コロナ禍は、介護の現場でも人々にさまざまな影響を与えている。
それは末期医療においても同様で、最後のお別れもできない人たちがたくさんいるという。
先日、会津に住む母の従妹が亡くなった。94歳だった。サチさんというとってもきれいな名前の人だった。
彼女は私の祖父の妹、つまり大叔母の娘である。母との関係は従妹で、私との関係は、漢字で書くと従叔母、”いとこおば”というのだそうだ。
私の母は1954年に33歳で亡くなっている。病死である。
残されたのは、父と、7歳、4歳、1歳の子どもが3人。この一番下が私である。正確に言うと私はこのとき1歳と5カ月。母の命日は1954年12月29日、葬儀は大みそかだったとのこと。
病名は脳腫瘍。当時は手術も難しかったそうな。
3人の男子を残されて、父が途方に暮れたことは想像に難くない。
戦争が終わってまだ10年にもならない頃、皆貧しかった時代。戦後の復興の象徴たる東京タワーが立つにはまだ4年を待たねばならない。
父が仕事を続けるために、乳飲み子の私と小1の長兄が親戚に預けられた。長兄は同じ町の父の妹の嫁ぎ先菓子問屋へ預けられ、私はやはり同じ町、大叔母の嫁ぎ先の米問屋へ預けられたということだ。
どちらの家も歩いて10分ほどのところ。
真ん中の4歳の兄だけは、近くに住む通いのお手伝いさん、小柄なおばあさんだったが大変な働き者だった人、この方がめんどうを見てくれたという。
2人が何年間、他家に預けられたのか。たぶん継母がやってくるまでの期間だから、2~3年だろうか、詳しいことはよくわからない。
継母は、父とは初婚、子どもは出来なかった。私たち3人の男の子を育てあげ、大学を終えて私が横浜の教員となった1976年に胃がんで亡くなった。私にとっては実質的な「実母」だった。
私が預けられた大叔母の嫁ぎ先、その長女がこのたび亡くなったサチさんである。
預けられたのは1955年だとすると、サチさんとのかかわりは65年になる。サチさん、29歳のころのことだ。
大叔母の嫁ぎ先は、大きな米問屋だったから、サチさんは婿養子を取って跡を継いだ。
1955年には6歳と4歳の男子がいたはずである。
そこへ私が預けられたのだから、大叔母は3番目の孫のように、サチさんは3番目の子どものように私を育ててくれたのだと思う。
後年、二人はその頃の私の様子をよく話してくれた。
大叔母が存命の頃から、私は盆暮れの帰省のたびに顔を出してきたから、もう45年以上、いつもサチさんに会い、声を聴いてきたことになる。
最後に会ったのは昨年の秋、大きな茶の間の神棚の下に坐り、佐藤愛子の『九十歳、なにがめでたい』を読んでいた。
政治の話もするし、本の話も。いつも笑顔を絶やさない軽やかな口調だった。
10月1日、サチさんは起床後、突然右足の膝が痛い、立てないと訴える。
すぐに病院へ搬送するが、血管に膿がたまっているとのことで急きょ入院。
膿をとる措置をするが、家族は面会謝絶。病状はドクターから電話で聞くのみ。
4日、ドクターから脈が薄くなってきたとの連絡を受け、家族が駆けつけ、病室に入ったときにサチさん、こと切れたという。
こうした経緯は、長男の方からの手紙で知ることとなった。葬儀は内々で行われ、私たち兄弟はお悔やみと香典を郵送するしかなかったのだから。
手紙には、
「入院するまでは施設やデイサービスを利用する事もなく、正気でみなと生活していただけに、コロナ禍とはいえ、家族のだれにも看取られず一人で逝かせてしまったことだけが心残りであります。」
とあった。
ごく当たり前の死すら迎えられないのが、今のコロナ禍だ。
私は、葬儀に出て手を合わせることもかなわなかった。
ただ、優しかった笑顔を思い浮かべるだけである。