境川でイタチ発見。  多田謠子反権力人権賞受賞発表会 宮城秋乃さん 青木惠子さん そして北村小夜さん。

今朝、4時の気温、0.9℃。5時には2℃を超え、夜明け直前の6時半にまた0.9℃に。

へえ~。

 

きのう、境川河畔。

葉を落とした木にとまるシジュウカラを見つけて眺めていると、珍しくメジロを3羽見つける。きれいなウグイス色。

 

きのうの収穫はまたまた初めての生物の目撃。

先日はアライグマだったが、今度はまた珍しいものを。

目撃、発見というのはおこがましい。いつも先様が先住者。

 

発見者はまたまたMさん。

歩いていると、やおら向こう岸を指さし、「なに、あれ!」

 

シロサギ、アオサギが数羽群れている葦の間を、出たり入ったりしている生き物。

体長は50㎝ほど。尻尾の長さも入れて。中ぐらいの長めの茶色の大根状?

水辺の足の間をちょろちょろと歩き回っている。

 

知っている限りの動物名出してみる。オコジョ、テン、ハクビシン、カワウソ・・・。

 

1分ほどで見えなくなる。

 

帰宅して調べてみたところ、どうも鼬(いたち)らしい。

f:id:keisuke42001:20201220165439j:plain

      ネットから拝借しました

直接川に入ったところは見なかったが、水の中も器用に泳ぐようだ。ネット上の動画では走るのも早いし泳ぐのも達者なのが撮影されている。

 

「・・・小柄な体格ながら、非常に凶暴な肉食獣であり、小型のげっ歯類や鳥類はもとより、自分よりも大きなニワトリやウサギなども単独で捕食する。」とwikipedia

サギを狙っていたのかもしれない。

 

ネットには神奈川県内の緑地減少との関連でイタチの生息状況を調査した論文もあった。一方、家の中に入り込まれて被害を受けるという記事も。アライグマやハクビシン同様駆除の対象に。

 

境川河畔を散歩をするようになって11年。今年は2種類の哺乳類に遭遇したことになる。

 

午後から多田謠子反権力人権賞受賞発表会に出かける。

会場は新御茶ノ水の連合会館。

f:id:keisuke42001:20201220180405j:plain

 

字面通り「卒業証書授与式」のような賞を授ける式ではなく、賞を受けてもらい発表をしていただく会とのこと。

この会に出席するのは2005年に北九州の「ココロ裁判原告団」が受賞した時以来、15年ぶり。ココロ裁判の中軸は北九州がっこうユニオン・ういのメンバー。竹森真紀さんが「発表」をした。全学労組の仲間が集まってずいぶん盛り上がったのを覚えている。

 

 

この会は、夭逝した弁護士の多田謠子さんの遺産をもとに1989年につくられたもの。

 

第1回の受賞者は、徐君兄弟を救う会事務局長の西村誠氏、日の丸焼き捨て「被告人」の知花昌一さんら。30年以上続いている。

 

今回は障害児教育にかかわって「分けること」に反対してきた北村小夜さんが受賞するというので、全学労組、横校労の仲間たちともにお祝いに駆け付けることにした。

手ぶらでは…と思い、MLで呼びかけたらすぐに20名ほどの賛同が得られ準備をした。

 

今回の同時受賞者は、まず沖縄の米軍北部訓練場での軍事廃棄物撤去闘争の宮城秋乃さん。コロナ化もあって今回はビデオメッセージで受賞の喜びを伝えていただいた。

f:id:keisuke42001:20201220180459j:plain

宮城さんはチョウの研究者。やんばるにチョウの調査で入るうちに、返還後の米軍の軍事廃棄物の危険性に気付き、その撤去運動を進めてきた方。

高江のヘリパッドや辺野古新基地の反対運動については知っていたが、この運動は知らなかった。

やんばるが観光地化する中でこれからも軍事廃棄物の危険性が表面化してくるのではないか。軽快にやんばるの中を動き回る秋野さん、かっこいいなと思った。

f:id:keisuke42001:20201220180540j:plain

 

二人目は青木惠子さん。

長女の放火殺人の罪で無期懲役となり、20年以上も服役した青木さん。その取り調べ過程の過酷さ、理不尽さ、1審、2審、3審と負け続け、再審に至るまでの経緯を話してくださった。

 

