『鬼滅の刃』3日間で342万人動員。その影響は・・・。老後のささやかな愉しみを奪ってほしくないなと思う。

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写真はネットから拝借しました


相変わらず不順な天気。今日も朝から照ったり曇ったりだ。

 

授業の資料の始めにどうでもよいことを書いている。オンラインだし、「まくら」を振るのも気恥ずかしいからその代わりに。

 

『「女心と秋の空」ということわざ、聞いたことありますか。女心は秋の空のように変わりやすいものだという意味で使われることわざです。しかし、このことわざ、本来は「男心と秋の空」が転じたものだそうです。男心の方が変わりやすいというのが本来の意味となりますが、みなさんには二つのことわざ、どっちがしっくりきますか?

「男心」のことわざは江戸時代が発生と言われます。女性に比べて既婚男性への寛容さがまだ強かった時代、浮気性の男が多かったからか、こんなことわざができたのでしょう。

「女心」の方は大正時代の浅草オペラで「女心の歌」が歌われたころから人口に膾炙するようになったようです。大正デモクラシーの中で女性の自立、自由が社会的なトレンドとなった時代。女だって奔放な恋愛をしたいということだったのかもしれません。

 いま現代ではこのことわざ、「女心」のほうばかり残って「男心」のほうはほとんど使われません。

 実際はどうなのでしょう。自分のことを振り返ると「男心」のほうがうつろいやすく、変わりやすいように思われますが、人にもよるし、一概に男女の違いで言えることではないというところに落ち着きます。

それに現代では、男だ女だと二つの性だけで考えること自体がフェアとは言えないわけで、多様性の時代に向かう途上にあると考えるとこのことわざ、「ひとのこころと秋の空」がいいのかもしれません。』

 

ちょっと「よそ行きだな」と思いながら書いているのだが、学生が読んでいるかどうかはわからない。

以前なら一茶の〈はずかしやおれの心と秋の空〉で締めていただろうなと思う。

 

そうしないのは、男女の性差だけで判断すると見えないものがたくさんあると、遅ればせながら考えるようになったからだ。

 

授業の始めにウオーミングアップのようなつもりで、新聞記事の感想などを書いてもらう。

2回目に杉田水脈衆議院議員の「女はいくらでもウソをつける」発言を取り上げた。

多くは杉田議員に対して「女性蔑視である」「国会議員にふさわしくない」という批判だった。

こちらから「LGBTは生産性がない」という彼女のかつての発言と最近の足立区の白石区議の発言を提示すると、「ああ、なるほど」という反応。

性の問題が、国家とか生産ということとつながるのだというのがぴんと来てないようだった。

 

今でも私などつい男は、女はとやってしまうが、とりあえず一度立ち止まって、新しいフィルターに自分の発想を通してみることが大事だと思うと、自分の感想を伝えた。

 

 

 

先日見た『星の子』、今日これから見に行く『望み』、ともに10月9日が封切りだが、グランベリーシネマでは『星の子』が19時10分から1回のみ。『望み』は16時35分から1回のみになっている。

それぞれ座席は65と80。

 

『星の子』は封切り上映館が全国で191館、『望み』は347館。

 

封切り当初は3~4回上映だったものが、2週間で1回にまで減ってしまうと、このあと打ち切りになるのは時間の問題。

『みおつくし料理帖』(9日)『82年生まれ キム・ジヨン』(16日)も1回上映になっている。

厳しいものだ。

広告宣伝費にお金をかけるのもわかる。

『カメラを止めるな』のように単館上映から一気に全国に広がった映画は稀有だ。

多くは封切りから2週間ほどで一気に客を集める。

そのあと2番館へ。そしてDVDとなり、レンタルやネット系の有料映画サイトへ。

このサイクルが、以前に比べ短くなってきているようだ。

ただ今回の急な上映縮小は別の要因もあるようだ。

 

というのも、先日グランベリーシネマで珍しい行列入場を見たからだ。

 

鬼滅の刃』。16日に公開されて、3日間で46億円の興行収入があったという。342万人が見たというのだが、すさまじいものだ。

今日のグランベリーシネマ、公開から8日目だが、10スクリーンのうち6スクリーンが『鬼滅の刃』。上映回数は23回。

上映館の数は『望み』もひけを取らないが、上映回数は全く違う。全国のシネコンで同じことが起きているのだろう。

 

