3日。4月最初の映画に出かける。
街を歩くと、スーツ姿の若者に行き合う。
3日目ともなると、何人かで連れだって歩く姿にも余裕が見えるが、1日は違った。
男女の就活ルックの2人が、スマホを見つめながら急ぎ足で歩いていくのに行き合った。
時間は9時半。出社時間を過ぎているのではないかと余計な心配をしながら、うしろ姿をしばし眺めていた。
思えば、1976年4月1日。
私は辞令公布式会場に遅れず到着した。今はない教育文化センター(現在は関東学院大学のキャンパス)。教育委員会が入っており、面接もここでやった。間違いないと思っていた。余裕だった。
ただ一つの違和感は、受付で書類とともに横浜市のそろばんのマークのようなバッジも一緒にもらったことだ。
教員もバッジをつけるのか?という疑問。面接で赴任校を訪れた時には誰もつけていなかった。
適当に座席に坐って周囲を見渡すと、あちこちに立っているプラカードには総務とか教委などとある。
不安が芽生える。ここ、違うのか?
受付に戻り、教員ですけどと告げると、怪訝な顔で「え?教員は関内ホールだよ」という。
渡されるままに書類を受け取って黙って坐っている方もおかしいけれど、名前も確認しないで書類やバッジを渡してしまう方もかなりいいかげんだ。
いやいや、やっぱり初日から会場を間違えてくる初任者の方がずっとおかしい。
式が始まるまで5分しかない。
「走れば5分で行けるよ」の声にダッシュで市民ホール(旧・横浜宝塚劇場、1970年から市民ホール、現・関内ホール)へ向かう。
息切らせてかなり老朽化した市民ホールの座席に坐った時に式が始まった。
隣に坐っていたのが、今でも付き合いのあるIさん。最初から遅れてくるなんて
「なんてやつだ」と思ったと、あとから言われた。
今となってみれば、38年間の教員生活を象徴するような4月1日。
2人のうしろ姿を見ながら、「間に合うといいな」が口をついて出てきた。
1976年の芥川賞受賞者。作品は『限りなく透明に近いブルー』。人気作家のW村上の1人。