山国の虚空日わたる冬至かな 蛇笏

12月22日 
    新聞が半透明のビニールに包まれている。庭の敷石は濡れていない。夜半に雨が降ったらしい。昨夜は満月に近い月が輝いていたのだけれど。
 今日、冬至。横浜の日の出は6時47分、日の入りは16時33分。一年でいちばん日の短い日。

 

      山国の虚空日わたる冬至かな 
                    蛇笏

 

 なかなか明るくならない。曇天。でも温かい。散歩途中に通りかかるそら豆が植わっている畑にも霜は降りていない。気温は10度ほどもある。カワセミを見る。

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庭のガーデンシクラメン なぜだか夏からずっと咲いている

 らいは、今日も四肢を踏ん張って「うちに帰りたい!」を全身で主張するが、今日の“踏ん張り”はそのまま“フン張り”だった。いつもはクルクル回ってからするのだが、今日はストレート。たくさんしたからと二人で褒めちぎる。


 というのも、らいは先週から今週にかけて5日間ほど便秘が続いていた。食欲は落ちないし、動きが鈍くなったりもしないのだが、かと言って分かっているだけにほおっておくわけにもいかず、迷った末に週半ば、つれあいが動物病院に連れていった。


 診察ではレントゲンを撮ったそうな。便秘でレントゲン?とは思うが、一応の処置をしてくれて、これで大丈夫とのこと。餌を変えたことが原因なのかどうか、わからない。


 長女のところから引き取って8か月。物言わぬ動物と暮らすことの楽しさとむずかしさ。顔色も分からないし、表情らしきものもない。わかるのは身体の動きと行動。


 よくわからないこともする。私が外出しているとき、私の部屋に入っておしっこするときがまれにある。記事を切り抜くために机の下に新聞を数日分重ねておくのだが、そのうえでする。普段は決まったトイレでしているのに。


 何か意味があるのか、それとも気まぐれなのか。切り抜きの意欲が減退するので、外出する時は部屋のドアを閉めた状態で出ていく。

 

 

 昨日、文科省の変形労働時間制に関するパブリックコメントの締め切り。朝から1000字ほどの文章にまとめて文科省のフォームに記入、送信しようとしたのだが、送れない。使ってはいけない文字を使っているとか赤い字で出る。どの文字が該当するのか指示はしてくれない。「戻る」をクリックすると文章もその他の記入事項もすべて消えてしまう。何度かいろいろやってみるが、結局「送信画面」に至らず。出かけなければならなかったので、2時間試みて諦める。

 文科省はわざと送りにくい設定にしているのではないかという疑念が湧いてくる。

 形だけパブリックコメントを募集しながら、その実そんなもの欲しくもないし参考にもしないのだからと、面倒な設定にして・・・。

 そんなことはないのだろうけれど、とにかく不親切。

 パブコメが政策を変えたという話は聞いたことがないのだが、書いたのに送れないと気分が悪い。私程度のパソコン音痴が使えないパブコメフォームなんておかしい。

 どこかでこの憂さを晴らしたいものだ。

 

 

 不具合といえば、もう一つ。今週、ある小説が読みたくて、授業のついでに大学の図書館にその小説が掲載されている雑誌を探しに行った。ただの総合誌なのだが、どういうわけか地元の図書館にもシリウスにも置いてなく、ネットではまだ4か月前の号なのに倍ほどの価格になっている。いずれ単行本になって出るだろうとあきらめかけていたのだが、大学の図書館ならもしかしたらと思い、18日、少し早めに出勤して探すことにした。


 今時の大学の図書館はセキュリティが厳しく、学生は学生証をかざさないと入館できない。退館時にも同様だ。私のような非常勤職員は職員証のみでは入館できず、新たに登録をしなければならない。


 しんと静まり返った館内を歩き回って、このへんかとあたりをつけたところに雑誌はあった。意外にたやすくみつかった。探し物が見つかるのはやはり嬉しいもの。幸先がいいぞ。うきうきした気分で貸出カウンターへ。そこへ冷水を浴びせるようなスタッフの一言。
「雑誌は貸出していません」。


 当月発行のものが貸出せないのはわかるが、バックナンバーまで貸出禁にしなくても・・・。しかしここで交渉?してどうにかなるものでもなし、諦めてコピーを取ることに。そのコピー、正規職員、つまり教授や准教授はすべて無料。非常勤講師はすべて有料だとさ。