前掲4つの映画がさほど不人気というわけでもないのに、短期間で狭いスクリーンでの1回上映に追いやられたのは、『鬼滅の刃』全国一気上映の影響があったのだろう。

 

15日まで一席ずつ空いていた座席も16日から通常通りに。

映画業界としては上半期にコロナで受けた被害を取り戻す大きな契機となったことは間違いない。

 

家でごろッとなりながら見る映画もいいが、映画館のスクリーンで見る映画は全く別物だ。

たとえちまちました邦画でも、大きなスクリーンで見たいもの。

鬼滅の刃』のようなモンスターのようなアニメが出てくると、その時期に封切られる「ちまちました邦画」は吹っ飛んでしまう。

 

昨日から公開となった河瀨直美監督の『朝が来る』が楽しみ。

しかし上映時間は9時35分、15時35分、21時25分。2日目でこの時間設定。

これも『鬼滅の刃』の影響だろう。

 

老後のささやかな愉しみを奪ってほしくないなと思う。

 

『本気のしるし』232分かけて男女のどろどろの転落劇・・・というので楽しみに見たのだが、 終わってみれば、これって純愛映画?

22日、曇天。またもや気分が晴れない。映画に行くことにした。

若葉町のジャック&ベティ。

4時間近い映画、昼飯が食えないので、まだ11時前だが日ノ出町駅前の富士そばでてんぷらそば。朝食が5時過ぎだから特に早いわけではないが。

 

『本気のしるし』(2020年/232分/日本/監督:深田晃司/脚本:深田晃司・三谷伸太朗/出演:森崎ウイン 土村芳 宇野祥平 石橋ケイ 北村有起哉

 『淵に立つ』(2016)『よこがお』(2019)、どちらもけっこうおもしろかった。

これも232分かけて男女のどろどろの転落劇・・・というので楽しみに見たのだが、

終わってみれば、これって純愛映画?。

ぞくぞくしたシーンは冒頭のコンビニと踏切のシーン。

土村芳演じる浮世の人格的に壊れているのに男性を強く惹きつけるアンバランスぶり。

これがそのままどろどろの転落劇へといけばすごい映画になったのだろうけれど、

浮世はそれほど変な人でもなく、途中からどんどんまともでいい女になっていく。土村芳、そのままの清楚な雰囲気、こわれない。

やくざの脇田(北村有起哉)は悪役になりきれないし、浮世の亭主の葉山もなんだか中途半端。

森崎ウインは若い男の正義感と冷めた感覚がないまぜになった役をうまく演じている。

 

カンヌの審査員に好かれているふうの雰囲気がないわけではないが、232分かけてつくる映画かな。

 

途中に休憩が入った。

 

帰途、の下を通ってピおシティ。ホームベースで一人呑み。この地下一帯、昼間から飲める店が増殖中。3時過ぎだけどどこも客が入っている。新しい店がざっと5,6軒。

 

 

『星の子』原作の「文学臭」が消えて、上質の青春映画に。ただ、邦画の定石?走るシーンと海のシーンはいらない。

19日、月曜日。雨もよい。気分が晴れない。

こういう時は映画。

二人とも原作を読んでいる『星の子』。

座席はもうひとつ空けにはなっていない。

ネットで予約するが、空席多し。

 

雨なのでクルマで。10分もかからず着く。郵便局など一つ二つは用事が済ませられる。

 

『星の子』(2020年/110分/日本/原作:今村夏子/監督・脚本:大森立嗣/出演:

芦田愛菜 岡田将生 大友康平 黒木華 高良健吾 新音ほか)

Mさんの評判はイマイチだったが、私はかなり良いと思った。

原作を読んだ時は、それまでの今村夏子作品とは少し違って(寡作なのでほとんど読んでいる)、奇をてらっているように感じたのだが、大森監督の脚本で「文学臭」がきえて、上質な青春映画になった。

大森監督の映画はこれまで『日日是好日』『菊とギロチン』『光』『俳優 亀岡拓次』 『セトウツミ』 『さよなら渓谷』 『かぞくのくに』 『まほろ駅前協騒曲』を見たが、『日日是好日』だけが群を抜いていて、あとはあんまり。『光』『かぞくのくに』などひとりよがりだなあと思った。

