ブライアン・メイさんの請願署名

 元旦から快晴が続いている。

    いつものように境川河畔を歩く。

    今朝は少し時間が早く、6時半過ぎに出たせいか、まだ夜が明けきらず、メガネもかけていないのでぼんやりした風景。気温は2℃。

    玄関を出たところにある鉄工所のおかみさんがシャッターを開けている。

 新年のあいさつ。このおかみさん、経営者だと思うが、いつも7時前には自転車で出勤。今朝はいつもより少し早いですねというと「今日は息子が現場に出るから」早く来たのだという。

 時々、出勤途上にお見掛けするのだが、ひっつめ髪の痩身で、颯爽と自転車を駆る姿はとても70代には見えない。図面も読めて実際の工程も担うのだとか。

「銀座のあのお店のあそこは私が・・・この間みてきましたよ」なんて話に驚かされる。亡くなった義母のこともよく覚えていてくださるご近所の明るいおかみさんである。

 


 散歩コースでは3つの橋を渡るのだが、一つ目の橋だけがクルマが通る。八王子街道から厚木街道国道246号線)への100mほどの近道なので、頻繁に通る。これがだらだらと何台も続けて通るのでなかなか横断できないときがある。つれあいと互いに「じいさんの○○」「ばあさんの○○」(○○は5文字。はじめは“し”最後は“ん”)と毒づきながら待つ。下品この上ない夫婦である。

 

 この橋の下の流れによく白いレジ袋がいくつも落ちている。膨らんでいるのはゴミが入っているからで、クルマの中から投棄する不届き者の所業のようだ。川は渇水状態で水量が少ないのでレジ袋は流れていかず、そこにとどまっている。増えているような気もする。


 そこにシラサギが飛来する。レジ袋とレジ袋の間にふわりと降り立ち、そのまま首をすくめ足を縮める。すると白いレジ袋とシラサギは区別がつかなくなる。興ざめ。

 あれはシラサギだろうと思って目を凝らして見る。レジ袋。詐欺である。

 水流までは3㍍近くあって降りるところもなく、レジ袋を除去したくてもできない。このところ毎日のようにこの光景を眺める。

 同じように白くても、シラサギはいつの間にか飛んでいって見えなくなる。レジ袋はいつまでもそこから去らない。

 清濁とはそんなものかもしれない。

 

 

 辺野古の新基地建設にまつわるホワイトハウスの請願署名、タレントでモデルのローラさんが呼びかけて話題になったが、昨日、クイーンのギタリストで天文学者ブライアン・メイさんがこの署名をしたこと、そして協力を呼び掛けていることを、購読しているsmokyさんという方のブログで知った。身辺雑記と映画評を力の抜けた素敵な文体で書かれる方だ。

 

以下は琉球新報の記事。

米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設で、県民投票が行われるまで埋め立て工事を中止することを求めるホワイトハウスの請願署名で、英ロックグループ、クイーンのギタリストで天文学者ブライアン・メイさんがSNS(会員制交流サイト)のインスタグラムとツイッター(短文投稿サイト)で署名への協力を呼び掛けている。自身も署名をしたとみられる。
クイーンは故フレディ・マーキュリーさんがボーカルを務めていたイギリスのロックグループで、「ボヘミアン・ラプソディ」や「ウィー・ウィル・ロック・ユー」など数多いヒット曲で知られている。現在、沖縄県内でも公開されているクイーンの伝記映画「ボヘミアン・ラプソディ」が全国的に大ヒットしている。メイさんは映画では音楽プロデューサーとして関わっている。
メイさんは署名を日本時間で7日に行ったとみられる。「緊急」と書き出し、「美しいサンゴ礁とかけがえのない生態系を保存するために」とし、署名に協力するよう求めている。
ツイッターなどでは新基地建設に反対している人々が「すごい」「ありがとう」「うれしい」などの投稿をして反応。「ブライアン・メイが署名を呼びかけてる!まだ署名していない人は今すぐぜひ!」「まだ間に合う」「20万以上を目指そう」と締め切りまで署名協力の拡散を図ろうと呼び掛けている。【琉球新報電子版】


 
 坐してできることである。簡単である。わからない人はネットで「ホワイトハウス請願署名のやり方」と検索すれば教えてもらえる。先日、私も実際にやってみた。
 

 ネット上では、「ブライアン・メイが政治的に利用されている」などの主張も出ている。ローラさんにもブライアン・メイさんにも主体性がないかのような言い方だ。


 「だれかに吹き込まれたのだろう」という隠微な言い方が世間にはある。「誰かに影響を受けたのだろう」という言い方とは違う。前者にはマインドコントロールのイメージが、後者にはいささかの主体性が感じられる。

 「あいつに吹き込んだ」という言い方はしない。常に「吹き込まれた」である。受け身で主張をまるごと植えつけられた状態か。

 この時「吹き込んだ」主体への批判が裏にはあるのだが、そちらへは表だって向かわず、「吹き込まれた」主体の方に「主体性がない」という批判が向けられる。

 これが有名人になると、「政治的に利用されている」という言い方になる。つまり「主体性がない」という批判になるのだ。

 

 オリジナリティを身上とするアーティストにとってこれほど侮辱した言い方はない。