んで8人目でした。開店前には40人くらい並んでいました」とのこと。

土手の伊勢屋はよく知られた天丼の店。前から一度は訪れたい店の一つ。

 

 

 

本日の研究会のテーマは、横田泉(みつる)さんの『精神医療のゆらぎとひらめき』(日本評論社・2019年7月刊)

精神科病院に勤務しながら、いくつかの雑誌に書かれた文章をまとめた本だが、たくさんの気づきを与えてくれる本。

「患者の利益にならない医療はやらない」という、ごく当たり前でありながら、現実にはありえない医療を、目指すのではなく実践している方。

精神医療については、現役の教員時代にもいくつも接点があったが、こんなふうに公言して実践している方は、そうはいない。

 

この日は、リアルでは7名の方の出席。横田さんはじめ3人の方が沖縄からオンラインで出席。同じ精神科医の滝川一広さんもそのお一人。

 

この本のあとがきに3人の方が登場する。これが大変に興味深かった。

お一人は、前書きを執筆している作家の木村友祐さん。私は今まで2冊、この方の作品を読んだ。気になる作家の一人。

横田さんは木村さんの『イサの氾濫』を引いて、「自由と非暴力という最前線の同士だ」と書く。

精神科病院の医師として、横田さんは一度だけ患者を薬を使って入院させたことがあるという。若い頃のことだが、横田さんにとってこれが自ら医療に向き合う上での一つの桎梏であり、出発点であるという。

患者にとっては医師は権力そのもの。その権力を行使しない、暴力を使わない医療について、本書は大変に深く広く鋭い知見をもって展開している。

 

『イサの氾濫』を読んだ。そこには「東北震災の際に日本中を飛びまわった甘言、欺瞞、偽善にたいする怒りと反撃が見事に描かれている」(横田さん)。

震災から距離をとっていた主人公が、久しぶりに八戸に帰り、荒くれ者の叔父勇雄(イサ)について知る。その荒れの中の孤独と悔しさを、自分の中に蘇らせ・・・。

収録されている短編「埋み火」もよかった。

今、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』と『聖地Cs』を読んでいる。

 

2人目は写真家の鬼海弘雄さん。この本のとびらの写真は、鬼海さんの「登戸2001」と

いう作品。

精神医療のゆらぎとひらめき

拡大してみてみてほしい。なんとも惹きつけられる写真。

鬼海さんの写真集2冊とエッセイ1冊を図書館で借りた。

居間のテーブルに置いておいたらMさんが手に取っていた。「すごいね、この写真集」。

 

人の顔がこんなふうにふうにおもしろいものだということに今更ながら気がつかされた。

横田さんは鬼海さんのことを「自由人」と呼ぶが、「自由人」についてこんなことを書いている。

 

・・・私は職務上、自由人と顧客関係を長年にわたり結んでいるが、彼らとの友好関係を保つためには自分もそれにふさわしい医者でなければならない。吹けば飛ぶような「専門性」や「権威」には頼らない。ひどいことは言っても嘘はつかない。無理難題に愚痴は言ってもギブアップはしない。すぐに感情的になってしまうけれど、あとで反省してお詫びする。・・・

 

これを読むだけでも横田さんの人柄がよくわかる。

現役の教員時代、私もこれに近い感覚で生徒と向き合おうとしていた。違うのは、横田さんはそのまま実践し、私は反省ばかりしていたことだ。

 

3人目は、この本の編集者森美智代さんである。森さんは日本評論社の社員で雑誌『統合失調症のひろば』をつくった人。この雑誌は横田さんに言わせれば、

 

・・・(「統合失調症のひろば」は)もはや統合失調症という枠組みをはるかに超越し、「自由人のための自由人による自由の雑誌」になった。どのページを開いても自由のかおりがたちこめる。「ひろば」の編集会議に行くと、全国から自由人たちが集まりかって気ままなことを話す。話だけではない。絵画、コラージュ、演劇、音楽とおよそ「会議」には似合わないアートが繰り広げられる。何も決まらない編集会議はとてもここちよい。彼女を通して、本当にたくさんの自由人と巡り合い知恵と勇気をもらっている。そもそもこんな素敵な本ができたのも彼女の奮闘のおかげだ。こんなありがたいことはない。・・・

 

編集者と著者の関係を超えた出会いの僥倖。

                 (統合失調症のひろばは現在休刊中)

 

私はかつてこの本の版元である日本評論社の『こころの科学』という雑誌に隔月で3年間小文を連載していたことがある。

原稿用紙8枚程度の文章に毎回のように呻吟するのだが、苦労はしても無骨で繊細さのない文章は編集者泣かせ。担当の編集者は原稿を見ると毎回のようにこう言ったものだ。

 

「私はいいと思うんですけど、うちのカミさんがねえ・・・」

 

のちに「カミさん」におめもじかなうことになるのだが、その方が実はこの森美智代さんだった。

今となれば、おつれあい森さんのダメ出しはよくわかる。

横田さんの文章のなんと端正なこと。私の文章とは比較にならない。

これは、同じ精神科医の滝川一広さんにも通ずることだが、きわめて論理的であるのに文章に温かみがあり、時に怒りがあるのにどこか静謐なのだ。

私のようなストレート一本槍とは違う文章の懐の深さのようなもの。

 