 

『星の子』は系列的には『日日是好日』。特に大きなドラマもなく、淡々とした味わい。

主人公芦田愛菜の造形は驚く。

中学3年が主役なのに、芦田の演じるちひろは、ミニスカートでもなく、髪の毛も染めていない。長めのスカートに白いソックス。おかっぱ頭。この姿は横浜で言うと何十年も前からの中学1年生女子の格好。

対照的なのが友達のなべちゃん。新音(にのん)。どこかで見たことがある。『まく子』に出ていた。主人公だった。不思議に印象に残っている映画。草彅剛が父親役で出ていた。新音も宇宙からやってきた子のようだった。

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このなべちゃんと付き合っているようないないような男子新村くんのからみが味がある。   

さらに岡田将生の南先生。言葉遣いにたいへんなリアリティがある。

教室もすごい。これはつくられたセットではないだろう。本物にちかい。

 

ちひろが生まれた時にすがる思いで頼った健康食品、じつは新興宗教なのだが、10数年経った今もちひろの両親はこれにどっぷりとはまったまま。

 

ちひろの姉は家を出てしまう。

ちひろのおじは、えせ宗教ぶりを暴くがかえって妹であるちひろの母(原田知世)と父に反発される。

 

ちひろが憧れる南先生に、両親が夜の公園で頭にタオルを載せているところを目撃され…。

 

両親、伯父、教員、黒木華と高良健吾が演じる宗教団体の若いリーダーなど、ちひろが何人もの大人たちに関わりながら感じていく精細な違和感を芦田愛菜が好演している。

誰もが善意で接しながら、思春期の子どもたちのやわらかい部分を容赦なく突き刺す。

大きな声でそれに対して反発すればドラマチックではあるが、実際の多くの子どもたちは、反発を飲みこみ、何とかつじつまを合わせようとして内向する。

そんなところを映画として掬い取った今村夏子、大森立嗣。すばらしい。でもどうして大森監督、演出の良しあしが映画によって激しく出てしまうのだろう。

 

文句があるとすれば、芦田が走るシーン、それと海のシーン。

このふたつが邦画にはほんとうに多い。これだけで映画の品が落ちるような気がする。

 

「走る」というのは、登場人物の中で何かがはちきれたことを象徴していることが多いが、芦田が走るシーンほどこの映画にふさわしくないものはないと思った。

 

海のシーンは、たいていの映画で「場面転換」によく使われる。登場人物の心象風景が切り替わる、あるいは違うステージに向かうようなところで。

このシーンもいらない。

 

しかし、それを差し引いても、この映画、私は好きだ。

通勤していないのに、通勤していないから、終わると妙な疲労感が残る。 始まっても自分の部屋、終わっても自分の部屋・・・だ。

オンライン授業、昨日で4回目が終わった。

 

通勤していないのに、通勤していないから、終わると妙な疲労感が残る。

始まっても自分の部屋、終わっても自分の部屋・・・だ。

 

1~3回目は、Zoomそのものの操作に戸惑い、あたふたしたが、ようやく慣れてきた。

カメラに向かって話すのも、少し力が抜けるようになった。

自分のリズム、自分の音量が戻ってきたと感じられた。

 

ただ、出席する学生が一定しない。

今年はコロナの影響で、前期に教育実習を終えられなかった学生がたくさんいる。

私の授業の登録している18人のうち、前期のうちに実習を終えているのは5人だけ。

13人は現在実習中か、これから実習にはいるか、だ。

 

昨日はふたりが初めて出席する予定。

1人は無事にZoomに入ってこられたが、1人は最後まで入れなかったらしい。

遅くにメールが入ってそれがわかった。

 

やっていることの継続性・・・というほどのものでもないのだが、やっぱり続きものは途切れると困る。

 

その分、用意する資料はどんどん増える。

この資料をZoomの機能の「文書共有」で画面に出す。

学生には事前に「掲示板」に送信してある教材は、プリントアウトするかデータで保存しておくかどっちかに、と伝えているのだが、なかなかうまくいかない。

 

それでも苦労している人もいて、学生の画面を見ていると、パソコンで私の方を見ながら、資料はスマホを見ているという人がいる。

 

こんなにしてまで・・・このめんどくささ!