 数えてみると読みたい小説は、120頁もある。見開きで60枚分。2段組でほぼ単行本1冊分。閲覧室で読む時間はない。せっかく見つかったのだからとコピーをすることに。ミスも含めて70回ほど蓋?の開け閉めをして終了。20分ほどもかかった。


 なんだか一仕事をした感じ。もう読み終わった気分。誰の小説かって?読んで面白かったら紹介するつもり。

 

 今日は午後に、病を得て体調を崩しているOさんと会う。2年以上会っていない。楽しみである。

 

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「教員勤務 休み中短く~文科省変形労働時間で年管理」を読んで考えたこと(学生編)

 

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 大学の授業、今日で今年は終わり。

 週一度一コマとはいえ、9月末から13週連続。疲労というより疲労感のようなものがある。現職の中学教員のときとは全く違う疲労感ではある。

 当たり前だが、中学生と違って「養育」的な面でのセンサーがここではまったく不要。

 互いの距離感も、大人だから、少しずつ詰める、あるいは測り合う、ほど良い距離を共有しようとする。中学生は一気に詰めることがあるし、一瞬で離反することもある。ダイナミックな半面、こちらのセンサーの精度が必要だった。後年は疲労感より疲労そのものだったような気がする。

 

 それはさておき。 

 このブログでグタグタと続けている中教審の変形労働時間制導入問題について、学生に書いてもらった。教職の授業であることも理由ではあるが、授業の初めに新聞記事などを読んで寸評をするということを続けている。時間は20分ほどなのだが、短時間で書いたものをもとに、時には少し議論をして・・・というのが、授業の本編に入る前のルーティン。下に掲げるのもそうしたかたちで書いてもらったもの。

 学生(教職課程をとっている4回生)の受け止め方の一端がわかる。

 政策に対する先入観を排除するために、当初報道された簡単な記事だけを資料とした。

 

➡は私のコメント。(なお資料には、教育実践演習資料となっているが、正しくは教職実践演習である)

 

 

 


  「教員勤務 休み中短く~文科省変形労働時間で年管理」を読んで考えたこと
                                                               ・時間外労働が当たり前のような傾向があり、それを分かっていて教員を目指しているが、過労死ラインを超えるほどの労働や働きに見合った給与がないと、教員がストレスを感じ、より良い教育ができなくなったり、病気で倒れてしまうこともあると思う。また部活動手当もほとんどないので、そこまで協力的じゃない教員がいたら生徒も不満がたまってしまう。変形労働時間制は確かに時間外労働は減っているが、それは机上の空論に過ぎないと思った。夏休み期間の労働時間を減らしても、それ以上にまた時間外労働しては意味がないし、結果的には12時間労働している。(クルトガ
➡「机上の空論」、私もそう思います。実効性のない政策をいくら並べても、しょせん張子の虎。そんな虎にはだれも驚いてはくれません。

 

・教員の勤務時間についてはずっと前から問題視されている気がします。どんな制度を導入しても部活のために土日出勤したり、家で仕事ができないため学校に残ったりしなければいけないので解決することはできないと思います。実際教育実習中に提出物のために土曜日、学校に行きましたが、部活がなくても三者面談の時間決めのためなどで学校に来ている先生は何名かいらっしゃいました。平日でもテスト前だと夜の8時以降もいらっしゃる先生も少なくありませんでした。時間に対する制度を導入するよりも先生の仕事を軽減できるようなこと、たとえば英語はデジタル教科書があったため他科目でも作るなどした方が先生の負担は少しでも減らせるのではと思いました。(ムタ)
➡教員の勤務とは言えない部活動を学校から切り離してしまえば、かなりの部分、教員の働き方は変わっていくと思うのですが。どうして部活動が学校から切り離せないのか、これを研究するだけでも戦後の学校の本質が見えてくると思います。

 

・時間外勤務が多く、過労死ラインを越えているにもかかわらず、勤務時間を8→10時間に替えたところで、時間外勤務を含めた総勤務時間は減るわけではないので、変形労働時間制で教員の働き方改革は難しいのではないかと思います。時間外勤務を余儀なくされている現場の実情に根ざした改革が必要であると思います。( グチ )
➡「現場の実情に根ざした改革が必要」、その通りです。総労働時間数を抑制するための方策ですね。文科省は片方の手で授業時数を増やし、道徳を教科化しながら、もう片方の手で変形労働時間を云う、この矛盾をどうすべきか、ですね。

