竹内良男さん「ジャーナリスト基金賞奨励賞」を受賞、北村小夜さん「多田謠子反権力人権賞」を受賞。

年に二度叙勲受章者が発表される。

文化功労者文化勲章の違いもよく知らない。

勲章にもいろいろな種類があって、色があって・・・。

新聞を見ながら「おお、この人もこういうのをもらうのか」と思う人もいる。スポーツや音楽、美術の分野の人に対しては「そうでしょ、そうでしょ」と思うが(偏見か?)、映画、演劇、文学などとなると、「そういう人だったのか。”晩節を汚す”という言葉を知らないのか!」と小さい声で毒づいたりしている。

 

上から下までいろいろと取り揃えている勲章。上は中曽根大勲位から下は・・・。

学校について言えば、退職の時には叙勲申請のようなものを副校長が作成するということを聞いたことがある。可もなく不可もなく勤め上げ、賞罰のうちバツがなければ退職して数年後にはもれなく(たぶん)めでたく叙勲ということになる。まあ既定路線。

叙勲が決まるといくつもの業者が営業に訪れるのだそうだ。

叙勲ビジネス。勲章を入れる額や返礼品の数々、記念写真に披露パーティー・・・。

 

私の係累でも数年前に勲章をもらった人がいる。私よりいくつも若くて現役での叙勲だった。

親戚の中でも酒飲み友達だったのでお祝いの会に出た。返礼品には菊の紋章が入っていた。う~ん。

 

 

国民栄誉賞というとっても名誉?な賞を固辞したという不世出の盗塁王福本豊は、受賞を打診されたときのことかそれとも後日談なのか、名セリフを残している。

 

「そんなもん(国民栄誉賞)もろたら、立ちションもできなくなるわ」
 
もともと国民栄誉賞王貞治氏のホームラン記録がその嚆矢。福本豊がもらってもおかしくない。
ジャイアンツの監督として川上、長嶋、王に準ずる原辰徳など嬉々としてもらうだろう。たとえ女性問題で球団に1億円も払わせたり、賭けゴルフの常習者であることをみな知っていたとしても。
 
福本豊はいらない、というだけならまだしも、「立ちションもできなくなるわ」と云うところが並の人間のうつわではない。今のせせこましい時代なら「不謹慎だ」とバッシングにあうような言い草だし、授与するほうからすれば栄誉賞と立ちション、一緒にするな!と怒るかもしれない。
83年。時代はまだまだゆとりと自由があったころ。
 
なぜこんな話を?と思われるかもしれない。
というのも、最近、友人というのもおこがましい、知人お二人がそれぞれ賞を受賞されたのだ。
 
竹内良男さん
元埼玉県の高校の教員。
2016年から「ヒロシマからヒロシマへ」という講座を開催。すでに100回を軽く超えている。通信は今でも日に2号出ることもある。
広島に限らず戦争、平和に関する情報の広さ、深さは私などの想像をはるかに越している。
竹内さんが受賞したのは、第26回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞だ。
 基金賞はひとつ

信濃毎日新聞社編集局「連載企画・記憶を拓く 信州 半島 世界」

奨励賞は7つ

★伊藤絵理子・毎日新聞記者の連載「記者・清六の戦争」

九州朝日放送「良心の実弾~医師・中村哲が遺したもの~」<20・5・29放映>

★Kプロジェクト「ドキュメンタリー映画『日本人の忘れもの フィリピンと中国の残留邦人』」

静岡新聞取材班「長期調査報道・サクラエビ異変」

★元教員・竹内良男さん(東京都)の「ヒロシマ連続講座」と通信「ヒロシマへ ヒロシマから」の発行

西日本新聞社取材班「戦後75年企画『言葉を刻む』『あの日、何を報じたか』」

★柏井宏之・樋口兼次・平山昇共同編集「西暦二〇三〇年における協同組合」<社会評論社

 

見てもお分かりのように受賞者のほとんどが新聞やテレビで優れた仕事をされた人たち。その中に小さな講座と通信を出し続けてきた竹内さんが入っている。これはちょっと感動的なことだ。

 

竹内さんは通信519号でこんなふうに書いている。

 

・・・ぼくの他に選ばれた方々の一覧を拝見すると、毎日新聞西日本新聞九州朝日放送静岡新聞・・・、とまさに錚々たる方々の長期にわたる重厚な取り組みが並んでいて、ぼくのささやかな取り組みがここに一緒に並ぶというのは、どうにも面映ゆい感じが拭いきれません。というか今まで振り返って「賞」というモノにはとんと無縁でしたから、戸惑っているのが正直なところです。なのであまり大っぴらには言わないことにしようと思っていたのですが、新聞に掲載された昨日から、とてもたくさんの方々からお祝いのメールや電話をいただきました。お一人お一人に返事をきちんと出来ていないのですが、まずはこの場を借りて御礼を申し上げます。ありがとうございました。
それから、取り組みを推薦してくださった方、選んでくださった選考委員会の方々、そして今までの「ヒロシマ連続講座」に来ていただいた講師の方々、また講座の参加者のみなさん、さらには「<ヒロシマヒロシマから>通信」の読者のみなさんにも
心からの感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。ありがとうございました。

 

