正則学園の問題は「理事長への挨拶の強要」がセンセーショナルに取り上げられたが、それを除けばほとんどすべてが現在の公立学校の問題と重なるということだ。

 去年のクリスマスイブから18日間、関東では雨が降っていないという。

 今朝の湿度37%。気温は1℃。

 風がないのでさほど寒さは感じないが、かなり乾燥している。

 インフルエンザの流行も始まっている。快晴。

 

 毎日のように火事のニュースを見る。火事には限られた報道だけでは見えない事情がいくつも隠されているようで、短いニュースにもさまざまな想像をしてしまう。寒空に焼け出された人、亡くなった人、気の毒である。

 

 一昨日から、新聞やテレビで東京の正則学園の教員たちのストライキが報道されている。教員のストライキは最近ではかなり珍しい。ストライキ自体が激減しているし、報道もされない。

f:id:keisuke42001:20190110103102j:plain東京新聞1月8日



 今回大きく報道されているのには、毎朝6時半から行われる理事長へのあいさつの強要というエキセントリックな経営者の問題がある。


 学園側は「強要はしていない」としているが「事実」は否定していない。

 

 この学校では、数十人の教員が6時半前に出勤して、理事長室の前の廊下に一列に並び、一人ひとり入室して理事長に挨拶、神棚に拝礼するらしい。遅刻すると理事長から叱責を受けるという。


 いまだにこんなことをやっているのかとあきれる。やっている方はマジなのだろうが、傍から見ると茶番にしか見えない。勤務時間でもない時間に、出勤とあいさつを強要するのは違法どころか犯罪にもなりうる。


 強要はしていないとは、強要している人たちの常とう句。「命令ではありません。お願いです」に近い。

「強要はしていない」の「は」が問題。「は」は「強要」は除外するけれども、それに類する、あるいはそのものにきわめて近いものは含まれる。いいわけである。結果、強要しているのである。

 

 こうした風習が35年以上も続いているのだとか。35年間違法状態を続けてきたということだ。それにしてもこの理事長は就任して20年以上というが、早起きだ。私もかなわない。

 

 一事が万事を表す。

 問題はこうした体質のもとに行われている学校経営の方にある。

 あきらかにブラック学校だ。私学教員ユニオン(2018年に結成されたばかりの組合。東京には100の私学を組織する私教連東京(全教加盟)があるが、これとは別につくられた、おそらく少数労組。親近感がある)の情宣を見ると、正則学園では、


① 超過勤務の常態化(残業が月80時間の過労死ラインを超える教員がほとんど)
② 残業代の不払い(出勤は実時間を打刻~6時半前、退勤は一定の時間に事務職員が勝   手に打刻)
③ 休憩時間の不確保(連続勤務が14時間の及ぶ)。
④ 団体交渉もなく、昇給停止、ボーナスの減額が行われている。
⑤ 非常勤講師に対する低待遇(授業外業務への賃金未払い)。

などが挙げられている。
 私学の教員は公立の教員と違って原則労働法全般が適用される。組合の結成や団体交渉、そしてストライキ権が保障されている。


 組合の結成(団結権)は、今回私学教員ユニオンに加盟したことで果たせている。20人ほどが加入しているようだ。

 団体交渉、これからここが一番の闘いのステージになる。かなり長時間になるだろう。そのぐらい課題が多い。退勤時刻の事務職員打刻というのがいったいどのような指揮命令系統で行われているのか、明らかにしてもらいたいものだ。

 そしてストライキ権だが、今回6時半から始業までの1時間半のストライキを今日現在3日間続けている。 

 勤務時間をサボタージュして、企業の業務に支障をきたすのがストライキだとすると、今回の始業前のストライキは少し意味が違う。勤務時間でない時間を勤務の時間のように強要されてきたこと、これが朝の1時間半なのだから、これをサボタージュするという戦術は大いに意義があると私は思う。


 団体交渉に応じるまでストライキを続ける意向のようだ。

 経営者側は「時間外のあいさつ強要」という報道によって受けたダメージにはかなりのものがあるはず。そのまま、来年度の入試、募集に大きな影響があるだけでなく、ブラック企業として労基署の指導も入る可能性もあるし、下手をすれば違法労働で立件されることもある。一気に攻めた労組の勝利は間違いないと思う。


 しかしこれほどのブラックさがなぜ今まで放置されてきたのだろうか。学校というところはそういうところだ、と言っても分かってもらえないが、ほとんどの公立学校もこれに似た状態であることを考え合わせれば、正則学園が特別ではないことが分かってもらえると思う。

 

 公立学校で言えば、ユニオンが指摘する①~⑤のうち、①~③はそのままほとんど当てはまる。

 ①は中学校の教員の50%以上が過労死ラインを超えていると言われているし、②は公立学校の教員の場合、給特法によって残業代が支払われていないが、残業時間の記録すら取られていない職場が多く、横浜でも「校長先生に迷惑がかかるから、タイムカードは早く押しておこう」というようなことがまかり通っている。

 ③は、全国共通、少なくとも課業中に休憩時間が取れている例を私は知らない。
 

 ついでに④の団体交渉は、公立学校の労働者は労働組合法は適用されず地公法に拠る。地公法では労働組合は職員団体と呼ばれ、給与、人事などを除く勤務条件についてのみは交渉が認められている。

 当然各単組というか職場単位にある職員団体が管理者たる校長との交渉権を保持しているはずだが、これを行使している例は極めて少ない。ほとんど団体交渉はないのである。
 ⑥ の非常勤講師、臨時的任用教員の問題だが、これも低待遇であるし、同一労働同一賃金には全くなっていない。

 

 こうしてみてみると、正則学園の問題は「理事長への挨拶の強要」がセンセーショナルに取り上げられたが、それを除けばほとんどすべてが現在の公立学校の問題と重なるということだ。


 教員という職業についている人は、そこそこにプライドが高く、「やらされている」という格好を嫌う。
 私も含めて、自ら進んで創造的に仕事をしていると考えたい人たちだ。じっさいは「やらされている」ことがほとんど認めたがらない人たちだ。
 

 「ひどい学校あるよなぁ、朝6時半から理事長に挨拶だって?」と笑っていられない状況が公立学校にはある。

 

 6年ほども前になるだろうか。組合員から「校長のパワハラがひどい。職員に対するえこひいきも、校長のやりたい放題だ。夜中10時の生徒指導なんかでは、校長が職員室に入ってきたときには職員全員が起立して校長の話を拝聴する。なんとかしてほしい」という訴えがあった。ちょっと正則学園に似ている。

 事前にいろいろ調査し、十分に準備をしてその学校に出掛けた。正規の手続きをとって交渉のテーブルを設定したのだ。職場の意気も一部上がっており、それに乗じて少数組合が出張ったのだった。