独特の手触り感のなさ、ヴァーチャル感を私は「災難」だと思っているのだが、考えてみれば私なんかより学生の方がもっと災難だろうと思う。

 

大学生活最後の年、年度当初から構内には入れず授業もオンライン。アルバイト先からは休んでくれと言われ、教育実習に行っても「授業中の生徒とのやりとりはなし」などと言われ、大学に戻って授業を受けようにも授業の空気感の感じられないZoomの授業。画面の中ではあたふたと老人(私のことですが)がしゃべっている・・・。これも教育実習も、受けなければ教員免許が取れない・・・。

 

まだ就職先が決まっていない学生も多い。各都道府県の採用試験の二次試験の結果がようやく出始めたところだ。

不安だろうなと思う。

 

友だちとの外食すらまあならない状態だから、卒業旅行だっておぼつかない。

 

彼らにはこの一年は「空白の一年」と記憶されるのだろうか。

 

たった15回の授業。残すところ11回。ひっかき傷のひとつぐらいは残してやりたいものだとは思うのだが、私の方も空白部分が増すばかりで…。

 

 

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「継承とは、そのまま伝えることではなく、被爆者の証言を聴いてそれを自分はどう思ったか、それを受けて自分はこれから何をしなくてはならないか、何をしたいのか、そこを付け加えて表明することだと、ぼくは考えます」

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広島の友人からこの記事を送ってもらった。

豊永恵三郎さんは、在職時、何度か生徒たちに被爆体験を話していただいた方。記事にもあるように、戦後、在日朝鮮・韓国人の在外被爆者問題に取り組んできた方だ。

 

短い記事だが、広島市の「被爆体験伝承者」養成事業についての問題提起は重要だ。

この問題についてはこのブログでも触れたが、伝承者は原発を批判するような文言を講話に入れるなと行政が言うのは全くおかしな話。人類最初の核攻撃を受けた地である広島の行政として「伝承すること」の認識の底の浅さを露呈した問題。

 

豊永さんの

「単に被爆当時のことを伝えるだけでは被爆体験も普遍化はかなわない」

被爆者が言わないことを、伝承者が言ってもいいじゃないですか」

ということば。

事実を伝えるだけでは「被爆体験は普遍化しない」には、豊永さんの被爆体験者として長い間歩んできた思想の深さがこもっている。

 

宮崎記者と豊永さんの間を取り持った方に対して、豊永さんは補足として次のように語ったという。

 

「宮崎さんの書いてくれたことのほかに、まだ大事なことを言いました。それは、継承とは、そのまま伝えることではなく、被爆者の証言を聴いてそれを自分はどう思ったか、それを受けて自分はこれから何をしなくてはならないか、何をしたいのか、そこを付け加えて表明することだと、ぼくは考えます」

 

アウシュヴィッツを訪れた時、たった一人の日本人の公式ガイド、中谷剛さんが同様の主旨のお話をしていた。

ポーランド人やドイツ人ではなく、日本人である自分が語れるアウシュヴィッツがあるはず。

 

彼の精神と身体を通して語られるアウシュヴィッツは、事実としてのアウシュヴィッツを越えて、アウシュヴィッツを普遍化していく営みだと、その時私は思った。

 

今、豊永さんが同じことを被爆体験者の側から云う。これほど重いことばはない。

 

 

広島を訪れた中学生が「今度は私たちが伝える番です」と言う。

今を生きるあなたたちの精神と身体を通して語られる言葉、それこそがヒロシマのことばだと云える、そんな大人でありたいものだ。

 

 

 

コロナ禍は、介護の現場でも人々にさまざまな影響を与えている。 それは末期医療においても同様で、最後のお別れもできない人たちがたくさんいるという。

コロナ禍は、介護の現場でも人々にさまざまな影響を与えている。

それは末期医療においても同様で、最後のお別れもできない人たちがたくさんいるという。

 

先日、会津に住む母の従妹が亡くなった。94歳だった。サチさんというとってもきれいな名前の人だった。

彼女は私の祖父の妹、つまり大叔母の娘である。母との関係は従妹で、私との関係は、漢字で書くと従叔母、”いとこおば”というのだそうだ。

 

 

私の母は1954年に33歳で亡くなっている。病死である。

残されたのは、父と、7歳、4歳、1歳の子どもが3人。この一番下が私である。正確に言うと私はこのとき1歳と5カ月。母の命日は1954年12月29日、葬儀は大みそかだったとのこと。