この3人と横田さんの4人でコラボでできた「自由の書」がこの本だと横田さんはいう。

精神医療について書いた本を「自由の書」だという横田さん、そんじょそこらにいるドクターではない。

 

もし横田さんの謦咳に接したいという読者の方は、次の動画をご覧いただきたい。

 

www.youtube.com

2019年のもの。お人柄と主張がよくわかる動画だ。

 

さてさて、研究会は若い精神科のドクターの方の大変に精細なレポートを元に、沖縄とと東京を結んで4時間近く行われた。

やはり外に出かけて行って勉強することが刺激になるようだ。こういう場に出させていただいて感謝している。

 

3月21日。

卒業生のAさんと長津田サイゼリアで会う。まだ生まれて間もない男児をベビカーに乗せてAさん登場。4年ぶり。4年前は独身で子どもはいなかった。

彼女は今イラストレーターと西洋占星術の占い師の兼業。占いは某雑誌のネット版を担当している。

卒業して16年。頻繁ではないが、何度か会った。

偉そうな言い方かもしれないが、人はこんなふうに自分をつくっていくのだなと、その落ち着いた挙措を見て思った。いつでも「今」がその人の人生の集積なのだと思う。

私の人生を見てもらった。

終わりに近づいている人生をあとづける占い。思いがけず「当たっている」ことも。

 

 

3月22日。

毎年恒例の広島在住の子どもの本作家の中澤晶子さんを囲む会。主催は「横浜・広島修学旅行研究会」。大人数で集まるようになって15年以上になる。中華街、牡丹園というお店が常宿。

今年も横浜だけでなく、大阪や東京からの参加者があった。こんな私的な研究会が長続きしているのは、広島現地で修学旅行生を案内してくださる中澤さんの存在がなんと言っても大きい。昨年の「オトナの広島修学旅行」でも全面的にお世話になった。

昨年は『ひろしまの満月』で第70回産経児童出版文化賞の産経社章を受賞。中学生とひろしまの関わりを描いた『ワタシゴト』3部作も完結した。

この4月から東京書籍の6年生の国語の教科書に「模型のまち」が掲載されている。

広島のどうしようもない行政と闘う市民運動や文化活動にも相変わらず八面六臂の活躍。

 

3月24日。東京、練馬のギャラリー古藤で

<朗読劇> 「神部ハナという女の一生

2人で出かける。

いろいろなところで耳にする「ギャラリー古藤」は、武蔵大学正門の筋向かいにある。

NHKのディレクターで武蔵大学教授の永田浩三さんとの関係があるからだろうか。

この日も永田さんが朗読劇のあとの鼎談に出られていた。

入り口でパギやんこと趙白さんにお会いする。今日は照明をするらしい。

 

神部ハナを演じるのは、土屋時子さん。広島ではよく知られた方。

広島文学資料保全の会代表で、hifukusyouラジオの司会も務めていらっしゃる。

そして『ヒロシマの「河」 劇作家・土屋清の青春群像劇』の編者。土屋清さんのおつれあいだ。この本に趙白さんも寄稿していたと記憶している。

https://m.media-amazon.com/images/I/71mkElkAh1L._SY522_.jpg

朗読劇とはいえ、照明や音楽、芝居も取り入れた本格的なもの。神部ハナという戦後を生きた一人の助産婦の悲劇を描いている。

作者は劇団民藝がロングラン公演を続けている『泰山木の木の下で』の作者小山佑士。泰山木の・・・の底本が神部ハナ、である。

 

終了後、土屋さんにご挨拶する。

 

 

 

 

 

五つ星は『瞳をとじて』『イル・スール』『落下の解剖学』 2024年3月の映画寸評②

2024年3月の映画寸評②

<自分なりのめやす>

お勧めしたい   ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

みる価値あり   ⭐️⭐️⭐️⭐️

時間があれば     ⭐️⭐️⭐️

無理しなくても  ⭐️⭐️

後悔するかも   ⭐️

 

㉖『瞳をとじて』 ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️  3月15日kiki

(2023年/169分/スペイン/原題:Cerrar los ojos /監督:ビクトル・エリセ/出演:マノロ・ソロ ホセ・コロナド アナ・アレナス/劇場公開日:2024年2月9日)

ミツバチのささやき」などで知られるスペインの巨匠ビクトル・エリセが31年ぶりに長編映画のメガホンをとり、元映画監督と失踪した人気俳優の記憶をめぐって繰り広げられる物語を描いたヒューマンミステリー。
映画監督ミゲルがメガホンをとる映画「別れのまなざし」の撮影中に、主演俳優フリオ・アレナスが突然の失踪を遂げた。それから22年が過ぎたある日、ミゲルのもとに、かつての人気俳優失踪事件の謎を追うテレビ番組から出演依頼が舞い込む。取材への協力を決めたミゲルは、親友でもあったフリオと過ごした青春時代や自らの半生を追想していく。そして番組終了後、フリオに似た男が海辺の施設にいるとの情報が寄せられ……。
コンペティション」のマノロ・ソロが映画監督ミゲル、「ロスト・ボディ」のホセ・コロナドが失踪した俳優フリオを演じ、「ミツバチのささやき」で当時5歳にして主演を務めたアナ・トレントがフリオの娘アナ役で出演。(映画.com)

 