 校長は「無理にそうしろと命じたことはない。そうとられるとすれば残念だ」などと言い訳に終始したが、こちらの追及にほとんどの事実を認め謝罪をした。
 

 寒い時期ではあったが、1時間を超える交渉の最中、校長は一度もマスクを外さなかった。それと私の名前に「委員長様」をつけたことを憶えている。

 威張り腐っていた人間がこれほど卑屈になるものかと驚いた。しかし公立の校長はその程度である。

 

 私立学校の経営者となると一筋縄ではないだろう。ユニオンは経営者との闘いには一定に勝利できるだろうが、今後は父母、卒業生、同窓会などとの複雑な関係もある。こうした場合出てくるのは、「学校の名前を汚した」「入試で不利益を被った」「偏差値が落ちる」といった批判である。

 汚れていたのは今までのことで、今回、その汚れを何とかしようと立ち上がったんです。まともに教員が働ける職場こそ生徒にとって最大の教育環境です、ぜひいっしょに学校の汚れを落とす掃除をしませんか、と呼び掛けてほしい。そして何より高校生たちにこの問題を伝えてほしい。

 

 名前がそっくりの正則高校が9日、「別の学校です」とのコメントを発表した(こちらは学校法人正則学院の経営、全く別の学校。かなり紛らわしい)。


 正則高校のユニオンから正則学園のユニオンへの連帯の意思表示は、まだないようだ。

 

『メアリーの総て』クリーチャー=怪物はメアリーの心そのものなのだろう。

 若葉町のジャック&ベティで、『メアリーの総て』(2017年・英・米・ルクセンブルク合作・121分・原題:Mary Shelley・監督ハイファ・アル=マンスール・主演エル・ファニング)をみた。

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   1818年に出版された小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(Frankenstein: or The Modern Prometheus)の著者、メアリー・シェリーがこの映画の主人公だ。
 映画は、メアリー・シェリーの人生の16歳から18歳までの2年間を中心に描かれる。


 

 

    19世紀のイギリスで小説家を夢見る少女メアリーは妻子ある詩人パーシー・シェリーと出会う。2人は互いの才能に惹かれあい、情熱に身を任せて駆け落ちするが、メアリーは数々の悲劇に見舞われてしまう。失意の中にあったメアリーは詩人バイロン卿の別荘で「みんなで1つずつ怪奇談を書いて披露しよう」と持ちかけられ……。

                                                                                           映画.COMから

 

 

 その中でメアリーはフランケンシュタインの着想を得る。ここに出てくるバイロン卿とは、日本でよく知られる「♪バイロン、ハイネの熱なくも…」(人を恋ふる歌)とうたわれた詩人バイロン(1788年~1824年)である。映画の中ではトム・スターリッジが演じ、放蕩、放埓な行動でシェリーを幻惑し、シェリーの妹を誘惑する奇矯の人と描かれている。
 
 16歳で才能豊かな詩人パーシーに出会ったメアリーは、駆け落ち、妊娠、子どもたちの死、パーシーの不実などあらゆる人生の挫折を十代のうちに味わってしまう。その到達点が小説『フランケンシュタイン』だった。


 小説の中でヴィクター博士は死体をつなぎ合わせて怪物をつくりだすが、優れた知力、体力、想像力と人間的な心をもちながら、細部まで再生されず、奇怪な容貌のまま生まれることになる。


 私は原作を読んでいない。フランシス・コッポラの『フランケンシュタイン』(1994年)は見た記憶があるが、詳細は忘れている。

 しかし、今回この映画をみて、どうしてこの怪物が生み出されたのか少しわかったような気がした。

 

 メアリーは思想家である厳格な父と女性解放の運動家である母との間に生まれる。メアリーの出産と同時に母親は死んでしまうのだが、そのことへの罪悪感と父への違和感、そして独特の異形の者に対する強い興味と、実人生で味わう人間への不信と喪失と絶望。若いメアリーの中で、それらはないまぜとなって異貌ではあるが、深い人間性と悲しみを湛えた怪物を生み出す。クリーチャー=怪物はメアリーの心そのものなのだろう。

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 一気に書き上げたメアリーはパーシーに原稿を見せるが、パーシーは「怪物でなくて天使ではだめなのか?」とメアリーに問う。メアリーの答えはノーだ。メアリーのパーシーへの一縷の希望が壊れる瞬間だ。クリーチャーは天使であってはならないのだ。


 作品はいくつもの出版社に断れるが、最後の一社は匿名とパーシーの序文の掲載を条件に出版を承諾する。作品は評判を呼び、再版からメアリーの名前が付されたという。

 父親が開く小さな出版記念会でのパーシーの言動にメアリーは感謝するが、十代の波瀾を生きてきたメアリーとはすでに違うメアリーとなっていることが示唆される。

 

 エル・ファニングさんという女優が素晴らしい。少女から大人へそして小説家へ向かう変遷をよく表現していると思った。


 監督のハイファ・アル=マンスールさんは1974年生まれのサウジアラビアの女性監督。『少女は自転車に乗って』(2013年)。映画館のないサウジで家庭の中でDVDなどを見て育ったという。ようやくクルマの運転が認められたサウジにあって、19世紀のヨーロッパの女性の解放運動に共感するのは当然としても、題材としてメアリー・シェリーを選んだということに驚かされる。

 全編に漂う独特の暗さ、単に暗いのではなく、メアリーの心的なありようも重ねられていて、ていねいだ。一つひとつのセリフに込められる意味の深さが翻訳でもよく感じられた。貧富の差が拡大し、街にはたくさんの失業者があふれる当時のヨーロッパの雰囲気がよく伝わってくる精細なつくりだと思った。

フランケンシュタイン」の原作を一度しっかり読んでみたい。それとコッポラの1994年の作品ももう一度見てみたいものだ。

ブライアン・メイさんの請願署名

 元旦から快晴が続いている。

    いつものように境川河畔を歩く。

    今朝は少し時間が早く、6時半過ぎに出たせいか、まだ夜が明けきらず、メガネもかけていないのでぼんやりした風景。気温は2℃。

    玄関を出たところにある鉄工所のおかみさんがシャッターを開けている。

 新年のあいさつ。このおかみさん、経営者だと思うが、いつも7時前には自転車で出勤。今朝はいつもより少し早いですねというと「今日は息子が現場に出るから」早く来たのだという。

 時々、出勤途上にお見掛けするのだが、ひっつめ髪の痩身で、颯爽と自転車を駆る姿はとても70代には見えない。図面も読めて実際の工程も担うのだとか。

「銀座のあのお店のあそこは私が・・・この間みてきましたよ」なんて話に驚かされる。亡くなった義母のこともよく覚えていてくださるご近所の明るいおかみさんである。

 