・こうやって新しい制度を導入していっても、仕事内容が変わるわけではないので、勤務時間は特に変わらないと思います。何もないよりは変化を求める方が良いと思います。この変形労働時間制を導入してからの現場からの声が気になります。(大四喜
➡具体的な運用をぜひ関心をもってみていってください。一つの政策がどんなふうに実施され、どんな問題点が出てきて、どこに行きつくか、全体像を見ようとすることが大事です。

 

・今、教員の現状を知らないが、教育実習の時に私が在籍したころからいた先生に勤務時間の話をさせてもらった。その先生は年間50日くらいしか休めていないそうだ。勤務も朝7時くらいから夜の10時くらいまで。なかなか大変だと思った。この新聞記事だと休日からなんやからあるのだろうか?その先生に私は部活の休みを多くすればいいじゃないのかと提案すると、親からのクレームが入るからと言っていました。部活を少なくすると大会で勝てないのではないかと、もっともっと強くなりたいとか、実際生徒の部活動の取り組みを見ると真剣にやっていない生徒が大半だと見えていた。先生の過労も親のエゴなのかなと思えてきた。この法案も現場を少しだけですが、見たから感じたものは、変化を恐れるどこか昔からのものでかわらないような気がしてきた。

                            (マーキュリー)
➡現場の実情をあなたの眼で見たという事ですね。なぜ教員の業務ではない部活動にこれだけの時間をとられているのか、どうして過労死ラインを超える教員が中学では6割もいながら、罰則も設けず45時間までにしよう、などと言えるのか。政策立案する側の姿勢をしっかり見ておくことですね。
追伸:「話をさせてもらった」という言い方、今風ですね。「今度相談させていただきます」なんて言われるけど、私のような古い人間にはちょっと違和感がある。させてもらった→伺った でいいと思うのですが。丁寧すぎると時には「慇懃無礼(いんぎんぶれい」になることもあります。

 

労基法に基づいて改革することは、現状が大変であることを理解していてそれを変えようということでいいことではあると思うが、そもそも残業量自体を減らすことにはならないので、数字上では過労死ラインに達していなくてもあまり現状では変わらない気がしてならない。(金子)
➡数字上では過労死ラインに達しなくなる可能性がありますが、実際上の時間外勤務時間は変わらないということです。なんだか変ですね。勤務時間の延長が日常化してしまうのでは。これで現場の教員が納得するとは思えませんが。

 

文科省が動いて教員の労働時間の短縮を目指そうと動き始めたことは良いことだと思う。ただ、疑問に感じたのは労働時間を定めることは根本的な解決につながらないのではないかという事だ。今現在、労基法で労働時間が定められているが、ほとんどの教員はそれを守れず、サービス残業をしている。一人当たりの仕事量が一人分をはるかに超える量となっているのに、労働時間を定めても仕事量は減らないので、状況は今とあまり変わらないのではないかと思える。ならば事務職員を多く雇ったりして教員一人ひとりの仕事量を減らしていく形の方が、現場にも好まれるのではないかと思う。

                                                                                                                 (三毛猫)  

➡事務職員に業務を移すにしても、今度は事務職員が働きにくくなるのではないでしょうか。今現にある業務のほかに教員の雑用?任されるのは、事務職員としては納得できないところでしょう。互いに荷物を他人に押し付け合うのではなく、荷物を持つ人間の数を増やすことが重要なんですね。
もちろん、現在地教委レベルで行われている作業補助的な業務を担うスタッフの導入は意味があると思います。業務の範囲をしっかり限定して、という但し書き付きで。

 

・教員にも変形労働時間が適用されれば、教員たちのワークラフバランスは大きく改善されるのではないかと思いました。私自身も就職活動を始めた時には教員の道を目指すのか一般企業を目指すのかとなり、労働時間を比較して教員の道をあきらめたのも一つの理由です。何事にもメリハリというのは必要だと思うので、閑散期と繁忙期によって働く時間を変えるというのは合理的でより効果的な時間の使い方ができると思います。このように教員の労働環境を整備していき事で教員の質というのも高めることができれば、より意味のある制度になるのではないかと感じます。(セイントセイヤ)
➡問題は、教員の仕事に閑散期があるのか、あるとすればそれはいつなのか、ということですね。ほとんどが繁忙期の場合、変形労働時間制を導入しても、結果として勤務時間の延長だけが減少として残るという結果になりがちです。これをどうするか考えないといけないと思います。

 

