『メアリーの総て』クリーチャー=怪物はメアリーの心そのものなのだろう。

 若葉町のジャック&ベティで、『メアリーの総て』(2017年・英・米・ルクセンブルク合作・121分・原題:Mary Shelley・監督ハイファ・アル=マンスール・主演エル・ファニング)をみた。

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   1818年に出版された小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(Frankenstein: or The Modern Prometheus)の著者、メアリー・シェリーがこの映画の主人公だ。
 映画は、メアリー・シェリーの人生の16歳から18歳までの2年間を中心に描かれる。


 

 

    19世紀のイギリスで小説家を夢見る少女メアリーは妻子ある詩人パーシー・シェリーと出会う。2人は互いの才能に惹かれあい、情熱に身を任せて駆け落ちするが、メアリーは数々の悲劇に見舞われてしまう。失意の中にあったメアリーは詩人バイロン卿の別荘で「みんなで1つずつ怪奇談を書いて披露しよう」と持ちかけられ……。

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 その中でメアリーはフランケンシュタインの着想を得る。ここに出てくるバイロン卿とは、日本でよく知られる「♪バイロン、ハイネの熱なくも…」(人を恋ふる歌)とうたわれた詩人バイロン(1788年~1824年)である。映画の中ではトム・スターリッジが演じ、放蕩、放埓な行動でシェリーを幻惑し、シェリーの妹を誘惑する奇矯の人と描かれている。
 
 16歳で才能豊かな詩人パーシーに出会ったメアリーは、駆け落ち、妊娠、子どもたちの死、パーシーの不実などあらゆる人生の挫折を十代のうちに味わってしまう。その到達点が小説『フランケンシュタイン』だった。


 小説の中でヴィクター博士は死体をつなぎ合わせて怪物をつくりだすが、優れた知力、体力、想像力と人間的な心をもちながら、細部まで再生されず、奇怪な容貌のまま生まれることになる。


 私は原作を読んでいない。フランシス・コッポラの『フランケンシュタイン』(1994年)は見た記憶があるが、詳細は忘れている。

 しかし、今回この映画をみて、どうしてこの怪物が生み出されたのか少しわかったような気がした。

 

 メアリーは思想家である厳格な父と女性解放の運動家である母との間に生まれる。メアリーの出産と同時に母親は死んでしまうのだが、そのことへの罪悪感と父への違和感、そして独特の異形の者に対する強い興味と、実人生で味わう人間への不信と喪失と絶望。若いメアリーの中で、それらはないまぜとなって異貌ではあるが、深い人間性と悲しみを湛えた怪物を生み出す。クリーチャー=怪物はメアリーの心そのものなのだろう。

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 一気に書き上げたメアリーはパーシーに原稿を見せるが、パーシーは「怪物でなくて天使ではだめなのか?」とメアリーに問う。メアリーの答えはノーだ。メアリーのパーシーへの一縷の希望が壊れる瞬間だ。クリーチャーは天使であってはならないのだ。


 作品はいくつもの出版社に断れるが、最後の一社は匿名とパーシーの序文の掲載を条件に出版を承諾する。作品は評判を呼び、再版からメアリーの名前が付されたという。

 父親が開く小さな出版記念会でのパーシーの言動にメアリーは感謝するが、十代の波瀾を生きてきたメアリーとはすでに違うメアリーとなっていることが示唆される。

 

 エル・ファニングさんという女優が素晴らしい。少女から大人へそして小説家へ向かう変遷をよく表現していると思った。


 監督のハイファ・アル=マンスールさんは1974年生まれのサウジアラビアの女性監督。『少女は自転車に乗って』(2013年)。映画館のないサウジで家庭の中でDVDなどを見て育ったという。ようやくクルマの運転が認められたサウジにあって、19世紀のヨーロッパの女性の解放運動に共感するのは当然としても、題材としてメアリー・シェリーを選んだということに驚かされる。

 全編に漂う独特の暗さ、単に暗いのではなく、メアリーの心的なありようも重ねられていて、ていねいだ。一つひとつのセリフに込められる意味の深さが翻訳でもよく感じられた。貧富の差が拡大し、街にはたくさんの失業者があふれる当時のヨーロッパの雰囲気がよく伝わってくる精細なつくりだと思った。

フランケンシュタイン」の原作を一度しっかり読んでみたい。それとコッポラの1994年の作品ももう一度見てみたいものだ。