 散歩コースでは3つの橋を渡るのだが、一つ目の橋だけがクルマが通る。八王子街道から厚木街道国道246号線)への100mほどの近道なので、頻繁に通る。これがだらだらと何台も続けて通るのでなかなか横断できないときがある。つれあいと互いに「じいさんの○○」「ばあさんの○○」(○○は5文字。はじめは“し”最後は“ん”)と毒づきながら待つ。下品この上ない夫婦である。

 

 この橋の下の流れによく白いレジ袋がいくつも落ちている。膨らんでいるのはゴミが入っているからで、クルマの中から投棄する不届き者の所業のようだ。川は渇水状態で水量が少ないのでレジ袋は流れていかず、そこにとどまっている。増えているような気もする。


 そこにシラサギが飛来する。レジ袋とレジ袋の間にふわりと降り立ち、そのまま首をすくめ足を縮める。すると白いレジ袋とシラサギは区別がつかなくなる。興ざめ。

 あれはシラサギだろうと思って目を凝らして見る。レジ袋。詐欺である。

 水流までは3㍍近くあって降りるところもなく、レジ袋を除去したくてもできない。このところ毎日のようにこの光景を眺める。

 同じように白くても、シラサギはいつの間にか飛んでいって見えなくなる。レジ袋はいつまでもそこから去らない。

 清濁とはそんなものかもしれない。

 

 

 辺野古の新基地建設にまつわるホワイトハウスの請願署名、タレントでモデルのローラさんが呼びかけて話題になったが、昨日、クイーンのギタリストで天文学者ブライアン・メイさんがこの署名をしたこと、そして協力を呼び掛けていることを、購読しているsmokyさんという方のブログで知った。身辺雑記と映画評を力の抜けた素敵な文体で書かれる方だ。

 

以下は琉球新報の記事。

米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設で、県民投票が行われるまで埋め立て工事を中止することを求めるホワイトハウスの請願署名で、英ロックグループ、クイーンのギタリストで天文学者ブライアン・メイさんがSNS(会員制交流サイト)のインスタグラムとツイッター(短文投稿サイト)で署名への協力を呼び掛けている。自身も署名をしたとみられる。
クイーンは故フレディ・マーキュリーさんがボーカルを務めていたイギリスのロックグループで、「ボヘミアン・ラプソディ」や「ウィー・ウィル・ロック・ユー」など数多いヒット曲で知られている。現在、沖縄県内でも公開されているクイーンの伝記映画「ボヘミアン・ラプソディ」が全国的に大ヒットしている。メイさんは映画では音楽プロデューサーとして関わっている。
メイさんは署名を日本時間で7日に行ったとみられる。「緊急」と書き出し、「美しいサンゴ礁とかけがえのない生態系を保存するために」とし、署名に協力するよう求めている。
ツイッターなどでは新基地建設に反対している人々が「すごい」「ありがとう」「うれしい」などの投稿をして反応。「ブライアン・メイが署名を呼びかけてる!まだ署名していない人は今すぐぜひ!」「まだ間に合う」「20万以上を目指そう」と締め切りまで署名協力の拡散を図ろうと呼び掛けている。【琉球新報電子版】


 
 坐してできることである。簡単である。わからない人はネットで「ホワイトハウス請願署名のやり方」と検索すれば教えてもらえる。先日、私も実際にやってみた。
 

 ネット上では、「ブライアン・メイが政治的に利用されている」などの主張も出ている。ローラさんにもブライアン・メイさんにも主体性がないかのような言い方だ。


 「だれかに吹き込まれたのだろう」という隠微な言い方が世間にはある。「誰かに影響を受けたのだろう」という言い方とは違う。前者にはマインドコントロールのイメージが、後者にはいささかの主体性が感じられる。

 「あいつに吹き込んだ」という言い方はしない。常に「吹き込まれた」である。受け身で主張をまるごと植えつけられた状態か。

 この時「吹き込んだ」主体への批判が裏にはあるのだが、そちらへは表だって向かわず、「吹き込まれた」主体の方に「主体性がない」という批判が向けられる。

 これが有名人になると、「政治的に利用されている」という言い方になる。つまり「主体性がない」という批判になるのだ。

 

 オリジナリティを身上とするアーティストにとってこれほど侮辱した言い方はない。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ずいぶん回数を重ねてきたせいか、いまさら新しい年の清新さを格別感じることもなく、ただ冬日の温かさだけがありがたい元旦である。

   

   新しい年を迎えた。

 時間は飛ぶように過ぎてあっという間に新年。ずいぶん回数を重ねてきたせいか、いまさら新しい年の清新さを格別感じることもなく、ただ冬日の温かさだけがありがたい元旦である。

本年もよろしくお願いします。

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 年賀状の中の一枚に「ブログの呑み話が好きです」とあった。ほかにもいろいろ書いているのだが・・・。困ったものである。
 
 

 暮れも「里帰り」組が三家族9人が集まり、昼下がりから年忘れパーティー?が始まる。全員が集まるのは夏以来か。

 

 人が集まる。黙って坐っていればいいものを、ついあれやこれやとキッチンに立ってしまう癖がある私。あれが足りないと言われれば、そんなに律義にやらなくてもいいのに、呑んでいるせいか「ちゃんとやらねば」と思ってしまうところがある。そのうち酔いが急速に回ってくる。元来、そとづらがよいと言われているだけに、外では気遣って?簡単には酔わない。身内しかいないとリミッターは効かず、アルコールが数倍の速さで浸透していく。キッチンを往復しているとなおさらである。夕方には「沈没」。

 

 キッチンでの「仕事」がはてなんだったか、憶えていないのだが、パーティー開始から4時間ほどでブラックアウト。目が覚めたのは、深夜11時半過ぎ。大晦日は佳境どころかもう終幕である。
 

 パソコンの前に坐って、午前中に書いておいた100本目のブログを投稿する。何を書いたのか、思い出せない。
 

 

 2019年1月1日早朝。年が変わってもカラダは変わらない。目が覚めてしまう。

 昨夜つれあいは遅くまでおせちづくり。私は結局手をつけられなかった伊達巻づくりに取り掛かる。

 くちなしの実を水につけて、砂糖に塩に出汁に醤油に酒に・・・これらをまとめてはんぺんと卵と一緒にミキサーにかけ・・・今年は昨日の酒が残っているせいかうまく力が抜けていて、上々の出来。自画自賛

