『未明の砦』(太田愛)を読む。・・ この国の人間には社会という概念がないのだ。あるのは帰属先だけ。自分のいる会社、自分のいる学校、自分のいる家族。顔の見える相手がいて息苦しい人間関係に縛られた帰属先しかない。そもそも社会という概念がないのだから、社会にどれほど醜悪な不正義や不公正が蔓延しようと、自分に実害がないかぎり無関係な事象でしかないのだ。

9日、朝。気温3℃。

満開のミモザと降霜、奥に咲いているのは緋寒桜だろうか。

冬と春が同居する。今朝も快晴。丹沢の雪も富士山も輝いている。気温2℃。

 

太田愛『未明の砦』(KADOKAWA・2023年7月・2860円)、600ページある大部の小説。三日かかったが読み終えた。後半、一気に。大きなテーマは公安による共謀罪の適用。

とはいえ、政治や経済にとどまらず、労働のあり方まで含めたサスペンスは珍しい。

トヨタと思しき大手自動車メーカーで働く4人の非正規労働者たちが主人公だ。工場内の人間、会社の人間ほかに、警察官、労働運動活動家、警備員、掃除スタッフなどさまざまな年代、階層の人物がそれぞれ彫りの深い人物造形で登場する。下のあらすじだけでは捉えきれない面白さがある。

ついこの間、ブレイディみか子の『R・I・S・P・E・C・T』(筑摩書房・2023年8月・1595円)を読んだが、これも面白かった。どちらにも共通するのが、イギリスの女性参政権運動サフラジェットが、下敷きになっていることだ。『未明の砦』の方は、戦後の労働運動の労使一体の形に対し、明らかに否定する立場、労働者の自立が前提となっている。ラストシーンはネタバレになるので書かないが、非正規の若者4人が、自前の労組をつくり、公然化していく過程はワクワクするものがある。

現在の日本の政治、経済、労働、警察、検察などを、トータルに描いていて圧巻だ。

ところどころリアリテイに欠けるところはあるが、それを差し引いても十分に読者を楽しませ、考えさせる小説になっている。

2冊とも今の日本を考える上で意義のある本だと思う。

 

あらすじ(Amazonから)

共謀罪、始動。標的とされた若者達は公安と大企業を相手に闘うことを選ぶ。
その日、共謀罪による初めての容疑者が逮捕されようとしていた。動いたのは警視庁組織犯罪対策部。標的は、大手自動車メーカー〈ユシマ〉の若い非正規工員・矢上達也、脇隼人、秋山宏典、泉原順平。四人は完璧な監視下にあり、身柄確保は確実と思われた。ところが突如発生した火災の混乱に乗じて四人は逃亡する。誰かが彼らに警察の動きを伝えたのだ。所轄の刑事・薮下は、この逮捕劇には裏があると読んで独自に捜査を開始。一方、散り散りに逃亡した四人は、ひとつの場所を目指していた。千葉県の笛ヶ浜にある〈夏の家〉だ。そこで過ごした夏期休暇こそが、すべての発端だった――。
自分の生きる社会はもちろん、自分の人生も自分で思うようにはできない。見知らぬ多くの人々の行為や思惑が作用し合って現実が動いていく。だからこそ、それぞれが最善を尽くすほかないのだ。共謀罪始動の真相を追う薮下。この国をもはや沈みゆく船と考え、超法規的な手段で一変させようと試みるキャリア官僚。心を病んだ小学生時代の友人を見舞っては、噛み合わない会話を続ける日夏康章。怒りと欲望、信頼と打算、野心と矜持。それぞれの思いが交錯する。逃亡のさなか、四人が決意した最後の実力行使の手段とは――。
最注目作家・太田愛が描く、瑞々しくも切実な希望と成長の社会派青春群像劇。第26回大藪春彦賞受賞作。

 

未明の砦

引用

公安の要職にある萩原琢磨(警察庁警備局警備企画課課長)の独白

ーおまえも常々言ってたじゃないか。日本には民主主義は根づかなかったとな。確かに、と萩原は思った。それは、この国の民主主義が国民の手で勝ち取られたものではなかったからだ。民主主義は人間の長い歴史の中で、民衆が王や宗主国などの巨大な権力と闘い、革命や戦争による犠牲も厭わずもぎ取ってきたものだ。しかし、この国はそうではない。広島、長崎と原爆を投下され、ようやく敗戦を迎えた後に、民主主義もまた投下されたのだ。

 突如として、想像もしなかったような景色が開けた。臣民が国民となって国家の主権を持ち、大人も子供も老人も国のために死ねと命じられることがなくなった。ひとりひとりの人権が保障され、女性に参政権が与えられ、労働組合法が作られ、国民は健康で文化的な生活を営む権利を有するまでになった。しかし、投下された民主主義が根づくことはついになかったのだ。

 すでに選挙制度すらまともに機能していない。主権者の責任を果たしている者は半数そこそこで、結果として国の行き先を決めているのは無関心な者らなのだ。政治家という名の利権分配屋は何をしても処罰されることなく、もはや法治国家でさえなくなりつつある。

 この国の人間には社会という概念がないのだ。あるのは帰属先だけ。自分のいる会社、自分のいる学校、自分のいる家族。顔の見える相手がいて息苦しい人間関係に縛られた帰属先しかない。そもそも社会という概念がないのだから、社会にどれほど醜悪な不正義や不公正が蔓延しようと、自分に実害がないかぎり無関係な事象でしかないのだ。

 社会とは空気のようなものだ。生きるためには呼吸せねばならず、体のどこかは常に空気に触れている。だがこの国の人間は、その空気が不正義や不公正に汚染されて次第に臭気を放ち始めても、世の中はそんなものだと呟きながらどこまでも慣れていく。コロナ禍でいわれたようにこまめに手洗いするなど身体的な衛生観念は高いのだろうが、自分たちの社会に対する不潔耐性も極めて高いのだ。

 時折、萩原はこの国にある規範は二つだけではないのかと思う。《自己責任》と《迷惑》だ。別に今に始まったことではない。江戸の昔から共助社会だったといわれているが、共同体からの助けは、ある種の辱めや罰と引き換えにしか与えられなかった。年貢を払えず村に助けてもらった農民が、米を提供してくれた人の家に入る時には門の手前で履き物を脱いで違うようにして入れと命じられた例さえあった。おかげで、助けを求める屈辱よりも夜逃げを選ぶ家もあったという。(514ページ)

網羅的ではあるが、現在の日本の状況について、さまざまなレベルでの分析が登場人物によって随所で語られる。