『人間は老いを克服できない』(池田清彦・2023年12月・角川新書・900円税別)死んで自我が消えれば全てチャラ

『人間は老いを克服できない』

   (池田清彦・2023年12月・角川新書・900円税別)

 

 動物は、苦痛から逃れたいとは思うだろうが、死ぬのは怖くないに違いない。そう断言すると、動物になったことがないのに、どうしてそんなことが分かるんだ、と絡んでくる人がいそうだけれど、動物は、脳の構造からして、人間のように確固とした自我を有していないので、死ぬのは怖くない、と考えて差し支えない。

 人間が死ぬのが怖いのは、自我がなくなるからである。前述のように現在の脳科学の見解では、自我は前頭連合野に局在するようだ。ここは人間で一番よく発達している。個人の内的な感覚としては、自我は自分以外の全存在と拮抗する唯一無二の実在である。自我がなくなるということは、自分以外の存在物(の少なくとも一部)は無傷のまま保たれるのに、自分にとって唯一無二の自我が喪失することを意味する。従って、死が自我の喪失を不可避にもたらすのであれば、死が怖くないわけはないということになる。

 宗教は死後の自我の存在を保証すると言っているわけだから(もちろん空手形に決まっているけれどね)、自我の喪失が怖い人にとって、一縷の望みだという話はよくわかる。それで、カルト宗教は、お布施をすれば天国に行けると騙して、死ぬのが怖い人から金を巻き上げるわけだ。全世界的に見れば、何らかの宗教を信じている人の方が多いのは、多くの人は死の恐怖を、死後の自我の存在を信じることによって紛らわせようとしているからである。(25頁)

 

池田清彦生物学者。友人のT氏に勧められて読んだが、面白かった。

傍線部のような「自我」の解釈は、腑に落ちる。

たぶん、歴史的に自我をこんなふうに強く意識されていくのは近代以降ではないのか。

渡辺京二の『江戸という幻景』の中に、ちょっとしたことで「死んでやるよ!」と簡単に死んでしまう江戸っ子の話が載っていたように記憶しているが、池田の論で言えば前頭連合野の発達が、江戸時代と現代ではかなり違うということになる。どうなんだろう。文化の問題か?

軽々には言えないが、逆に考えれば、自殺する人々は(多くは精神が惑乱していて当たり前の判断ができない状態であることは別としても)、自我を抹消することで自分以外の全存在と拮抗することを望んでいるのではないか。

 

自我というのはこうして考えてみると厄介なものだ。

「他人の身になって考える」とはよく言われることだが、他人の身になって考えるというのは想像力によるしかないのだが、多くは「他人の身になって考え」ているような気持ちになっているに過ぎないのかもしれない。自我はそれほどに絶大なのだ。

自我の肥大化ということが、言われた時期があった。子どもたちの話である。

簡単に言えばワガママが肥大化して、他人の気持ちを考えない子どもが増えたという文脈で語られるパラフレーズだったが、これを想像力の欠如とか教育の力の弱さのように捉える向きもあったが、それより自我は長い時間かかって肥大化を続けていると考える方がいいのかもしれない。

肥大化した唯一無二の自我が喪失する、確かにこれほど怖いものはない。

宗教では神のような存在に依拠することで、恐怖心から逃れられるように考えるようだが、これを信じるにはさまざまな自我のありようなど忘れるための盲信のようなものが必要になる。

 

死は、体が弱って行先を考えている時が怖い。

死んで仕舞えば、全て無、何もないのだから、怖いなどと考えることもないはずだ。

池田風に言えば、死んで自我が消えれば全てチャラ。

そう考えれば、心は平らかに? ならないのが、またこれ自我のなせる技なのだ。

 

全体は3章に分かれていて

1 人間に”生きる意味”はない

2 生物目線”で生きる

3 ”考える”を考える

4 この”世界”を動かすものは

 

博覧強記、縦横無尽、視点の転換・・・。

生物学から政治や世界情勢までを論じる。筆致は軽い。

虫の話がとりわけ面白い。

瀬谷駅にある昆虫食自販機。拡大してみてください。