 松前漬けは生活クラブの即席を使用。これがよくできている。ニンジンの細切りと合わせて根気良くかき混ぜるだけ。すごいぬめり。かなりうまい。あとは雑煮の準備。
 

 起きてきた長女のダンナと再び呑み始める。長女の視線、若干きつめだが、本人もさかづきを差し出してくるので安心安心。そこそこ捗がいくが、今日は沈没はしない。
 

 昼前、孫二人とらいを連れて散歩に行くというつれあいの声に、つい「わたしも行くから」と応えてすぐに後悔する。しかし、喜ぶらいと孫の手前、やめるわけにはいかない。
 

 元旦の境川河畔、風なし。日差し温か。水面は鏡のようだ。ほろ酔い気分。気がつけば1時間半の散歩。

 なんだ、今年の酒、なかなかいい展開じゃないか。
 

 

 

 友人に勧められて12月に『光の犬』(松家仁之・2017年・新潮社)を読んだ。1000枚近い長さ、思いのほか時間がかかったのだが、久しぶりにゆっくり味わいながら読んだ小説だ。
 

 架空の町、北海道枝留(えだる)に住む3世代の家族のそれぞれの日々の物語を紡ぐ。

 添島家の一族三代のうち、一番若い世代が始と姉の歩。彼らの父眞二郎と母登代子。同じ敷地内に眞二郎の姉の一枝、妹の恵美子と智世。薄荷工場を起こす眞二郎の父眞蔵とその妻で産婆のよねが随所に登場する。タイトルの「光の犬」は、代々の北海道犬4頭のことだが、特段犬がメインの話ではない。
 

 物語は初老の始が大学の教員を辞めて枝留に帰るところから始まる。
 「添島始は消失点を背負っていた」。
 消失点という言葉から、始の背中に数本の一点透視の図がイメージされる。不思議な始まりだ。最後のシーンは始が枝留の床屋で頭を刈られているところ。二つとも印象強い。

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 どこの家族にも劇的な展開などあるわけではない。

 劇的とは無縁の小さな発端がまずあって、その原因と思われるがはっきりとは特定できない要因がいくつもあり、解決などというはっきりした規矩とは別の立ち枯れていくような、あるいは生のまま腐って脈略もなく放置されている時間の流れがあるだけ。

 それを営みといっていいのかどうかわからないが、家族とはそうしたリアリティの中にあるのではないか。そんなことを考えてしまうほど、この小説は平坦だが味わい深い。
 

 筆者は、そういう家族にひたすらに寄り添って、そこから聞こえてくるいくつもの声に耳を傾けている。
 どこにでもいる家族と言えば語弊があるかもしれないが、会社を興しうまくいっている時期に、よねは産婆の仕事に精魂を傾け、眞蔵とは気持ちが離れ、眞蔵はいつしか札幌に女性を囲う。それを知る息子の眞二郎は、父と違って北海道犬に熱中はするが、子どもの始や歩と気持ちを通じさせることができない。唯一、姉妹の3人とは気脈が通じるが、長男として振る舞うことはしない、できない。家族よりも気を許しているだけのことだ。妻の登代子はそういう眞蔵に鬱屈を感じているが、表に出すことはしない。

 眞蔵の姉妹たちの中でも、一度は嫁に行き戻ってきた恵美子に対する二人の姉妹のそれぞれの鬱屈があり、恵美子自身、知恵が足りないと言われながら抱えているものの深さは計り知れない。3人が3人とも結婚をせずに亡くなっていく。それを看取るのは始だ。

 

 始は思春期から見えはじめた眞蔵との距離が広がるばかり。歩は、犬との交流のなかに居場所を見つけるが、家族の中には見つけられない。歩は家を離れ天文学の研究者になっていく。

 歩が重い癌を得て余命を宣告されたあと、始が歩の世話をするが、その思いまでは受け止め切れない。歩の最期を看取る近くの教会の息子一惟(いちい)だ。一惟は歩と同じ高校の同窓生。互いに求め合うかにみえるが、物理的な距離の中、別の人生を歩み始める。

 一惟もいったんは枝留を離れるが、戻って結婚、父の教会の跡を継ぐ。

 互いに惹かれ合っていながら、激しく求めることなく、歩の若き晩年になって再会する。一惟もまた家族との齟齬に佇立している。


 隣家に住む伯叔母たちとの微妙で微細な軋轢は、眞二郎の家族の中に影を落とすことはあっても、それが何らかのエネルギーを得て動き出すことはない。立ち枯れていくばかりである。
 本の中に入って行くにつれ、目が離せなくなった。彼ら一人ひとりの言葉に私自身が耳を傾けていく。私が歩とほぼ同じ時代を歩いてきたことにもよるが、それ以上に、家族にとってあるべき展開とか解決というものが、人が生きて動いているうちには動き出さず、人の生き死によってようやく小さな変化となって形をもたらすものだということを読みながら感じとり、自分の家族を重ねていたからかもしれない。

f:id:keisuke42001:20190104152138j:plain松家仁之氏(まついえ・まさし)1958年生


 情景描写も心理描写も自然で、静謐ともいえる言葉がもたらしてくれる世界、暮らしとか生活といった言葉の重さを感じさせてくれる独特の世界が、この小説にはある。管見ながらこのような作家が同時代にいたんだという驚きがあった。

 

 

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 庭の桜草?

 

私的な覚え書きは続かないが、誰かが読んでくれれば続くかもというと魂胆で始めたのだが、飽きっぽい私が何とか7か月続いた。目を通していただいた皆さんに感謝したい。

12月31日

 朝から「実家」である。といってもすでに帰るべき実家はなく、うちで実家をやっているのである。

 お昼に里帰りの7人を迎える。朝食のあとつれあいと、散歩をカットして二人でバタバタと準備にとりかかる。料理に掃除や寝具の用意などすることはいくらでもある。といっても私ができることは限られている。

 最近おぼえた太巻き細巻き、何度かつくって割合評判の良いスンドゥブ、田舎料理のこづゆ。あとはお酒のおつまみづくりぐらい。

 簡単なおせちの準備は夜からだが、呑んでしまうと動きたくなくなるので、午前中のうちにおせちの分担の松前漬けと伊達巻きはつくっておく。

 

 これから数日はおじいちゃんおばあちゃんである(じいじばあばではない(笑))。

 

 

 ブログの記録を見たら、これが100本目の投稿になるようだ。6月から断続的に3日に一度ぐらい書き込んだことになる。私的な覚え書きは続かないが、誰かが読んでくれれば続くかもというと魂胆で始めたのだが、飽きっぽい私が何とか7か月はもった。目を通していただいている皆さんに感謝したい。

 

 最近、映画のことを書いていない。『人魚の眠る家』(2018年・日本・120分・堤幸彦監督・篠原涼子西島秀俊)を11月の封切り直後にみてからだ。何度かこの映画について書こうと思いながら、結局そのままに。あまりいい印象がなかった。書けば文句だけになりそうな予感があった。でもほおっておくと忘れてしまう。ブログは覚え書き、印象だけは少し書いておこう。

