とんでもない間違いをしてしまった。
5月にこのブログで北村小夜さんの『再び住んでみた中国』(1992年)を読んだことを書いた。
読むきっかけとなったのは、昨年12月の多田謡子人権賞受賞式で購入した『北村小夜のことばとわたしたち』(2019年)という冊子。そこに挟まれてた北村さんご自身が書かれたプリントがきっかけだったのだが、そこからの引用を間違えた。
山梨に住むSさんに指摘を受け、全くの誤引用が判明。原因は私の思い込みによる。自分の読み方に拘泥して目が曇り、全く逆の意味の引用をしてしまった。
その部分を以下に記す。
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一つは第4話の
『親に心配かけないのは、死んだ子だけ』について。
山口さんはこの言葉についてこんなふうに書いている。
私でなく、知人が聞いたというまた聞きの言葉です。長男を19歳で亡くした私には、妙に心に残っています。私は勝手に自分の息子のことに当てはめて、自分なりの解釈をしていました。北村さんから直接聞いたわけではないので、ひょっとしたら違うかもしれません。本当はどういう意味か、ご本人に一度確かめてみたいです。
これについて北村さんはプリントの中で、こんなふうに答えている。
人を介して山口さんの耳に届いたこの言葉は、親御さんたちがよくわが子の困りごとを自慢げに話されるのを聞いてしばしば私が言った言葉です。
生きていれば人並み以上に苦労も葛藤もあったでしょうに二歳半で亡くなったわが子は、私の中で私の希望通りにすくすくと育ちますが、この世にはいません。言葉は生きているからこそ悩む幸せをうらやむ言葉ではありませんでした。
子どもが生きているからこそ親は悩めるし、どんなにしんどい悩みであっても、子どもが死んでしまったら悩むことはできない。かといって子どもを失くした自分がそれをうらやんでなどいないと北村さんは云うのだ。
『親に心配かけないのは、死んだ子だけ』ということばから、「あなたは悩めるだけいいのよ。私なんか悩むことさえできないのだから」というメッセージを受け取ってほしくないということだ。
北村さんはなぜわざわざプリントをつくってまでして、そのことを書いておきたかったのか。
「わが子は、私の中で私の希望通りにすくすくと育ちます」
北村さんの中では「わが子」はまだ生きて育ち続けている。葛藤も苦労もなく育っている。わが子は生きているのだから、母親たちが悩みを語ることをうらやんだりしない。
「言葉は生きているからこそ悩む幸せをうらやむ言葉ではありませんでした。」
プリントをつくってまで北村さんが書かざるをえなかったこと。95歳になる北村さんの中で子どもはどこを歩いているのだろうか。痛切だと思う。
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太字の部分が誤引用したところ。は正しくは、
言葉は生きているからこそ悩む幸せをうらやむ言葉ではありました。
である。私の間違った読み取りは、「親に心配をかけないのは、死んだ子だけ」と北村さんが云う時、その言葉は、親は子どもが生きているからこそ悩めるのであり、死んでしまった子は心配もかけることができない。私の子は亡くなったが、心の中ではまだ育ち続けていて、自慢げに悩みを話す母親たちのことばをうらやむことなどないのだ」というものだった。
その推測は「・・・幸せをうらやむ言葉ではありませんでした」という誤引用がもとになっている。
「言葉は生きているからこそ幸せをうらやむ言葉でありました」ならば読み取りは違ってくる。
「親に心配かけないのは、死んだ子どもだけ」という言葉は、あなた方の子どもは生きているからこそ、私はその幸せをうらやんでいった言葉なのだ、ということだ。
生きて心配をかけてくれるのは幸せなことだという意味で北村さんはこの言葉を発したということ。
「ありました」を「ありませんでした」と読んでしまった私の早とちりが、北村さんの思いを不正確にしか受け取れなかった最大の原因。
勝手に読んで勝手に間違えたこと、北村さんにはほんとうに申し訳ないことをした。お詫びしなければならない。
それほど深いおつきあいをしてきたわけでもないが、北村さんはある意味私にとって一つのメルクマールだった。どんなことを考えてどんなふうに生きてこられたか、ずっと関心をもってきた。
このプリントには、中国人の髑髏を磨いた看護婦であるご自分について「再び住んでみた…」のその部分の文章を再掲までして「隠していない」「抱え続けていく」ことを表明している。あえてそうする北村さんの自分の歴史に対する律義さに触れ、同様に引用部分にも同じような律義さ、率直さを感じてしまった。
北村さんが「亡くなったわが子」について触れている文章を見るのは初めてで、これもまた北村さんが長く抱えて生きてきた大事なものなのだろうと間違って読み込み、それに基づいて勝手な論評を加えてしまった。
私的なブログとはいえ、公的に出されたものに対して謝った引用で論評したことをこの場で謝罪したい。