なんとも幸せな時間だった。ミゲルとフリオの二人の人生に一緒に向き合っているような独特の臨場感。私は、ただただ物語の流れに身を任せているだけなのだが、絵画のような映像と静かな音楽、その瞬間瞬間が、言葉にならないが我と我身に沁みてくる。ドラマとドキュメンタリーの間のような不思議な空気が一貫して流れている。そのせいかみている自分がどこにいるのか、わからなくなる瞬間がいくつもあった。優れた文学が映画という方法を得て、新しい世界を作り出している。これがエリセか!初めてのエリセ体験、まいったまいった。随所にエリセのこだわりが埋め込まれていて、日本という国も彼の関心の一つであることもわかる。ここではそれらに触れないが。

この作品は私の”死ぬまでにもう一度見たい映画の”一本に入る。

 

㉗『レディ加賀』 ⭐️⭐️        3月15日kiki 

(2024年/108分/日本/脚本:渡辺典子 雑賀俊朗/監督:雑賀俊朗/出演:小芝風花 檀れい他/劇場公開日:2024年2月9日)

 

石川県の加賀温泉を盛り上げるために結成された旅館の女将たちによるプロモーションチーム「レディー・カガ」から着想を得た、ダンスで温泉街を盛り上げる女将たちの姿を描いた小芝風花主演のドラマ。

加賀温泉にある老舗旅館「ひぐち」の一人娘・樋口由香。小学校の時に見たタップダンスに魅了された由香は、タップダンサーを目指して上京したものの夢破れ、実家に戻って女将修行をスタートさせる。その不器用さから、由香の女将修行は苦戦するものの、持ち前の明るさとガッツで奮闘する毎日を送っていた。そんな中、加賀温泉を盛り上げるためのプロジェクトが発足する。由香は新米女将たちを集め、大好きなタップダンスのイベントを開催することになるのだが……。

由香役を小芝、新米女将たちを松田るか、中村静香八木アリサ奈月セナ、小野木里奈、水島麻理奈、由香の母親で旅館ひぐちの女将役を檀れいが演じる。

 

タイトルが面白いと思った。金沢新幹線の敦賀までの延長に合わせて作られたご当地映画。まとまっているといえばまとまっているが、どのエピソードも皆どこかで見たような使い古されたもの。いくつものトラブルを経て、街の活性化まで辿り着くというストーリーに新味がないし、人気だという小芝風花も輝いているとは言い難い。脇役は皆それなりに上手な人たちだが。

こちらも時間調整に見たということもあって、半身で見ていたせいかもしれないが、最後まで退屈だった。しかし、隣の隣の座席の私と同年代の女性は号泣していた。映画の受け取り方、さまざま。そういうものだろう。

 

㉘『罪と悪』    ⭐️⭐️⭐️     3月19日kiki

(2024年/115分/日本/脚本:斎藤勇起/監督:斎藤勇起/出演:高良健吾 大東俊介他/劇場公開日:2024年2月2日

幼なじみの少年が背負った罪と、22年後に起きた新たな殺人事件の行方を描いたノワールミステリー。本作が長編デビューとなる齊藤勇起監督のオリジナル脚本作品で、高良健吾大東駿介石田卓也ら実力派キャストが共演した。

13歳の正樹が何者かに殺された。遺体は橋の下に捨てられており、小さな町はあらぬ噂で持ちきりになる。正樹の同級生である春、晃、双子の朔と直哉は、正樹が度々家に遊びに行っていた老人「おんさん」が犯人に違いないと考え、家に押しかけて揉み合いの末に1人がおんさんを殺してしまう。そして、おんさんの家に火を放ち、事件は幕を閉じた。それから22年後、刑事になった晃が父の死をきっかけに町に帰ってくる。久々に会った朔は引きこもりになった直哉の面倒をみながら実家の農業を継いでいた。やがて、かつての事件と同じように、橋の下で少年の遺体が発見される。捜査に乗り出した晃は、建設会社を経営する春と再会。春は不良少年たちの面倒を見ており、被害者の少年とも面識があった。晃と朔、そして春の3人が再会したことで、それぞれが心の奥にしまい込んでいた22年前の事件の扉が再び開き始める。
主人公・春を高良、晃を大東、朔を石田が演じ、佐藤浩市椎名桔平村上淳らが脇を固める。

                               (映画.com)

冒頭から20分くらいの中学生が絡むシーンは説得力もあり、面白い。「おんさん」を殺してしまった春の内面もよく描かれている。が、春が少年院を経て街に戻り、刑事とヤクザのバランスの中、のしあがっていく、そのあたりがあまり描かれておらず、残念。家庭を大事にしながら悪と罪を背負っていく生硬な春を高良健吾が好演しているが、もう少し突っ込んだものを見てみたかった。一方、父親が刑事だった晃が父を継いで街に戻って刑事となっているのはいかにもつくりもの。また、どう見ても大都会とはいえない小さな地方都市であるにもかかわらず、大仰なヤクザの親分が居たり、春たちと抗争となるのもなんだか。細部がきっちり描けていない分、全体的なストーリーの座り心地が悪く、いろいろなものが最後まで収まるところに収まっていないように思えた。言ってみれば、何かありそうなのに、皮を剥いていったら空洞というところか。少年の頃、図らずも得てしまった人間の「業」のようなものを、もっと前面に出て欲しかった。ラストはあれでいいのかどうか。