 

病名は脳腫瘍。当時は手術も難しかったそうな。

 

3人の男子を残されて、父が途方に暮れたことは想像に難くない。

戦争が終わってまだ10年にもならない頃、皆貧しかった時代。戦後の復興の象徴たる東京タワーが立つにはまだ4年を待たねばならない。

 

父が仕事を続けるために、乳飲み子の私と小1の長兄が親戚に預けられた。長兄は同じ町の父の妹の嫁ぎ先菓子問屋へ預けられ、私はやはり同じ町、大叔母の嫁ぎ先の米問屋へ預けられたということだ。

どちらの家も歩いて10分ほどのところ。

真ん中の4歳の兄だけは、近くに住む通いのお手伝いさん、小柄なおばあさんだったが大変な働き者だった人、この方がめんどうを見てくれたという。

 

2人が何年間、他家に預けられたのか。たぶん継母がやってくるまでの期間だから、2~3年だろうか、詳しいことはよくわからない。

継母は、父とは初婚、子どもは出来なかった。私たち3人の男の子を育てあげ、大学を終えて私が横浜の教員となった1976年に胃がんで亡くなった。私にとっては実質的な「実母」だった。

 

私が預けられた大叔母の嫁ぎ先、その長女がこのたび亡くなったサチさんである。

預けられたのは1955年だとすると、サチさんとのかかわりは65年になる。サチさん、29歳のころのことだ。

 

大叔母の嫁ぎ先は、大きな米問屋だったから、サチさんは婿養子を取って跡を継いだ。

1955年には6歳と4歳の男子がいたはずである。

そこへ私が預けられたのだから、大叔母は3番目の孫のように、サチさんは3番目の子どものように私を育ててくれたのだと思う。

後年、二人はその頃の私の様子をよく話してくれた。

 

大叔母が存命の頃から、私は盆暮れの帰省のたびに顔を出してきたから、もう45年以上、いつもサチさんに会い、声を聴いてきたことになる。

最後に会ったのは昨年の秋、大きな茶の間の神棚の下に坐り、佐藤愛子の『九十歳、なにがめでたい』を読んでいた。

政治の話もするし、本の話も。いつも笑顔を絶やさない軽やかな口調だった。

 

10月1日、サチさんは起床後、突然右足の膝が痛い、立てないと訴える。

すぐに病院へ搬送するが、血管に膿がたまっているとのことで急きょ入院。

膿をとる措置をするが、家族は面会謝絶。病状はドクターから電話で聞くのみ。

4日、ドクターから脈が薄くなってきたとの連絡を受け、家族が駆けつけ、病室に入ったときにサチさん、こと切れたという。

 

こうした経緯は、長男の方からの手紙で知ることとなった。葬儀は内々で行われ、私たち兄弟はお悔やみと香典を郵送するしかなかったのだから。

 

手紙には、

「入院するまでは施設やデイサービスを利用する事もなく、正気でみなと生活していただけに、コロナ禍とはいえ、家族のだれにも看取られず一人で逝かせてしまったことだけが心残りであります。」

とあった。

 

ごく当たり前の死すら迎えられないのが、今のコロナ禍だ。

 

私は、葬儀に出て手を合わせることもかなわなかった。

 

ただ、優しかった笑顔を思い浮かべるだけである。

 

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サチさんのご主人が発見した新種のコメ

 

 

強制されなくても掲げ、歌ってしまう人たちが今では多くなっている。 ひとりで自分の「節」だけ守って教員生活を終えたが、それでよかったのかと考える。 善し悪しのことではない。結局、誰も巻き込むことができなかったという忸怩たる思いである。

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中曽根元首相の合同葬への弔意や半旗掲揚要請に従った独立法人の元国立大学がいくつかあったようだ。

学問の自由、独立を自ら放棄する行為。

 

 

弔意や半旗ではないが、全国の義務制の学校は89年の日の丸・君が代調査以来、こうした文科省都道府県教委―地教委と降りてくる「要請」に対して応え続け、今ではほぼ100%の掲揚率、斉唱率となっている。

 

 

一つ目の勤務校では日の丸は壇上にかけられたが君が代はなかった。

運動会にはなかった日の丸が何の前触れもなく校舎の屋上に掲げられることがあった。

校長交渉をした。次の年から掲げられなくなった。

 