不真面目な読者の一人である私もお祝いのメールを差し上げた。

竹内さんと私のつながりは、たった一つ。

東京都の中学校の教員として初めてヒロシマ修学旅行を実施した江口保さんの教えを、互いに乞うていること。不真面目な私と違って、竹内さんは現役時代から退職後まで一貫して江口先生の教えを受け継ぎ、今やその活動と人脈の広さは考えられないものがある。それをもとにヒロシマを世界に広げる活動を地道に続けていらっしゃる。正直、ごく普通の市民生活はできているのかと思うほどの活動量だ。

からだを大切にして息長く続けてもらいたい。

 

もう一人は、北村小夜さん。

北村さんが受賞したのは、

第32回多田謠子反権力人権賞

tadayoko.net

 

今年の受賞者は3人。
 

● 宮城秋乃さん  (沖縄北部訓練場での軍事廃棄物撤去闘争)

 子どもの頃から虫が大好きで、成長して蝶の研究者を目指した宮城秋乃さんは、沖縄北部の大自然の中で生物の生態調査を行ってきました。
 2016年12月、ヤンバルの広大な土地を占めていたアメリ海兵隊北部訓練場の約50%が日本に返還されましたが、海兵隊のジャングル野戦訓練基地として使用されてきた森に、調査のために入った宮城さんが見た物は、PCB、DDT等で汚染された土地であり、訓練設備の残骸、汚染廃棄物、不発弾など、軍事訓練によって生み出されたおびただしい軍事廃棄物でした。日米地位協定によって、米軍は返還後の土地の原状回復義務を負わないのです。日本政府はこの土地を現状のまま世界自然遺産の候補として推薦し、来年夏の登録をめざそうとしています。
 これらの軍事廃棄物が貴重な自然、生態系に悪影響を与えることを危惧した宮城さんは、生物調査よりも優先して軍事廃棄物の問題を社会に告発し、原状回復と保護を訴えて活動しています。リュウキュウウラボシシジミなどの貴重な昆虫たちやヤンバルの自然、彼らの命、そして自然の一部である私たちの命を守るために闘う蝶研究者、宮城秋乃さんに多田謡子反権力人権賞を贈ります。

● 青木惠子さん  (冤罪との闘い、冤罪被害者支援の闘い)

 1995年7月、青木さんの自宅が火災にあい11歳の長女が逃げ遅れて亡くなりました。警察は保険金詐欺と邪推し、青木さん夫婦を任意同行、「自白」させました。裁判では一貫して無実を主張しましたが、99年に大阪地裁で無期懲役判決、2006年に最高裁で無期が確定し、青木さんは和歌山刑務所へ下獄されました。
 弁護団と支援者、そして何より青木さん自身の不屈の努力で再審開始への活動が続けられ、ホンダの軽ワゴン車からのガソリン漏れ、引火が火災の原因だったことが実験で明らかとなります。事件ではなく事故だったことが証明され12年に再審開始が決定、16年に真っ白な無罪判決を勝ち取りました。
 逮捕から釈放まで20年間、家族と引き裂かれ、自由を剥奪されて監禁され、あろうことか娘殺しの汚名を着せられた獄中生活は想像を絶します。その悔しさをバネに生き抜き、雪冤を果たしたのち、冤罪という権力犯罪に対して国家賠償請求を提訴し、火災の原因を作ったホンダに対する訴訟を起こします。そして全国で冤罪に苦しむ被害者たちを力づけ支援するために、飛び回っておられる青木惠子さんに、多田謡子反権力人権賞を贈ります。

● 北村小夜さん  (天皇制・戦争との闘い、障害児・者の人権のための闘い)

 およそ70年におよぶ北村小夜さんの活動の根もとには、つねに自分自身が経験した事実があり、自分自身が生きてきた道筋を曖昧にせず、それと向き合う姿勢がありました。「この世で会えなかったら靖国で会いましょう」。海軍に行ったボーイフレンドにそう言われて、女でも靖国に行ける道をいこうと決心し、従軍看護婦となって満州に渡った軍国の少女。無知ゆえに侵略者となり、天皇のために青春を費やした自分と向き合うことで、北村さんは天皇制と戦争の歴史を曖昧にする戦後の日本社会、戦後日本の教育と対峙し続けてきました。  できない子に教えられる教師になろうと赴任した特殊学級で、生徒に「先生も落第してきたの?」「先生なら大丈夫…試験受けて普通にもどりな」と言われた北村さんは、無理やり子どもたちを特殊学級に排除する「教育」の間違いをさとり、みんなが一緒に学ぶ教育のための活動をはじめました。  「できる子」と「できない子」に選別し、「できない子」を排除する教育は、愛国心を養う「教育」と一体となって「戦争は教室から始まる」。95歳の今も、大嘗祭違憲訴訟をはじめとする闘いの先頭に立つ北村小夜さんに、多田謡子反権力人権賞を贈ります。

 

北村さんに初めてお会いしたのは77年のこと。そのころ北村さんはすでに50歳。私は新人の教員だった。

この年代の方で、こんなふうに言葉に真摯な思いが込められる方初めてだった。

以来、その印象は変わらない。

いまだに会うたびに緊張する。お話を聴き洩らさないための緊張だ。

 

軍国少女が彼女の出発地点。どんな問題でも北村さんはそこを外さない。どんなに時間を経てもそこをずらさない。

これができるようでできないことなのだ。

いつのまにか自分を許し、見栄えのするように自分を変えたくなるもの。

北村さんにはそういうところがみじんもない。

だから、いまでも人気がある。

北村さん、おめでとうございます。