 

 直後の印象は、東野・堤ワールドに簡単にはまるめ込まれないぞ、である。

 物語の枠組みはわかりやすく、エンドロールまでみてはしまったけれど、不満が残った。全体に浅いのだ。

 このあたりの線でまとめておけば、おおかたの観客は喜んでくれるだろうという安易さ、ゆるみみたいなものを感じ。結局、古臭い難病ものの域を出ていない。

 設定も演技も過剰で(西島秀俊という人、面白味を感じない。篠原涼子は過剰)人々の営みの自然さが感じられない。生活とか日常の思考ってそういうのじゃないでしょうと突っ込みたくなる。映画づくりがあまりに手慣れていて、嘘くさいのだ。ファンタジックな偶然の積み重ねの妙が東野圭吾の一面だとすれば、堤幸彦の映画づくりもその線に則ってつくられていてうまくいっているのかもしれない。

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 とにかく、みたあとの感じがよくなかった。絶賛の声がネットにはあふれているが・・・。★★

 

 この際だから、12月にみたものコメントしてしまう。

 『カエル少年失踪殺人事件』(2011年・韓国・132分・イ・ギュマン監督)

 韓国の三大未解決事件のひとつ。カエル取りに行った5人の子どもたちが行方不明になるが、捜査は難航。事件から11年後の2002年に子どもたちの白骨死体が発見されるも、手掛かりがほとんどなく迷宮入りとなった事件が題材。

 全体に張り詰めたものを感じさせるが、事件自体が迷宮入りとなっていることもあってなんだかもやっとしている。題材に付けたフレームがつくりものっぽい部分(刑事、テレビのプロデユーサー、大学教授)とリアルな部分(子どもの両親、家族)がややアンバランス。何をしようとしているのかがよくわからない。★★

 

『恋妻恐妻家宮本』(2017年・日本・117分・遊川和彦監督・阿部寛天海祐希

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 面白くないわけではない。二人の個性的な俳優が対照的なのだが、しかしこれもまた阿部寛が過剰な感じが否めない。何十年か過ごした夫婦間の問題、機微はこれほど単純すっきりではない。

 書棚の本の中から見つけた一枚の離婚届が物語を引っ張るが、ふたりの成熟した大人のやり取りがいかにも出来合いで、ドキドキしない。★★★

 

日日是好日』(2018年・日本・100分・大森立嗣監督・樹木希林黒木華

 こんなことを言っては申し訳ないのだが、井浦新主演の方の『光』を撮った監督とは思えない。今年見た映画のベスト3に数えられる。別格。

 独特のペースとリズム。脚本もいいし、樹木希林黒木華の演技はほんとうに上質。茶道の世界を描いていて、これ見よがしの高踏的な雰囲気がないのがいい。あまりうまくない鶴見慎吾までいい雰囲気。こういう映画が見られるとは思わなかった。★★★★★

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『鈴木家の嘘』(2018年・日本・133分・野尻克己監督・岸部一徳原日出子

 「長男の死によって巻き起こる家族の混乱と再生を、ユーモアを交えてあたたかく描いたドラマ。鈴木家の長男・浩一が突然亡くなった。そのショックで記憶を失ってしまった母・悠子のため、父・幸男と長女・富美が嘘をつく。それはひきこもりだった浩一が部屋の扉を開き、家を離れ、世界に飛び出していったという、母の笑顔を守るためのやさしい嘘だった。」という惹句と予告編が観客をミスリードしていると思う。

 あちこちにちりばめられたユーモアがそうさせるのだろうけれど、笑いをとろうとしなくても十分にみられる映画。安っぽい笑いを全部カットして、よけいなシーン(これが多い。90分で十分)をつなげれば上質な映画になるのになあと見ながら考えた。

 というのもこの映画「家族の混乱と再生」といった紋切型の「一丁上がり」にとどまらない。

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 突然の家族の自死を残された家族はどう受けとめられるのか、受けとめられないのかというきわめて重い問いをしっかりフィルムの中に刻んでいる。

 自死する加瀬亮演じる浩一の演技はとっても不穏でかつ不可解さが十分に表れていて突かれるものがあった。その死を受け止め切れない父親幸男役の岸部一徳も、セリフより些細な動きでその不安定な感情をよく表現している。妹役の木竜麻生は、人生で初めての死の不条理に混乱する繊細な感情を新体操の演技も含めて全身で表現している。

 母親役の原日出子も、家族の嘘に騙される単なるあっけらかんとした母親ではなく、浩一の自死を自分のものとして受けとめようとする哀切さがあった。随所にみられるセリフのない情景描写も映画全体の雰囲気になじんでいて、盛り上げている。

 暗い映画になってしまうかもしれないが、観客の胸に迫る名画となる可能性があったのではないか。営業を考えれば、こうしたつくりになってしまうこともわかるが、もったいないなと思った。★★★★

 

散歩する侵略者』(2017年・日本・129分・黒沢清監督・長澤まさみ松田龍平

 地球を征服するために降り立った宇宙人が、地球人の感情の概念(例えば家族とか勤労精神とか)をそっくりそのまま奪い取ってしまう、という設定が面白い。人間がどれだけのものに蹂躙され屈託して生きているのかを反転させて見せてくれる。松田龍平、好演。

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残虐な殺人事件に激しい戦闘シーン、どれも作りものっぽいところが丸見えなのがかえっていい。残るのは人間の面倒くささかな?予想に反して楽しめた。★★★

 

『光』(2017年・日仏独合作・102分・河瀨直美監督・永瀬正敏水崎綾女

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 さすがに稀代の名監督、途中まではひきこまれた。常連俳優の永瀬正敏がいい。見えることと見えないこと。視覚を奪われた人間とのかかわりから見えてくるもの・・・。後半、なんだか面倒なことにしてしまったような。眠くなってしまった。

自分好みで言えば、こねくり回して抽象化するよりも、視覚障碍者と健常者との関係、男女の屈折したリアルなシーンが重なっていく方がいいと思った。しかしそれではあまりにストレートか、などと考えながら見た。河瀨監督の演出の力だろう、出ている役者さんたちが皆一味違うなあと思った。★★★★

 

『クリミナル 二人の記憶を持つ男』(2015年・英米合作・113分・アリエル・ブロメン監督・ケビン・コスナー

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 CIAのエージェントのビリーが任務中に死亡した。ビリーは、米国の核ミサイルを遠隔操作するプログラムを開発したハッカー「ダッチマン」の存在を唯一知る男。国際テロ組織も躍起になってダッチマンのあとを追う。CIAは何としてもダッチマンを確保するためにビリーの記憶を生きている人間に移植する手術を検討する。移植先の人間として選ばれたのが、凶悪犯で死刑囚のジェリコ。人間らしい感情をもたないジェリコと知的で愛情深いビリーのふたつの人格がジェリコの中でせめぎ合う。