・変形労働時間で教員の時間外勤務など負担が減れば良いのかなと思った。しかし、元々の仕事量が減らなければ、労働時間も長いままで、このような制度を導入しても、現場でのそのまま守られるかという問題はあると考える。教員の間では、過労死ラインを越えることもめずらしくないとのことなので、繁忙期以外でもやはり仕事は多いと思った。このようなことに対して人手を増やすなどの対応で負担を減らしていくことも必要かと思った。(松竹梅)
➡「過労死ラインを超える」という言い方、あまりに簡単に使われているとは思いませんか?もちろんすぐに死ぬことはなくても「過労死ライン」ですよ。異常であることに慣れてしまっているような気がしてなりません。そのうえ仕事は時間で測れますが、時間で測れない疲労というものもあります。目に見えない「責任」とか「分担」が重荷になる場合もあります。最低限「人手を増やす」これが必須です。

 

・部活動や事務仕事など、授業以外の仕事がたくさんある教員職は、非常にマルチタスクだと思う。そして、どのような仕事内容においても、季節差が生じるのは当たり前であるし、仕事内容に見合った勤務時間の割り振りは理にかなっているのかなと感じた。一つよくわからなかったのは、この様に上限を月などで帰ることによって、給与は毎月どのくらいの変化が生じるのかなという点である。残業だから、関係ないのだろうか。そもそも残業が当たり前というのは、どういうものなのだろうか。サービス残業が当たり前という風潮が色濃いと思う。(太宰治
➡給与に変更はありませんが、もし閑散期19時退勤の10時間勤務ともなれば、部活動も勤務時間内ともなれば、すべて部活動は教員の勤務ということになりかねませんね。
それから、教員は現在1日12時間以上働くことが常態化しているわけですが、8時間のところを12時間働いているのと10時間のところを12時間働いているのではかなり違うと思います。10時間になれば10時間の仕事の量が発生するものです。つまり17時に勤務時間が終了するものを19時とするわけですから、変な話「ゆとり」が発生することになります。今までできなかった会議や打ち合わせをここで入れようということになる可能性もあります。

 

・はたして根本的解決につながるのだろうか、というように思う。残業としてカウントされる時間は減るかもしれないが、教員の多忙化という問題は何が問題化と言えば、年間の労働時間というよりも、一番忙しい時期があまりに忙しすぎることなのではないかと私は考える。そもそも残業代というかたちではないので、正規の労働時間に含まれることで、給与はよくなるかもしれないが、根本的な教員の忙しさの改善にはつながらないように感じる。(マル)
➡2時間勤務時間が延びれば、その分子育てをしている人であれば保育園の延長保育を頼むことになり、新たな出費が出てきますし、介護でホームヘルパーを頼むとかデイサービスの延長をとなればこれまた費用が掛かります。基本的に8時間労働という線を簡単に崩してはいけないのですが・・・。

 

・長時間働くは嫌だなあと思う。労働時間を減らすための法律を作るだけでは不十分である気がする。人員を増やしあげてほしい。もらえるだけありがたいと思えと言われているかのようでもやもやする。教員の仕事量を減らす具体的な策を示してほしい。(ペニーレイン)
➡君の言う「もやもや」よくわかります。長時間働くのは嫌だなあという感覚は間違っていないと思います。教員なんだから子どもたちのために汗を流すのは当然だろう、という感覚はかえって子どもをいびつにすると思います。苦しい顔をして歯を食いしばって働いている先生を見ながら、子どもたちはすくすく育つと思いますか?あなたのようなゆったりした雰囲気をもっている先生、いいなあと私は思います。

 

・記事を読むと、夏休み時間等は勤務時間を短くして、学校閉庁日を設けやすくするとあるが、今の学校現場では夏休みでも部活動があったりと、なかなか閉庁日を多く設けるというのはできないのではないかと思う。もちろん教員の時間外勤務を抑制するという事が必要であると思うが、そのためには、各学校の教員数を増やしたり、一人ひとりの先生が抱えている仕事量を減らし、分担することも必要だと思う。(ルメール
➡まず、教科の持ち時間数を少なくすること。教育課程自体が過密になっていることと教員の働き方の問題をリンクさせて考えないと、右手と左手がそれぞれ勝手なことをやっているということになります。先生の数を増やすこと、本学の教育学科の教授で日本教育学会の会長の広田照幸(教育社会学)さんも、テレビのインタビューでそう言っていました。

 

