ずいぶん回数を重ねてきたせいか、いまさら新しい年の清新さを格別感じることもなく、ただ冬日の温かさだけがありがたい元旦である。

   

   新しい年を迎えた。

 時間は飛ぶように過ぎてあっという間に新年。ずいぶん回数を重ねてきたせいか、いまさら新しい年の清新さを格別感じることもなく、ただ冬日の温かさだけがありがたい元旦である。

本年もよろしくお願いします。

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 年賀状の中の一枚に「ブログの呑み話が好きです」とあった。ほかにもいろいろ書いているのだが・・・。困ったものである。
 
 

 暮れも「里帰り」組が三家族9人が集まり、昼下がりから年忘れパーティー?が始まる。全員が集まるのは夏以来か。

 

 人が集まる。黙って坐っていればいいものを、ついあれやこれやとキッチンに立ってしまう癖がある私。あれが足りないと言われれば、そんなに律義にやらなくてもいいのに、呑んでいるせいか「ちゃんとやらねば」と思ってしまうところがある。そのうち酔いが急速に回ってくる。元来、そとづらがよいと言われているだけに、外では気遣って?簡単には酔わない。身内しかいないとリミッターは効かず、アルコールが数倍の速さで浸透していく。キッチンを往復しているとなおさらである。夕方には「沈没」。

 

 キッチンでの「仕事」がはてなんだったか、憶えていないのだが、パーティー開始から4時間ほどでブラックアウト。目が覚めたのは、深夜11時半過ぎ。大晦日は佳境どころかもう終幕である。
 

 パソコンの前に坐って、午前中に書いておいた100本目のブログを投稿する。何を書いたのか、思い出せない。
 

 

 2019年1月1日早朝。年が変わってもカラダは変わらない。目が覚めてしまう。

 昨夜つれあいは遅くまでおせちづくり。私は結局手をつけられなかった伊達巻づくりに取り掛かる。

 くちなしの実を水につけて、砂糖に塩に出汁に醤油に酒に・・・これらをまとめてはんぺんと卵と一緒にミキサーにかけ・・・今年は昨日の酒が残っているせいかうまく力が抜けていて、上々の出来。自画自賛

 松前漬けは生活クラブの即席を使用。これがよくできている。ニンジンの細切りと合わせて根気良くかき混ぜるだけ。すごいぬめり。かなりうまい。あとは雑煮の準備。
 

 起きてきた長女のダンナと再び呑み始める。長女の視線、若干きつめだが、本人もさかづきを差し出してくるので安心安心。そこそこ捗がいくが、今日は沈没はしない。
 

 昼前、孫二人とらいを連れて散歩に行くというつれあいの声に、つい「わたしも行くから」と応えてすぐに後悔する。しかし、喜ぶらいと孫の手前、やめるわけにはいかない。
 

 元旦の境川河畔、風なし。日差し温か。水面は鏡のようだ。ほろ酔い気分。気がつけば1時間半の散歩。

 なんだ、今年の酒、なかなかいい展開じゃないか。
 

 

 

 友人に勧められて12月に『光の犬』(松家仁之・2017年・新潮社)を読んだ。1000枚近い長さ、思いのほか時間がかかったのだが、久しぶりにゆっくり味わいながら読んだ小説だ。
 

 架空の町、北海道枝留(えだる)に住む3世代の家族のそれぞれの日々の物語を紡ぐ。

 添島家の一族三代のうち、一番若い世代が始と姉の歩。彼らの父眞二郎と母登代子。同じ敷地内に眞二郎の姉の一枝、妹の恵美子と智世。薄荷工場を起こす眞二郎の父眞蔵とその妻で産婆のよねが随所に登場する。タイトルの「光の犬」は、代々の北海道犬4頭のことだが、特段犬がメインの話ではない。
 

 物語は初老の始が大学の教員を辞めて枝留に帰るところから始まる。
 「添島始は消失点を背負っていた」。
 消失点という言葉から、始の背中に数本の一点透視の図がイメージされる。不思議な始まりだ。最後のシーンは始が枝留の床屋で頭を刈られているところ。二つとも印象強い。

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 どこの家族にも劇的な展開などあるわけではない。

 劇的とは無縁の小さな発端がまずあって、その原因と思われるがはっきりとは特定できない要因がいくつもあり、解決などというはっきりした規矩とは別の立ち枯れていくような、あるいは生のまま腐って脈略もなく放置されている時間の流れがあるだけ。

 それを営みといっていいのかどうかわからないが、家族とはそうしたリアリティの中にあるのではないか。そんなことを考えてしまうほど、この小説は平坦だが味わい深い。
 

 筆者は、そういう家族にひたすらに寄り添って、そこから聞こえてくるいくつもの声に耳を傾けている。
 どこにでもいる家族と言えば語弊があるかもしれないが、会社を興しうまくいっている時期に、よねは産婆の仕事に精魂を傾け、眞蔵とは気持ちが離れ、眞蔵はいつしか札幌に女性を囲う。それを知る息子の眞二郎は、父と違って北海道犬に熱中はするが、子どもの始や歩と気持ちを通じさせることができない。唯一、姉妹の3人とは気脈が通じるが、長男として振る舞うことはしない、できない。家族よりも気を許しているだけのことだ。妻の登代子はそういう眞蔵に鬱屈を感じているが、表に出すことはしない。

 眞蔵の姉妹たちの中でも、一度は嫁に行き戻ってきた恵美子に対する二人の姉妹のそれぞれの鬱屈があり、恵美子自身、知恵が足りないと言われながら抱えているものの深さは計り知れない。3人が3人とも結婚をせずに亡くなっていく。それを看取るのは始だ。

 

 始は思春期から見えはじめた眞蔵との距離が広がるばかり。歩は、犬との交流のなかに居場所を見つけるが、家族の中には見つけられない。歩は家を離れ天文学の研究者になっていく。

 歩が重い癌を得て余命を宣告されたあと、始が歩の世話をするが、その思いまでは受け止め切れない。歩の最期を看取る近くの教会の息子一惟(いちい)だ。一惟は歩と同じ高校の同窓生。互いに求め合うかにみえるが、物理的な距離の中、別の人生を歩み始める。

 一惟もいったんは枝留を離れるが、戻って結婚、父の教会の跡を継ぐ。

 互いに惹かれ合っていながら、激しく求めることなく、歩の若き晩年になって再会する。一惟もまた家族との齟齬に佇立している。


 隣家に住む伯叔母たちとの微妙で微細な軋轢は、眞二郎の家族の中に影を落とすことはあっても、それが何らかのエネルギーを得て動き出すことはない。立ち枯れていくばかりである。
 本の中に入って行くにつれ、目が離せなくなった。彼ら一人ひとりの言葉に私自身が耳を傾けていく。私が歩とほぼ同じ時代を歩いてきたことにもよるが、それ以上に、家族にとってあるべき展開とか解決というものが、人が生きて動いているうちには動き出さず、人の生き死によってようやく小さな変化となって形をもたらすものだということを読みながら感じとり、自分の家族を重ねていたからかもしれない。

f:id:keisuke42001:20190104152138j:plain松家仁之氏(まついえ・まさし)1958年生


 情景描写も心理描写も自然で、静謐ともいえる言葉がもたらしてくれる世界、暮らしとか生活といった言葉の重さを感じさせてくれる独特の世界が、この小説にはある。管見ながらこのような作家が同時代にいたんだという驚きがあった。

 

 

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 庭の桜草?