 SF的な発想で陳腐なものになりがちなところをケビン・コスナーの奥行きのある演技と息もつかせぬアクション、そして観客にさまざまな思考を迫る設定で陳腐にならず、それどころかリアルな物語となっている。おもしろかった。★★★★

 

不能犯』(2018年・日本・106分・白石晃士監督・松坂桃李沢尻エリカ

 松坂桃李はつくりすぎ。沢尻エリカの演技はもうどうにもならない。原作が漫画ということもあるのだろうが、設定がそもそも無理がありすぎる。映画の中に入って行けない。★★

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ペンタゴンペーパーズ』(2017年・アメリカ・116分・原題The Post・スティーブン・スピルバーグ監督・メリル・ストリープトム・ハンクス

「巨匠スティーブン・スピルバーグ監督のもとで、メリル・ストリープトム・ハンクスという2大オスカー俳優が初共演を果たした社会派ドラマ。ベトナム戦争が泥沼化し、アメリカ国民の間に疑問や反戦の気運が高まっていた1971年、政府がひた隠す真実を明らかにすべく奔走した人物たちの姿を描いた。リチャード・ニクソン大統領政権下の71年、ベトナム戦争を分析・記録した国防省の最高機密文書=通称「ペンタゴン・ペーパーズ」の存在をニューヨーク・タイムズがスクープし、政府の欺瞞が明らかにされる。ライバル紙でもあるワシントン・ポスト紙は、亡き夫に代わり発行人・社主に就任していた女性キャサリン・グラハムのもと、編集主幹のベン・ブラッドリーらが文書の入手に奔走。なんとか文書を手に入れることに成功するが、ニクソン政権は記事を書いたニューヨーク・タイムズの差し止めを要求。新たに記事を掲載すれば、ワシントン・ポストも同じ目にあうことが危惧された。記事の掲載を巡り会社の経営陣とブラッドリーら記者たちの意見は対立し、キャサリンは経営か報道の自由かの間で難しい判断を迫られる。」

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 何と言っても脚本が素晴らしいと思う。50年前の再現を70年当時の雰囲気を二人の名優が見事に表現している。説明を省いているので、流れを追うのが私には難しかった。自分の理解力を別にすれば、史実に忠実であろうとすると、かえって物語としてはわかりにくくなってしまうのかもしれない。★★★★

 

『悲しき獣』(2010年・韓国・140分・ナ・ホンジン監督・ハ・ジョンウ/キム・ユンスソク)

 「中国、ロシア、北朝鮮に国境を接する延辺朝鮮族自治州の中国側に住むグナム (ハ・ジョンウ) はある日タクシー運転手の仕事を解雇され、韓国に出稼ぎに行った妻からの送金もない。窮地に瀕したグナムは借金返済のため犬商人で地下社会のボス、ミョン (キム・ユンソク) に持ちかけられた請負殺人の依頼を承諾し、韓国に入る。」(Wikipedia

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 朝鮮族に対する差別については初めて知った。全編荒れた画面と激しいカメラワークが迫力。ひたすら妻と自分を取り巻く事実を追うために韓国内を動き回るグナムのあとを追い続けるサスペンス。途中で、はてこれは何の映画だったっけ?ということもあった。そのぐらいグナム、ミョンの追いつ追われつのアクションが凄い。死んだと思った妻は結局死んではいなかった。細かい部分が、これも理解力不足で追い続けられなかった。★★★

 

ボヘミアン・ラプソディ』(2018年・アメリカ・135分・ラミ・マレック

 ららぽーと横浜で時間がちょうどよかったのでIMAXでみた。大音量だが、クリアで全くうるさくなく愉しめた。

 とにかくこの映画、演奏シーンがすばらしい。圧倒された。

 レミ・マレックという人のフレディのコピーがすごいとは聞いていたが、たしかに。でも、たぶんコピーではない、フレディが家族にメアリーを紹介する場面?でのhappy birthday to meがゾクッとした。フレディの複雑な感情が込められた演技と歌、いいシーンだと思った。

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 音楽のシーンに比して物語の方は、しかし浅い。フレディの出自の問題、家族、とりわけ父親との関係、メアリ―との関係、ポールブレンター、クイーンの挫折と再生、エイズ、どれも中途半端な感じがした。メアリーとの関係はともかく、ポールブレンターとの関係など私にはよくわからなかった。メアリーと付き合っていながらポールに惹かれていくのはどうしてなのか?ポールが悪役の役回りをしているだけにそのへんが全く見えず、そのポールが一つの軸となって後半生の物語が形成されていくが、単純化しすぎているのではないか。フレディの最期を看取ったというジム・ハットンとの関係もそれだけ?取ってつけたような感じを受けた。

 父親との軋轢、葛藤がライブエイドの前に解けたようにも見えたが、父子の間の和解としては安易。ああいうシーンはいらないし、ライブエイドの画面を見ている父親の表情だけでよかったのではないか。

 フレディのもつ破天荒さの裏の突き詰められた孤独のようなものが源泉となって、人とつながられるための音楽が生み出されていくとすれば、表に現れる音楽だけで十分ではないかという気もする。

 

 20年近くも前に友人からもらったフレディのソロアルバム「ベストオブフレディマーキュリー」を引っ張りだしてきて聴いている。★★★★★

 

 

 皆さんにとって2019年が素晴らしい年になることを祈っています。

 

「年の瀬」の「瀬」は行ったり来たりのお金の流れが激しく、借金を払わないと新年からはつけがきかなくなるぎりぎりのところという意味だそうだ。

12月27日
 さっき印刷屋のWさんがカレンダーを届けに来てくださった。長年付き合っていただいている印刷屋さんだが、4月から組合関係のほとんどをやめてしまった身としては、例年のように届けていただくのは大変に恐縮である。仕事の中身同様、きめ細かな心遣いと律儀さに頭が下がる思い。

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    カレンダーといえば今日27日、年の瀬である。
    瀬と書くと「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」(崇徳院)の歌が口を突いて出てくる。国語教師の習い性、名残りなのか。


    12月も終業式の前になると成績事務や保護者面談、大掃除やらで、学校の中もそぞろ落ち着かなくなる。生徒も授業に身が入らなくなるそんな時期に、百人一首をよくやった。国語の学習指導要領には百人一首をやれとは書いていないが、年に4,5時間はやっただろうか。通常の授業でないから生徒は喜ぶ。