・勤務の時間に関しては、ニュースなどで多く目にするが、このような変形労働時間で年管理したところで、働く時間が短くなり、教員の勤務時間を変えることはできないと思う。教員の仕事として授業がとても大切だと思うので、教材研究の時間を多くとれるように、学校全体の仕事を工夫する必要があると思う。事務的な作業をICT化するなどの考えはとても良いと思う。一般的な企業などの働き方を見てみると、10時間は長くないような気がします。(コレステロール
➡教材研究の時間が勤務時間内に取れないというのは大きな問題です。一人ひとりの持ち時間数を10時間前後まで落とすことができれば、働き方はかなり違ってくるともいます。教育公務員特例法という法律を見てみてください。教員にとって研修は義務であります。1時間の授業に最低でも2時間の教材研究が必要とすれば、今の教員の働き方がどれほどおかしなものかわかるのではないでしょうか。

 

・自分の教育実習の担当をしていただいた先生も本当にタイトすぎる生活を送っているようにみえました。7時には出勤していました。30分くらいかかるという事だったので、遅くとも6時には起きている生活です。実習生がいた影響もあるかもしれませんが、退勤の平均は21時ごろだと思います。いくらやりがいがあったとしても、からだがいつかおかしくなると思う。“根本的な問題は解決しない”公立中学の6割が過労死ラインを越えているのはさすがにひどい。(ジェイ)            
➡その先生の働き方、気の毒です。「健康で文化的な生活」とはとても言えません。「幸せな子どもは幸せな先生の背中を見て育つ」とは、私の友人の岡崎勝さんの言葉です。

 

また来ますと言って7時半になる前に暇乞い。明るい奥さんの声に送り出されて店の外へ。  ちょっと寂しくもある、でもどこかあったかい会食だった。

 月曜日。

 朝、起床するのはいつも4時ごろ(笑)。この時期、起きてすぐ温度計を見る。室内は昨日が14.9℃、今日は16.0℃。予報では夜半から雨。

 カーテンを引いて、テラスのガラス戸を少し開けてみるとかすかな雨音。暁闇は湿気を含んでいて冬の厳格さが感じられない。外の温度計は4℃。昨日より2℃高い。

 

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 一昨日は、小学校からの友人Hさんの転居のお祝いに千葉の検見川浜まで。清瀬に住む高校時代の友人Mさんもいっしょだ。

 10時前に家を出る。快晴だが風が冷たく、電車の中は足もとが寒かった。


 最寄りの(と言っても歩いて20分、バスで8分ほどもかかるが)南町田駅から東急田園都市線。ほとんどが渋谷に向かう電車。大井町線に入る電車は少なく、とりわけ数少ない急行に乗り終点大井町まで。渋谷を通って永田町から有楽町線、JR京葉線に乗り継いだ方が運賃は安そうだが、都内の地下鉄に乗るのがなんとなく億劫で、今日は大井町からりんかい線(正式には東京臨海高速鉄道りんかい線というのだそうだ)に乗り換えて新木場へ向かうことに。


 りんかい線は初めて。第三セクター会社線。新木場まですべて地下を走る。東京湾の埋め立て地の下を通っているのだなという感じだが、あっているのかどうか。


 新木場で地上へ。真っ青な冬空。ホームから森が見える。夢の島の一部。熱帯植物園のドームも。奥の方に、ホームからは見えないが、何度も訪れた第五福竜丸展示館がある。ここまでで1時間45分ほど。検見川浜までは20分ほど。

 

 友人の新居は8階。東南向きに公園があり、日当たりがよく、開放的。室内はアジアンテイスト。陶磁器の骨董品が現代風の家具によく合っている。センスがいいなと思う。

 いつものように3人で昼から呑み始める。話題が途切れることはない。途中、北海道と郡山の友人に電話。小さな同窓会。

 

 夜のとばりが降りてけっこうな時間が経った頃、往路よりかなり時間がかかって、ほうほうの体で自宅着。小旅行のような一日。

 

ふたご座流星群のことは忘れていた。

 

 前日の14日。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日。旧友のIさん夫妻との年に2,3度の4人の会。いつもは居酒屋なのだが、この日はおもいたって、20代の頃、職場の近くのよく通った中華料理屋で待ち合わせ。

 