 

ミツバチのささやき』  ⭐️⭐️⭐️⭐️   3月19日kiki

(1973年/99分/スペイン原題:El espiritu de la colmena[巣の精霊]/原案・監督:ビクトル・エリセ/出演:アナ・トレント イサベル・テレリュア他/劇場公開日:2017年3月25日その他の公開日:1985年2月9日(日本初公開)、2009年1月24日)

スペインの名匠ビクトル・エリセが1973年に発表した長編監督第1作。スペインの小さな村を舞台に、ひとりの少女の現実と空想の世界が交錯した体験を、主人公の少女を演じた子役アナ・トレントの名演と繊細なタッチで描き出した。スペイン内戦が終結した翌年の1940年、6歳の少女アナが暮らす村に映画「フランケンシュタイン」の巡回上映がやってくる。映画の中の怪物を精霊だと思うアナは、姉から村はずれの一軒家に怪物が潜んでいると聞き、その家を訪れる。するとこそには謎めいたひとりの負傷兵がおり……。2017年、世界の名作を上映する企画「the アートシアター」の第1弾として、監督自身の監修によるデジタルリマスター版が公開。(映画.com)

 

kikiが、『瞳をとじて』を記念して、エリセの前2作を上演してくれた。寡作の監督の全作品を見たことになる。ジャック&ベテイでもこの企画が続く。

これまたなんともいえない映画。映画そのものが説明的でないから、連なるシーンからさまざまなものを読み取りながら、これまた登場人物と一緒に進んでいく。

アナを演じる6歳のアナ・トレント、これは信じられない演技。6歳のアナ自身が持つ優れたセンスと演技をつけるエリセ。奇跡的なシーンが最後に待っている。

この映画も、1940年当時のスペインの政治状況を含み込んであるが、それをわかりやすくは描いていない。見る側が、あるシーンから政治的なものを想像したとしても核心にまで辿り着けないような仕掛けになっているように思えた。

それにして圧倒的な映像の力。美しいというコトバを素でつかいたくなる。どこまでも文学的。

 

㉚『エル・スール』 ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️ 3月22日kiki

(1983年/95分/スペイン・フランス合作原題:El Sur[南]/原作:アデライダ・ガルシア・モラレ/脚本・監督:ビクトル・エリセ/出演:オメロ・アントウヌッテイ ソンソレス・アラングーレン他劇場公開日:2017年3月25日その他の公開日1985年10月12日(日本初公開)、2009年1月24日)

 

ミツバチのささやき」のビクトル・エリセ監督が、同作から10年を経た1983年に発表した長編監督第2作。イタリアの名優オメロ・アントヌッティを迎え、少女の目を通して暗いスペインの歴史を描いた。1957年、ある秋の日の朝、枕の下に父アグスティンの振り子を見つけた15歳の少女エストレリャは、父がもう帰ってこないことを予感する。そこから少女は父と一緒に過ごした日々を、内戦にとらわれたスペインや、南の街から北の地へと引っ越した家族など過去を回想する。2017年、世界の名作を上映する企画「the アートシアター」の第1弾として、監督自身の監修によるデジタルリマスター版が公開。(映画.com)

15歳の少女の視点がはっきりしている分、「ミツバチ」よりストーリーはすんなり入ってくる。父親の秘密を探るうちに見えてくるものが、一つのミステリアスな物語になっていて、惹きつけられる。政治的なものも含めて父親が持つ深い葛藤は娘にはわからないが、しかし娘にしか見えないものもある。ここに迫るエリセの感性がすごい。全体にシーン一つひとつが絵画のようで、それを彩る音楽が印象的。重厚ではあるが、無駄な重みを感じさせない。

エル・スール、南という言葉が醸し出す独特の空気、娘が受け取るものと父親の思いのずれ。アントン・ヌッティという役者の素晴らしさ。娘役のソンソレス・アラングレーンの物おじしない演技も素晴らしい。登場人物が少ない分、それぞれの造形が際立っている。父の乳母の演技、セリフ回しも動きもなんともにくい。

 

 
 

 

㉛『落下の解剖学』  ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️ 3月22日kiki

2023年製作/152分/フランス原題:Anatomie d'une chute/脚本・監督:ジャスティヌ・トリエ/出演:サンドラ・ヒューラー ミロ・マシャド・グラネール他/劇場公開日:2024年2月23日)

フランス出身。パリ国立高等美術学校を卒業後、2006年の学生運動を追った「Sur place」(07)や仏大統領選挙の日々を記録した「Solférino」(09) などのドキュメンタリー映画を制作し、フランス映画界の気鋭の女性監督として早々に注目を集める。劇映画とドキュメンタリーの手法をミックスした長編監督デビュー作「ソルフェリーノの戦い」(13)が国際的に高い評価を得て、第2作「ヴィクトリア」(16)、第3作「愛欲のセラピー」(19)と長編作品を発表。
長編4作目「落下の解剖学」(23)は第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で女性監督として史上3人目となるパルムドールを受賞、ゴールデングローブ賞最優秀脚本賞にも輝き、第96回アカデミー賞でも作品賞、監督賞、主演女優賞、脚本賞編集賞の5部門にノミネートされた。

                        (映画.com)