    学校によっては百人一首大会というのがまだ続いていて、年明けには体育館いっぱいにカルタを並べて授業2コマほども使って競い合ったりする。その練習という意味合いもあったりするのだが、若い学級担任は札を読むのが苦手という人が多い。授業でやってもらえれば助かるというので、時には授業が空いている学級担任が入り込んで一緒に遊ぶということもあった。

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    100枚すべて憶えていますという剛の生徒もまれにいる。生真面目な生徒は3,40枚か。彼らは読み上げを聞いて律儀に札を探すのだが、ようやく見つけていざという時に、横合いからすっとかっさらうハゲタカのようなやつがいる。こういう生徒は読み上げも聞いていないし、札も見ていない。歌の意味はもちろん、一枚の札も憶えてはいない。ひたすらに「できる人」の手の動きを注視しているのである。こういうところが、中学生の百人一首の面白いところ。「ずる~い」という生徒もいるが、ルール違反ではない。これも「生きる力」である。

 

 時に「好きな歌、ありますか」と訊いてみる。「わたしは、この歌が好きです」と「瀬をはやみ」を挙げる生徒が毎年必ずいた。悲恋にあこがれる中学生の人気首である。

 「知らねえ!聞いたことねえ!」とほざく生徒を相手に、「瀬」や「せかるる」「われても」などを説明する。瀬は「河の流れが速く浅いところ」。「逢わむ」の意味は「逢わない」ではなく「逢いたいと思う」なのだと付け加える。中学生は打消しと意志を取り違えて悩む。

「立つ瀬がない」ともいう。深みにはまって安心して立つような浅瀬がないということだ。そうすると「身を捨てて浮かぶ瀬もあれ」の俚諺も分かりやすい。

 

 では年の瀬の「瀬」とは何か。そのままネットでひけば「借金清算の最大の攻防の時期」という意味が出てくる。「年の瀬」は行ったり来たりのお金の流れが激しく、借金を払わないと新年からはつけがきかなくなるぎりぎりのところという意味のようだ。

 

 落語の「掛け取り万歳」(6代目圓生)を聴くと、江戸時代は買い物のほとんどがつけで盆暮れ払いだったという。大晦日までに払わなければ年を越した後は多少融通が利くことになったようだ。そのため、八五郎は年の瀬、大晦日の攻防にもてる知恵を最大限動員して借金取りとやり合う。



 私が小さかったころ、まだそうした慣習が残っていた。通い帳というものに店ごとの借金が記入されていた。
 よく覚えているのは、町の中のかかりつけの医者の治療費の支払い。
 遠い親戚筋にあたるいかめしい医院のこともよく覚えている。

 北側の道路に面した門から10歩ほども進むと両開きの重々しいくもりガラス戸。開けるとけっこうな広さの三和土があり、患者の履物が並んでいる。お寺にあるような木の階段を2段ほど上がるとまたガラス戸。中は4畳半ほどの畳敷きの薄暗い待合室。窓はない。診察室は待合室との間の廊下を隔てたところにある。待合室の薄暗さとは対照的にここは南側にあたり、明るい陽射しが入っていたのを覚えている。


 でっぷりと太ったつるっと禿げ上がった先生、やさしいせんせいだった。浣腸などをしに往診にきてもらったのを憶えているが、乗り物はスクーターだった。1960年代の頃の医者の定番の格好だ。
天井の高い待合室の、診察室に向かって左側に小さな小窓がある。この奥が薬局になっていてここから薬をもらう。
この小窓の奥にいたのが、細ぶちのメガネをかけた痩せた中年の女性。彼女が自転車に乗ってお金を取りに来たのを覚えている。


 どれだけのものがつけだったのか。人が移動することの少ない時代、というと大げさかもしれないが、小口の信用取引があちこちで成立していた、貧しいけれど幸せな時代だったのかもしれない。

 

 八五郎はけんかっ早い魚屋の金さんが「借金、払わねえなら払うまでここを動かねえ」というのを逆手にとって、「払うまで5年でも10年でもそこに居ろってんだ。動くんじゃねえぞ」と脅しつける。立場逆転である。「いや、そうもいかねえからまた来るわ」という金さんに「帰るってことは「払った」ということだな」それならそれで「受取をもらっていねえ」と八五郎が畳みかける。金さん仕方なく「は、は、払ったよ、ほら受け取り!」と領収証まで渡ししてしまう。調子に乗った八五郎、受け取りを見ながら「なに、借金は8円50銭か。たしか10円で払ったからまだお釣りをもらっていねえ」がサゲとなる。
庶民が留飲を下げる噺である。

書いたあとにチコちゃんの録画を見たら、同じような話をやっていた。こんなことを知らなくても「ぼーっと生きている」わけではないと思うが。

 

 25日、二人で初の”MIDETTE”。福島のアンテナショップ。出店しているうえんでのラーメンを久しぶりに食べた。店名「うえんで」は、「上の田んぼ」という意味。母屋より高いところにある田んぼのことを指す言葉のようだ。耳で聴くだけだとwendyという変わった名前のラーメン屋かと思われがち。日本語でもかなり変わった店名であることは確か。懐かしい味。うまい。塩味が少しきついが。

 会津鉄道芦ノ牧駅近くのうえんでの本店はかなりの人気店。なぜか大ぶりのやきとりも人気。すぐ近くに新横浜のラーメン博物館に出店している牛乳屋食堂がある。

 

 写真は呑み比べセット。キンメのかまぼこは浜通りの磐城産。本醸造の「ちどりあし」は西会津の栄川酒造。さかえがわ酒造。磐梯町の栄川(えいせん)酒造とは別の蔵。創業はえいせんが明治。さかえがわは文化年間。

 真ん中が仁井田本家の純米吟醸「穏」。この蔵は1711年創業。郡山のお酒。郡山駅から歩いて2分のところに「酒蔵金寶(きんぽう)」という老舗の居酒屋がある。この蔵が経営しているお店。店名は本醸造酒の名前。コの字型のカウンター。新幹線の乗り換えの時に30分でも寄りたくなる店である。

 右端が喜多方の大和川酒造の弥右衛門大吟醸。1790年寛政年間の創業。価格も味も三つのなかではいちばん。大吟醸だが重口。

 ここの当主は代々佐藤弥右衛門を襲名する。3・11の被災を受けて2013年、この方が中心となって「原子力に依存しない安全で持続可能な社会作りと会津地域のエネルギー自立」を掲げて会津電力株式会社を設立。現在も講演で全国を駆け回っていらっしゃるようだ。

 この呑み比べ、MIDETTEのHPに予告が出る。週がわりである。

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 正月の小づゆ用の豆麩と銘酒花泉、柏屋の薄皮饅頭、かんのやのゆべしなどを購入。

 

