強制されなくても掲げ、歌ってしまう人たちが今では多くなっている。 ひとりで自分の「節」だけ守って教員生活を終えたが、それでよかったのかと考える。 善し悪しのことではない。結局、誰も巻き込むことができなかったという忸怩たる思いである。

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中曽根元首相の合同葬への弔意や半旗掲揚要請に従った独立法人の元国立大学がいくつかあったようだ。

学問の自由、独立を自ら放棄する行為。

 

 

弔意や半旗ではないが、全国の義務制の学校は89年の日の丸・君が代調査以来、こうした文科省都道府県教委―地教委と降りてくる「要請」に対して応え続け、今ではほぼ100%の掲揚率、斉唱率となっている。

 

 

一つ目の勤務校では日の丸は壇上にかけられたが君が代はなかった。

運動会にはなかった日の丸が何の前触れもなく校舎の屋上に掲げられることがあった。

校長交渉をした。次の年から掲げられなくなった。

 

ふたつ目の学校は、君が代も日の丸もなかった。壇上には校長講話のタイトルが横断幕に大書されて掲げられていた。

 

卒業式後の来賓の話題は、夜間学級に通う外国籍の若者たちの凛とした姿だった。

90年代半ばにみっつめの勤務校で、それまでなかった君が代奏楽(録音を流す)が卒業式に入った。

管理職は「先生たちに歌えなんて滅相もない。私たちも坐っていますから」と云い、形だけでも「君が代」を入れることで教育委員会に義理を果たした。

 

次の管理職は、「わたしたちだけ歌わせていただきます。先生方は坐っていてけっこうですから」。

当日、来賓の教育員会の指導主事と管理職二人での斉唱が体育館に響いた。

生徒に歌わせたくないという保護者の一人は、

「ああいうかたちでせいっぱいですね」と云った。

 

そこで転勤した。その後は教員のピアノ伴奏と指揮がつくようになり、会場に生徒が歌う君が代が響くようになったようだ。

それでもこの学校は対面式を続けていて、卒業生が歌う合唱は30分以上も続いた。

 

最後の勤務校となった中学ではすでにピアノ伴奏と指揮があった。

赴任してすぐに中三の学級担任となったから、卒業式の君が代斉唱のときは職員席の最前列で一人で坐っていた。

 

誰も何も言わなかった。もちろん管理職も。

1人だけ声をかける人がいた。クラスの男子、学級委員の生徒だった。

「先生さあ、あんなふうに坐っているから校長になれないんじゃないの?」

笑うしかなかった。

それから6年、1,2,3年と続けて受け持ち、2度卒業生を送った。

6年間学年主任だったから、座席は最前列の校長、副校長のとなり。そこで相変わらず一人で坐っていた。

 

2回目だったか、生徒席をはさんで向こう側には3~40人の来賓が坐っているのだが、

場内の全員が坐っていると、向かい合わせの席は生徒が障壁になって見えないのだが、「一同起立」となると、生徒の列の間に来賓席が見えるのだ。

私はもちろん坐っているのだが、その私を来賓席から立ったままにらんでいる人がいた。高齢の地元の有力者の人だった。

 

事前の職員会議で自分の見解と行為について話した。処分が出れば闘うつもりだと云った。

誰も何も言わない。管理職も私の発言はスルー。

 

卒業式当日、管理職は

「見えませんでしたから」と云った。

隣りで私が坐っていても、自分たちは壇上にからだを向けているから見えないというのだ。

この学校は今でも広島修学旅行を続けている。

 

各地で不起立、斉唱拒否で処分され、長く裁判を闘う人たちがいた。

私は結局一度も歌わず、一度も処分されることがなかった。

 

何人もの管理職がそれぞれの方法で不起立・斉唱拒否を問題にしなかった。

波風を立てたくなったということもあっただろう。

でも、それ以上に年にたった一度の君が代なんてそれほど重要ではない、学校にはもっと大切なことがあると思っていたのではないだろうか。

 

それにしても、管理職以外の一般の職員から何も言われないのはつらいものだ。

坐っているのに、まるでそこに私がいないかのようだからだ。

 

職員だけでなく生徒からも保護者からも、ちょっと変わった先生として別扱いの位置に置かれていたのだろう。

 

今回も要請する側はいつものように「強制ではない」を繰り返す。

国歌国旗法も付帯決議には強制はしない、とある。

 

強制されなくても掲げ、歌ってしまう人たちが今では多くなっている。

 

私は、ひとりで自分の「節」だけ守って教員生活を終えたが、それでよかったのかとも考える。

 

善し悪しのことではない。結局、誰も巻き込むことができなかったという忸怩たる思い?

 

いや、と考え直す。

 

現場にいた時、周囲の教員たち、生徒らを巻き込もうなどとは考えていなかった。ひとりで坐り続ける、歌わない、それでいいと思っていたのではなかったか。

 

その方がめんどうなくていいと思っていたのではないか。

 

「節」などと言いながら、めんどうを避けていただけのことじゃないないか。

 

もう考えても仕方がないことなのに、深夜に目が覚めると、そんなことをがしきりに気にかかるのである。