 ジャスティヌ・トリエという監督の作品は今まで見たことがない。ドキュメンタリーからスタートして劇映画へ。一作ずつが評判となる人。次作も今から楽しみ。

 本作の脚本も彼女に手によるもの。脚本をノベライズすればそれだけで大変なミステリー作品になるような中身の濃い作品。そうはせずに脚本のまま演出まで手がけて、これほど見るものを惹きつける才能は只者ではないようだ。

 夫が死ぬ前の異様なシーン、来客中にも関わらず大音量で音楽をかけるような児戯に等しい行為。一方妻は作家として売れている。二人の間には、事故で視力を失った息子がいる。この事故をベースにして、二人の間の諍いが裁判の中で明らかになる。

 録音(夫が録音したもの)をもとに裁判が行われるが、この再現シーンがすごい。妻への嫉妬や羨望、夫への落胆と諦念が幾重にも重なる口論のシーンは、映画というより演劇的な広がりを見せる。圧巻である。

 ラストシーンは書かないが、これもまた意外ではあるが、人間にはさまざまな感情の下におもいがけない部分を隠していることが明らかになり、それが救いにもなっている。

上質なミステリーとして忘れられない映画になると思う。

                               

 

㉜『ビニールハウス』  ⭐️⭐️⭐️⭐️ 3月28日kiki

(2022年製作/100分/韓国/原題:Greenhouse/脚本・監督・編集:イ・ソルヒ/出演:キム・ソヒョン ヤン・ジェソン シン・ヨンスク3月15日劇場公開日:2024年3月15日)

貧困や孤独、介護など現代の韓国が抱える社会問題に根ざした物語が展開するサスペンス。正規の住宅を失った低所得者層が、農業施設であるビニールハウスで暮らす事例などをベースに描く。主演は人気ドラマ「SKYキャッスル 上流階級の妻たち」のキム・ソヒョン。

貧困のためビニールハウスに暮らすムンジョンは、少年院にいる息子と再び新居で暮らすことを夢見ていた。その資金を稼ぐため、盲目の老人テガンと、その妻で重い認知症を患うファオクの訪問介護士として働いている。ある日、ファオクが風呂場で突然暴れ出し、ムンジョンと揉み合う際に床に後頭部を打ちつけ、そのまま亡くなってしまう。ムンジョンは認知症の自身の母親をファオクの身代わりに据えることで、息子と一緒に暮らす未来を守ろうとするが……。

ムンジョン役のソヒョンのほか、ドラマ「キング・ザ・ランド」のベテラン俳優ヤン・ジェソン、ドラマ「ザ・グローリー 輝かしき復讐」のアン・ソヨらが顔をそろえる。監督は本作が長編監督デビューとなるイ・ソルヒ。

冒頭のシーンは印象的。自傷の中年女性。施設に入っている息子との面会。なんとかして貧困から脱出して息子との生活の再出発を果たしたい女性。多くのシーンが音楽なしの緊張感のあるものに。かといって、キム・ギドクのような凄惨さを強調するようなシーンはほとんどない。

予告編のジャックが「半地下はまだマシ」はよくわからない。貧困と言っても、この女性は集団のセラピーに通い、老夫婦の家政婦として仕事をし、むすこと二人ですむマンションを手に入れるための積立もしている。通過危機以降の韓国の格差社会の際限のない拡大とは、一線を隠しているように思えた。ビニールハウスも都会の中の駄々広い河原のようなところにあり(『バーニング』を思い起こさせる。実際にラストでハウスは・・・)、中にはキッチンも冷蔵庫もあり、かなり広い。どうしてこんなふうに生活しているのか理解にくるしむ。半地下はまだマシ」は本編を見る限り、ずれていて売らんかなにすぎると思えた。

認知症、盲目、知的障害、自傷、非行などさまざまな問題を取り入れ構築されている物語の面白さは、盲目の高齢男性の認知症を患う妻と掴み合っているうちに死なせてしまった女性が、自分の母親を連れてきて生活させる、いわばとりかへばや物語にあるのだが、現実味がないように見えてかなりリアルだ。盲目の男性は自分もまた認知症の初期症状を認識し、心中を図るのだが、自分の妻ではない女性との道行は痛切だ。

社会問題を意識しながらエンタテイメント路線を追求しようとする作品としては、成功しているのではないか。

ほとんど出ずっぱりのキム・ソヒョン、破綻のない素晴らしい演技。イ・ソルヒという監督のひたむきさを強く感じる。

 

 

 

老人よ、外に出よう。

毎日のルーティンの散歩。最近は出かける時間も遅くなった。7時40分ごろだ。気温に低い時間は避けている。

 

コースは、目黒の交差点近くの横浜市瀬谷区大和市の間の鶴間橋から、その上流2kmのところにある町田市と大和市の間の鶴間橋際にある鶴間橋の往復、ほぼ毎日同じ。同じ名前の橋が2km離れて架っているという不思議。

鶴間という地名はややこしく、町田市にも大和市にも相模原市にもあって、それぞれ「上」がついたり「下」がついたり、「西」や「南」もつく。

このコース、往復全長5kmほどだが、かつては1時間で歩いた。最近はプラス15分かかる。普通のスピードで歩いている若い女性に追い抜かれる。時には高齢の男性にも追い抜かれる。