 MIDETTEは日本橋三越の並びにあるが、向かい側には奈良、新潟、島根、三重のアンテナショップが並んでいる。茅乃舎も。奈良以外の4軒に入り買い物。日本橋島館の店頭、宍道湖しじみの味噌汁のサービスは美味。

 

 ちなみにMIDETTEは、「見ていって」の会津弁である。

 

冬至を過ぎれば日の出も早くなるものとばかり思い込んでいた。そうならないのは・・・。

 12月25日
 冬至を過ぎると、日の入りが少しずつ遅くなっていく。冬至に16:33だったものが、昨日24日は16:35。日の出はすぐには早まらない。冬至に6:48だったものが、昨日は6:49。このまま遅くなっていき、1月半ばから少しずつ早くなる。自然科学に疎いアタマは、冬至を過ぎれば日の出も早くなるものとばかり思い込んでいた。

 地球の公転軌道が正確な円運動ではないためらしい。よくわからないが。


 散歩に出かけるのは、6時45分ごろ。明るくはなっているが、東の空に雲がかかっていて上ってくる太陽はまだ姿を見せない。明るい西の空に月。23日が満月だったから、少しほっそりしている。


 サギの群れとカモの群れ。どちらも4、50羽の群れ。真っ白な羽を見せて群れ飛ぶサギの白は輝いていて美しいと思う.飛んでいるカモは羽が黒くてカワウと見分けがつかない。

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 らいは完全復調。私的?ドッグランも絶好調。思い切り走り回る様子を立ち止まってみている人も。昨日は、一眼レフをもって散歩している同じマンションのAさんが写真を撮ってくれた。プリントしてくださった。

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 帰途、東南に向かって境川を下ってくるが、雲の切れ間から太陽が姿を見せる。この時期境川渇水だが、水面は透き通っている。子ガモが、親ガモとはぐれたのか一羽でえさをついばんでいる。


 世の中は3連休が終わって、あと2,3日は仕事があるのだろう、出勤の自転車が急いでいる。風のない穏やかな年の瀬である。

 今日は、日本橋の“midette”に行くつもり。

 

 20日に若い友人Yさん夫妻の二人目のお子さんの顔を見に行く。

 産まれて2か月半。平日に伺えるのはダンナのW君が育児休暇をとっているためだ。 

 出産から3か月間の育休。上の子が3歳になるから、ダンナと二人で子どもが見られる。奥さんのMさんの表情も穏やかだ。


 W君は中一の学級担任。2学期のど真ん中の育休取得は簡単ではないと思うのだが、学年主任が代わりに担任をやってくれ、周囲の同僚に助けられ気持ちよく送り出されたという。男性の育休など私たちの若いころには考えられないことだが、6割が過労死ラインという現在の中学にあって、こうした職場があること、素晴らしいなと思う。
 

 後日、内祝いにとYさん夫妻から米が届いた。真っ赤な薔薇が刷り込まれた袋の真ん中に産まれた赤ちゃんAちゃんの写真、右上に赤い字で「Y家の新米です」。左側に命名と生年月日、出産体重3176g。左下に挨拶状があり、「…このお米は出産時の体重3176gに合わせてあります。ぜひ抱っこしていただき、実感していただければと思います。…」とある。ニヤリとさせられるユーモアに富んだ内祝いである。

 

 22日、同僚だったOさんに会うことはこのブログに書いた。もう一人の同僚Aさんもいっしょに3人で青葉台の駅前の神戸屋キッチンへ。込んでいるというのでOさんが席を取っておいてくれた。退職後、何度か目の手術をしているOさん、相変わらず気遣いの人である。


 家族連れの多い店内に60代半ばの男三人は少し浮いてはいるが、となりの席にはイヤホンを耳に挟みながらスマホで競馬に見入る若者もいるから、それほどでもない。

 つい先日、女性一人を含む4人でフランス料理の店での会食の予定が、女性が急用で来られなくなり、60代半ばの男性3人でフランス料理のテーブルを囲むという微妙な取り合わせに。周囲は年配の女性中心のグループばかり。この時はかなり浮いた感じがあった。
 

 互いの近況を知らせ合い、最近の政治や社会についてとりとめない話を2時間あまり。若いころから帝銀事件の支援をしているというOさんの話に耳を傾ける。拘置所の平沢死刑囚にも何度か面会をしているという。平沢死刑囚からの絵はがきも見せていただく。風景を描いた絵も素晴らしいが、字が闊達で躍動している。

 旧交を温めるという言葉があるが、まさにそれ。また近いうちにと再会を約束し、Oさんと改札口で別れる。
 

 日は暮れているが、帰宅するには少し早いかとAさんと長津田のSで一献かたむけることに。
 5人の孫をもつAさん、長年将棋部の顧問を務めていたため将棋の腕前はかなりのもの。相手方のお父さんも将棋を指すのが趣味なのだとか。請われて対局するも、勝ちすぎず負け過ぎずの一勝一敗の線に持ち込むために、微妙な差し具合いが必要なのだという話が面白かった。

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 23日。連休の中日。スケジュール表などほとんど予定が入っていないのだが、今週は少し込んでいる。次女の一人息子のaくん3歳の誕生会。

 

 彼らが住むのは電車でいえば上星川、込んでなければクルマだと20分ほどのところ。横浜西口行きのバスでも乗り換えなしでいけるのだが、プレゼントなど荷物が多く、クルマで向かうことに。11時前。16号線も保土ヶ谷バイパスも上りは全く込んでいない。連休の中日のせいだろうか。快晴の中、いつものようにつれあいはけっこうなスピードで運転する。チョッパヤ?で到着。
 

 ダンナのA君のご両親が、韮崎から来られている。家の中は、誕生日とクリスマスが一緒になった派手な飾りつけ。いやがおうにも盛り上がるaくん。毎年、7人での誕生会。

 

 今回の大人の話題のひとつが、”ブー酎”。若いころ甲府の立ちのみのような安い呑み屋でこれをよく飲んだとか。ブーとは葡萄酒、ワインのこと。お父さんによればぶどう酒とワインは違うということだが、「嫁」にどう違うかと問われ、答えに窮していたところを見ると、さしたる違いはなさそうだが、ブー酎とはきわめて安価な焼酎にこれまた安価なワインを入れた飲み物のこと。少量でもかなり早く酔えるそうで、お金のないときには手ごろな酒だったとか。さすがにワイン所、山梨の話ではある。

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 a君はしっかり食べたあと、大人の周りを走り回っている。みんなが集まったのがうれしくて仕方がないようだ。話題の豊かなお父さんの話を聞きながら杯を傾けていると、時間はすぐに経ってしまう。

 夕方、早めの帰宅。一眠りしてしまう。