ふたつ目の学校は、君が代も日の丸もなかった。壇上には校長講話のタイトルが横断幕に大書されて掲げられていた。

 

卒業式後の来賓の話題は、夜間学級に通う外国籍の若者たちの凛とした姿だった。

90年代半ばにみっつめの勤務校で、それまでなかった君が代奏楽(録音を流す)が卒業式に入った。

管理職は「先生たちに歌えなんて滅相もない。私たちも坐っていますから」と云い、形だけでも「君が代」を入れることで教育委員会に義理を果たした。

 

次の管理職は、「わたしたちだけ歌わせていただきます。先生方は坐っていてけっこうですから」。

当日、来賓の教育員会の指導主事と管理職二人での斉唱が体育館に響いた。

生徒に歌わせたくないという保護者の一人は、

「ああいうかたちでせいっぱいですね」と云った。

 

そこで転勤した。その後は教員のピアノ伴奏と指揮がつくようになり、会場に生徒が歌う君が代が響くようになったようだ。

それでもこの学校は対面式を続けていて、卒業生が歌う合唱は30分以上も続いた。

 

最後の勤務校となった中学ではすでにピアノ伴奏と指揮があった。

赴任してすぐに中三の学級担任となったから、卒業式の君が代斉唱のときは職員席の最前列で一人で坐っていた。

 

誰も何も言わなかった。もちろん管理職も。

1人だけ声をかける人がいた。クラスの男子、学級委員の生徒だった。

「先生さあ、あんなふうに坐っているから校長になれないんじゃないの?」

笑うしかなかった。

それから6年、1,2,3年と続けて受け持ち、2度卒業生を送った。

6年間学年主任だったから、座席は最前列の校長、副校長のとなり。そこで相変わらず一人で坐っていた。

 

2回目だったか、生徒席をはさんで向こう側には3~40人の来賓が坐っているのだが、

場内の全員が坐っていると、向かい合わせの席は生徒が障壁になって見えないのだが、「一同起立」となると、生徒の列の間に来賓席が見えるのだ。

私はもちろん坐っているのだが、その私を来賓席から立ったままにらんでいる人がいた。高齢の地元の有力者の人だった。

 

事前の職員会議で自分の見解と行為について話した。処分が出れば闘うつもりだと云った。

誰も何も言わない。管理職も私の発言はスルー。

 

卒業式当日、管理職は

「見えませんでしたから」と云った。

隣りで私が坐っていても、自分たちは壇上にからだを向けているから見えないというのだ。

この学校は今でも広島修学旅行を続けている。

 

各地で不起立、斉唱拒否で処分され、長く裁判を闘う人たちがいた。

私は結局一度も歌わず、一度も処分されることがなかった。

 

何人もの管理職がそれぞれの方法で不起立・斉唱拒否を問題にしなかった。

波風を立てたくなったということもあっただろう。

でも、それ以上に年にたった一度の君が代なんてそれほど重要ではない、学校にはもっと大切なことがあると思っていたのではないだろうか。

 

それにしても、管理職以外の一般の職員から何も言われないのはつらいものだ。

坐っているのに、まるでそこに私がいないかのようだからだ。

 

職員だけでなく生徒からも保護者からも、ちょっと変わった先生として別扱いの位置に置かれていたのだろう。

 

今回も要請する側はいつものように「強制ではない」を繰り返す。

国歌国旗法も付帯決議には強制はしない、とある。

 

強制されなくても掲げ、歌ってしまう人たちが今では多くなっている。

 

私は、ひとりで自分の「節」だけ守って教員生活を終えたが、それでよかったのかとも考える。

 

善し悪しのことではない。結局、誰も巻き込むことができなかったという忸怩たる思い?

 

いや、と考え直す。

 

現場にいた時、周囲の教員たち、生徒らを巻き込もうなどとは考えていなかった。ひとりで坐り続ける、歌わない、それでいいと思っていたのではなかったか。

 

その方がめんどうなくていいと思っていたのではないか。

 

「節」などと言いながら、めんどうを避けていただけのことじゃないないか。

 

もう考えても仕方がないことなのに、深夜に目が覚めると、そんなことをがしきりに気にかかるのである。