なにクソとは思わない。タイパが悪いほうがいいのだ。

楽しみはカワセミをはじめとする種々の鳥たちを眺めるバードウオッチング。

散歩する犬と遊ぶのも楽しみ。

今は、ゴールデンリトリバーと豆柴、もう一頭犬種のわからない小さなクマのような犬の3頭に触れさせてもらっている。ゴールデンリトリバーと豆柴は向こうから抱きついてくる。けっこううれしい。

 

 

犬も歩けば棒に当たるというが、犬からすれば、こちらはさしずめかなり大きめの棒である。

 

時に人間に当たることもある。

 

田園都市線つきみ野駅から境川につながって坂道の桜の散歩道、ここは八重桜が数十本植えられた散歩道。この辺りの名所である。

先日、ちょうどその散歩道が河畔に差し掛かったところで、道に迷ったと思しき女性に声をかけられた。

 

「ここにいきたんですけど、わかりますか?」

 

と、不安そうに小銭入れに貼り付けられた紙片の住所を私たちに見せる。

スマホで位置確認すると、歩いて20分ほどのところにあるマンション。

 

M さん、ピンときたらしく、「一緒に行ったほうがいいね」。

 

はじめは方向だけ伝えればいいと思った私も、用事があるわけでもないから「うん、一緒に行こう」と3人で歩き始めた。

 

年の頃、私たちより少し上の70代半ばかと思ったのだが、ご自分で88歳だとおっしゃる。とてもそんなふうには見えない。歩き方もしっかりしている。

道々、お話を伺う。

今朝、いつも通りマンションの近くの公園でラジオ体操をした。家に帰る前に少し散歩しようと思ったら、道がわからなくなってしまった。

 

ラジオ体操は6時30分。終わって歩き出してからもう1時間半ほども経っていることになる。

からだは元気なんですけど、アタマの方がすこし・・・いろいろわからなくなる時があって・・・と云う。

 

終戦後、山形から横須賀に引っ越して、長い間住んでいた。夫は亡くなり、結婚した娘が近くに引っ越してこいというので、この近くのマンションの隣の部屋に移り住んだ。

孫が遊びにきたのは転居後直後だけ。最近は娘も顔を見せない。

食事は自分で簡単なものを作っている。

毎日、外を眺めているだけ。体を動かさなければと思い、ラジオ体操には出かけている。

 

そんな話を伺っているうちに、鶴間橋際の鶴間橋を渡る。マンションまであと数分。

二つ目の信号のところで表情がパッと明るくなり、

「わかりますう、ここまでくれば」。

小さな後ろ姿を二人で見送る。

 

同居していたMさんの母親が、自宅から3キロ離れた隣の区の中学校のところまで杖をついて歩いて行ったことがあった。大正生まれで自転車に乗れなかった人だから、歩くのは苦にならない人だった。

見知らぬ人が、困っている義母の杖に書かれた住所と電話番号を見て、連絡をくれた。

Mさん、すぐにクルマで迎えに行った。もう20年近く前のことだ。

そんなこともあって、ピンときたのだろう。

 

どんな事情があるのか知らないが、不満を漏らすふうでもなく、問わず語りに淡々と事情を話す女性に、柄にもなく同情してしまった。

 

また明日、彼女はラジオ体操に彼女は出るのだろう。

道に迷って他人に話しかけてみるのもいいのではないか。

渡る世間に鬼は少ないものだ。袖振り合うも他生の縁、他人にも、そして娘にももっと迷惑をかけてもいい。

老人よ、外に出よう、である。

 

 今年ムスカリが元気だ。

リドリー・スコットの4Kレストア版『テルマ&ルイーズ』ほか3月の映画寸評①

2024年3月の映画寸評①

<自分なりのめやす>

お勧めしたい   ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

みる価値あり   ⭐️⭐️⭐️⭐️

時間があれば     ⭐️⭐️⭐️

無理しなくても  ⭐️⭐️

後悔するかも   ⭐️

 

㉒『テルマ&ルイーズ』(1991年/129分/アメリカ原題:Thelma & Louise /制作・監督:リドリー・スコット/出演:スーザン・サランドン ジーナ・デービスほか/1991年10月日本公開 4Kレストア版2024年2月16日公開)⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

 

ブレードランナー」「ブラック・レイン」のリドリー・スコット監督が女性2人の友情と逃避行を描き、「1990年代の女性版アメリカン・ニューシネマ」と評されたロードムービー
 ある週末、主婦テルマとウェイトレスのルイーズはドライブ旅行に出かけるが、途中で立ち寄った店の駐車場でテルマが男にレイプされそうになり、助けに入ったルイーズが護身用の拳銃で男を撃ち殺してしまう。ルイーズには、かつてレイプ被害を受けたトラウマがあった。警察に指名手配された2人は、さまざまなトラブルに見舞われながらメキシコへ向かって車を走らせるうちに、自分らしく生きることに目覚めていく。
 ジーナ・デイビステルマスーザン・サランドンがルイーズを演じ、ハーベイ・カイテルマイケル・マドセンが共演。キャリア初期のブラッド・ピットも短い出演時間ながら印象を残した。カーリー・クーリが脚本を手がけ、1992年・第64回アカデミー賞脚本賞を受賞。2024年2月、スコット監督自身の監修により製作された4Kレストア版でリバイバル公開。(映画.com)