悪質な見込み捜査と取り調べの過酷さはもちろんだが、驚いたのは再審請求が認められ、釈放となる10分前に裁判所が検察の即時抗告を認め、釈放が取りやめになったというお話。20年近くの刑務所生活からようやく出られるという希望が目の前で砕かれる。

むごい話である。

f:id:keisuke42001:20201220180621j:plain

青木さんは数年後に釈放されるが、お話で印象的だったのは「刑務所に戻りたいと何度も思った」というところ。はかりしれない話である。

今、冤罪と闘っている人々に連帯し支える運動を続けていらっしゃる。

著書『ママは殺人犯じゃない 冤罪・東住吉事件』(インパクト出版 1800円+税)

を買い求めた。

 

最後に北村小夜さん。

北村さんは1925年生まれ。三島由紀夫と同年の生まれである。95歳。

早めに到着したので、会の始まる前に少しお話をした。

「急におめでとうって電話があって・・・驚いたわよ。でも障がい者の人たちが喜んでくれたから受けることにしたけど、そうでなかったら私なんか、こんな賞もらわないよ」

 

お話は軍国少女だった頃のことから始まる。

「先生よりも親よりも私は好戦的な子どもだった。戦争に巻き込まれたのではなく、まぎれもなく私が戦争をしていたのだと思う」

こういういい方が北村さんだ。昨年亡くなった、女たちの戦争責任にこだわり続けた加納美紀代さんと同じスタンスだ。女、子どもを被害者の位置にずらしてはいけないということだ。

f:id:keisuke42001:20201220180651j:plain

戦後、北村さんは教員になる。1950年のことだ。私は生まれていない。

1958年に学習指導要領が法的拘束力を持つようになるまでの8年間が、自由で素晴らしい時期だったという。

5年生の学級担任として憲法を学んだ。「象徴とはなんだ」をテーマに長い間議論を続けた。クラスの児童と北村さんの結論は「あってもなくてもよい」。

 

この時期のことを私が想像できるのは、膨大な作品群をもつ奥田継夫が書いた「中学時代 男女共学一期生」などの小説だ。あの物語の中にいるうら若い女性教師が北村さんだ。

 

教育委員会が任命制になり、全国一斉学力テストが始まるころ、北村さんは中学の特殊学級の担任になる。

 

花柄のスーツで着任した北村さんは、グレーの上っ張りのような「仕事着」に着替えて教室に行く。すると、ある生徒が

「どうしておれたちのところにはきれいな服で来ないの。おれたちが汚すと思ってるの」

北村さんはすぐに着替えに戻った。

 

また、ある子には「先生も落第したの?」と言われたという。

 

特殊学級から普通学級に勉強をしに行く「交流」に反対する、ここが原点。

「一緒がいいならなぜ分けた」

 

会場はコロナへの対応で、窓が半開状態。昨日の午後は日も出ず寒かった。3時間以上坐ったままで私は少し体調が悪くなってしまった。

北村さんは1時間以上、話をされた。勝ち負けじゃないが、完全に負けている。

配られたのは手づくりの資料。最近はパソコンを使われるようになったが、以前は几帳面なガリ版用の文字だった。

資料の年表の下のほうに小さく(作成 北村)とある。

 

最後に

子どもは分けたがっても分けられたがってもいない。大人がどんなに頑張っても友達の代わりはできない。将来にわたって地域で生活するには地域で場数を踏むしかない。

”分けた側の不幸は計り知れない。”

重い言葉だ。

 

お話の中で、数年前にこの多田謠子反権力人権賞が財政的にひっ迫してきたときに

北村さんは「私が死んだら住んでいるマンションをカンパするから」と言ったという話はよく知られている。

「まだ生きていてごめんね」と笑いながら話す北村さん。

 

私は20代半ばで北村さんにお会いして、以来40年以上たつのだが、いまだに北村さんの前に立つとふだん弛緩している部分がぴんと張り詰めるような感覚に襲われる。簡単に言えばビビってしまうのだ。気持ちのいいビビりでもあるのだが、これからもできる限り長くこの感覚を味わいたいものだ。

 

 早めに出たあと、交流会があり、花束など荷物がたくさんある北村さんに、横校労の若手組合員朝野さんが「私がおうちまでお付き合いします」と言って、ご自宅まで同行したとのこと。

たくさんお話しできて面白かったです、と今朝のメール。

そういえば一度だけ北村さんのご自宅に伺ったことがある。

これが北村さんの家だと実感できる、本に囲まれた清楚で簡素なお宅だった。