リドリー・スコットという人は、根っからの職人。名前が出ると見たくなる。91年に未見だったので迷わず出かけた。

やはりこの映画もすごい。脚本はもとより、ロードムービーのスピード感が、抜群の編集センスによってさらに加速し、最後まで息をつかせぬまま引っ張っていく。かといって観客は口を開けて引っ張られるだけかというと、そんなことはない。しっかり考える、感じる余地を残してくれるている。この微妙なさじ加減。画像2

90年代の男社会に対するアメリカの女性の恨みつらみが理屈でなく、感性そのものとして映画の中にはじけている。男のどんな甘言や優しさに対しても拝跪せず、誇らしく自分を守るテルマとルイーズ。底抜けの明るさの中に自由を求めてやまない2人の悲哀も垣間見える。

それにしてもこの疾走感はあまり感じたことのないものだ。画像8

ブラッド・ピット

 

㉓『僕らの世界が交わるまで』2022年/88分/アメリカ原題:When You Finish Saving the World/監督:ジェシー・アイゼンバーグ/出演:ジュリアン・ムーア フィン・ウルフハード/2024年1月19日公開)⭐️⭐️⭐️

 

ソーシャル・ネットワーク」「ゾンビランド」シリーズなどの俳優ジェシー・アイゼンバーグが長編初メガホンをとったヒューマンドラマ。アイゼンバーグがオーディオブック向けに制作したラジオドラマをもとに自ら脚本を手がけ、ちぐはぐにすれ違う母と息子が織りなす人間模様を描く。

DV被害に遭った人々のためのシェルターを運営する母エブリンと、ネットのライブ配信で人気を集める高校生の息子ジギー。社会奉仕に身を捧げる母と自分のフォロワーのことで頭がいっぱいのZ世代の息子は、お互いのことを分かり合えず、すれ違ってばかり。そんな2人だったが、各々がないものねだりの相手にひかれて空回りするという、親子でそっくりなところもあり、そのことからそれぞれが少しずつ変化していく。(映画.com)

つまらなくはないんだけど。

3人の家族の年齢構成がすれ違いの要因の一つになると思うのだが、映画はそこには突っ込まない。やっていることは全く違うけれど、母娘は何事にも前のめりという点でよく似ている。ラストシーンは、母親はふと息子のyoutubeを見て、息子は母親の仕事の業績を見る。これが「変化」なのだろうか。劇的でない分、歩み寄りのきっかけを提示して終わるのもいいのかもしれないが、基本的には交わることなどないだろうという突き放しがあってもいいのでは。家族も暴力装置の一形態なのだから。その上での展開があったらいいのにと思った。

 

㉔『ゴースト・トロピック』(2019年製作/84分/PG12/ベルギー/原題:Ghost Tropic/脚本(も一部)監督:バス・ドウボス 出演:サーディア・ベンタイブほか
/2024年2月2日公開)⭐️⭐️

美しく繊細な映像で物語を紡ぎ、カンヌ国際映画祭ベルリン国際映画祭でも注目を集めるベルギーの映画作家バス・ドゥボスの長編第3作。ブリュッセルの町を舞台に、最終電車で乗り越してしまった主人公が真夜中の町をさまよい、その中での思いがけない出会いがもたらす、心のぬくもりを描く。

清掃作業員のハディージャは、長い一日の仕事終わりに最終電車で眠りに落ちてしまう。終点で目を覚ました彼女は、家に帰る手段を探すが、もはや徒歩で帰るしか方法はないことを知る。寒風吹きすさぶ町をさまよい始めた彼女だったが、その道中では予期せぬ人々との出会いもあり、小さな旅路はやがて遠回りをはじめる。

全編を通して舞台となる夜の街の風景を、粒子の荒い16ミリカメラで撮影することで、暗闇の中に柔らかさと温かみをもたらしている。2019年・第72回カンヌ国際映画祭の監督週間出品。

下調べをして楽しみにしながら座席に坐ったが、冒頭のある部屋のシーンが静止画のように2〜3分続くのを見て、少し引いてしまった。光量が徐々に微妙に落ちていくのはわかるのだが、こういう人をためすような映画は勘弁。その後も、私にはただ退屈。最後まで全く楽しめなかった。

お前にはこういう映画を見るセンスがないと言われれば、そうかもしれない。なにしろ賞賛する映画評もいくつもあるし、中には絶賛も。

こういう映画もあるんだなと思うことにする。

ちなみにタイトルの日本語訳は「幽霊熱帯」、???である。

 

㉕『梟ーフクロウー』(2022年/118分/韓国/原題:The Night Owl/脚本・監督:アン・テジン/出演:リュ・ジュンヨル ユ・ヘジン/ 2024年2月9日日本公開)

                                   ⭐️⭐️⭐️⭐️

                                                                                                       

17世紀・朝鮮王朝時代の記録物「仁祖実録」に記された“怪奇の死”にまつわる謎を題材に、盲目の目撃者が謎めいた死の真相を暴くため奔走する姿を予測不可能な展開で緊張感たっぷりに描き、韓国で大ヒットを記録したサスペンススリラー。

盲目の天才鍼医ギョンスは病の弟を救うため、誰にも言えない秘密を抱えながら宮廷で働いている。ある夜、ギョンスは王の子の死を“目撃”してしまったことで、おぞましい真実に直面する事態に。追われる身となった彼は、朝日が昇るまでという限られた時間のなか、謎を暴くため闇を駆けるが……。

「毒戦 BELIEVER」のリュ・ジュンヨルが主人公ギョンスを演じ、「コンフィデンシャル」シリーズのユ・ヘジンが共演。2023年・第59回大鐘賞映画祭で新人監督賞・脚本賞編集賞、第44回青龍映画賞で新人監督賞・撮影照明賞・編集賞を受賞するなど、同年の韓国国内映画賞で最多受賞を記録した。(映画.com)

予告編ほどのサスペンス味はない。眼球に針を据えるポスターは印象的だが、実際のシーンは照明は明るく、ほんの一瞬。これかい? という感じ。

先の読めない展開をテンポ良く繋いでいくつくり方は、韓国映画の現代物のサスペンス同様。しかし、時代劇としてはスケール感に乏しい。韓流ドラマで100回とか150回とか続くチャングムなどの時代劇の方がスケール感があったように思えた。その意味で予告編とポスターは秀逸のでき。

盲の鍼師を「フクロウ」として主人公に据えた発想は面白いが、実際にそういう例があるのかどうか。現実味はないように思えたが。

でも、どんでん返し含めて最後まで楽しめたことは間違いない。

 

 

『人間は老いを克服できない』(池田清彦・2023年12月・角川新書・900円税別)死んで自我が消えれば全てチャラ

『人間は老いを克服できない』

   (池田清彦・2023年12月・角川新書・900円税別)

 

 動物は、苦痛から逃れたいとは思うだろうが、死ぬのは怖くないに違いない。そう断言すると、動物になったことがないのに、どうしてそんなことが分かるんだ、と絡んでくる人がいそうだけれど、動物は、脳の構造からして、人間のように確固とした自我を有していないので、死ぬのは怖くない、と考えて差し支えない。

 人間が死ぬのが怖いのは、自我がなくなるからである。前述のように現在の脳科学の見解では、自我は前頭連合野に局在するようだ。ここは人間で一番よく発達している。個人の内的な感覚としては、自我は自分以外の全存在と拮抗する唯一無二の実在である。自我がなくなるということは、自分以外の存在物(の少なくとも一部)は無傷のまま保たれるのに、自分にとって唯一無二の自我が喪失することを意味する。従って、死が自我の喪失を不可避にもたらすのであれば、死が怖くないわけはないということになる。

 宗教は死後の自我の存在を保証すると言っているわけだから(もちろん空手形に決まっているけれどね)、自我の喪失が怖い人にとって、一縷の望みだという話はよくわかる。それで、カルト宗教は、お布施をすれば天国に行けると騙して、死ぬのが怖い人から金を巻き上げるわけだ。全世界的に見れば、何らかの宗教を信じている人の方が多いのは、多くの人は死の恐怖を、死後の自我の存在を信じることによって紛らわせようとしているからである。(25頁)

 

池田清彦生物学者。友人のT氏に勧められて読んだが、面白かった。

傍線部のような「自我」の解釈は、腑に落ちる。

たぶん、歴史的に自我をこんなふうに強く意識されていくのは近代以降ではないのか。

渡辺京二の『江戸という幻景』の中に、ちょっとしたことで「死んでやるよ!」と簡単に死んでしまう江戸っ子の話が載っていたように記憶しているが、池田の論で言えば前頭連合野の発達が、江戸時代と現代ではかなり違うということになる。どうなんだろう。文化の問題か?

軽々には言えないが、逆に考えれば、自殺する人々は(多くは精神が惑乱していて当たり前の判断ができない状態であることは別としても)、自我を抹消することで自分以外の全存在と拮抗することを望んでいるのではないか。

 

自我というのはこうして考えてみると厄介なものだ。

「他人の身になって考える」とはよく言われることだが、他人の身になって考えるというのは想像力によるしかないのだが、多くは「他人の身になって考え」ているような気持ちになっているに過ぎないのかもしれない。自我はそれほどに絶大なのだ。

自我の肥大化ということが、言われた時期があった。子どもたちの話である。

簡単に言えばワガママが肥大化して、他人の気持ちを考えない子どもが増えたという文脈で語られるパラフレーズだったが、これを想像力の欠如とか教育の力の弱さのように捉える向きもあったが、それより自我は長い時間かかって肥大化を続けていると考える方がいいのかもしれない。

肥大化した唯一無二の自我が喪失する、確かにこれほど怖いものはない。

宗教では神のような存在に依拠することで、恐怖心から逃れられるように考えるようだが、これを信じるにはさまざまな自我のありようなど忘れるための盲信のようなものが必要になる。

 

死は、体が弱って行先を考えている時が怖い。

死んで仕舞えば、全て無、何もないのだから、怖いなどと考えることもないはずだ。

池田風に言えば、死んで自我が消えれば全てチャラ。

そう考えれば、心は平らかに? ならないのが、またこれ自我のなせる技なのだ。

 

全体は3章に分かれていて

1 人間に”生きる意味”はない

2 生物目線”で生きる

3 ”考える”を考える

4 この”世界”を動かすものは

 

博覧強記、縦横無尽、視点の転換・・・。

生物学から政治や世界情勢までを論じる。筆致は軽い。

虫の話がとりわけ面白い。

瀬谷駅にある昆虫食自販機。拡大してみてください。