 マンション近くのバス停から25分ほど、教員になった初めての職場の至近に、お店はある。数えてみれば32年ぶりの来訪。オヤジさんももうかなりの歳のはず。

 赤いのれんをくぐって店内に入る。客のいないテーブルにポツンと1人坐って、何やら書類をのぞいているオヤジさんが一人。あんのじょう、こちらが名乗ってもわからない。仕方ない。32年も経っている。

 

 厨房から奥さんが出てきて、「その声は○○さん?」すごい記憶力だ。まれにこういう方がいる。

 痩せて動きがゆっくりになったオヤジさんに比べて、奥さんは昔のままの印象。聞けばオヤジさんは来年80歳だという。昔は「車だん吉」に似て豪快な人だった。

 みていた書類は、免許証を書き替えの時に受けた認知症の検査結果だという。もう一度受けなおさないと更新ができない、勉強しないとと云う。

f:id:keisuke42001:20181217102526j:plain昭和の”雰囲気を残した”なんていわれるのかな。


 ここに店を開いたのは45年前。

 私たちが通ったのは、42年前からの10年間ほど。オヤジさんはまだ40代。大きなおなかで豪放磊落という言葉がぴったりだった。

 

 ”あの頃は出前も多くて、二階でよく宴会もやっていたよ”

 

 安くやってくれるのでよく通った。今、蕎麦屋にしろ中華屋にしろ街中で出前を見なくなった。

 

 ”わたしはね、酒、呑まないけど、カラオケが好きでねえ、よく歌いに行った。それと松原商店街の魚屋に1年間修業で通ったことがあったから、うちは中華屋だけどほら宴会でもよく刺身も出したよね。”

 

 憶えている。8畳ぐらいの座敷に14,5人が入った。8トラックのカラオケが出始めたころ。宴会の雰囲気も今とはずいぶん違うものだった。

 

 ”出前はもう20年前にやめちゃったよ。コンビニは出来るし、このへんファミレスが多いし”

 

 そうですね。ずい分増えましたね。ファミレスは値段も安いから。

 

 ”いや、安いけど、材料見たらひどいもんだよ”

 

 オヤジさんのところはもちろん美味しかったけど、盛りも良かったからね、よく食べました。

 

 ”今は、若い人、あんまり食べなくなったねえ。お酒を呑む人も少なくなったし。こんな調子だし、そろそろ店じまいかなあと思っているんだけど”

 

 そんなこと言わないで下さいよ。

 

 そうか、若者か。私たち二人も若かった。

 

 100%加入組合の浜教組(日教組)から脱退したのが、1977年。教員になって2年目。Iさんと二人でできたばかりの新しい独立系の少数組合に加入した。

 主任制闘争の頃のこと。80人近い職場で新人教員同様の2人が大きな組合をやめた。

 職場の中ですってんてんに浮いた。嫌がらせもずいぶん受けた。教員の底意地の悪さを感じたのはこの時だ。

 それでも完全に孤立はしなかった。遠くから見ていてそっとカンパを渡してくれる教員が何人もいた。無謀な若者への同情もあっただろう。

 出世をするには浜教組加入は必須という時代。若いうちから出世をあきらめてどうすると、脱退を止めてくれたのが校長だったという笑えない話もあった。

 

 その組合も、昨年結成40周年を迎えた。

 

 ”もう クルマやめてくださいって云ってるんだけどねえ”と奥さん。

 

 オヤジさんはアルバムを出してきて娘さんや友達、親戚の人の話。釣りや盆栽の写真もある。うれしそうだ。

 

 いつも、お店何時に閉めるんですか?

 

 ”早いよ、7時半だな”

 

 最後の宴会はたしか1986年、あれは送別会だったか。お開きはいつも10時を過ぎていた。10年過ごした職場には気心の知れた仲間もたくさんいた。

 

 お燗をつけたお酒を呑みたかったのだが、お酒はもうやっていないという。ビールと焼酎だけ。う~ん。

 

 モヤシ炒め、かに玉、酢豚などを注文するが、手早く作って出てくる。オヤジさんの腕は落ちていない。

 サービスだよと奥さんがいろいろ出してくれる。オヤジさんも、

 ”この間釣ってきたマスがあるけど食べるかい?”

 

 立派なから揚げのマスが皿に盛られて4人前。

 ありがたいが、こっちもいい歳、食べきれない。

 

 

 また来ますと言って7時半になる前に暇乞い。奥さんの明るい声に送り出されてお店の外へ。ぶるっと胴震いを一つ。
 

 ちょっと寂しくもある、でもどこかあったかい会食だった。

 自宅までは国道16号を走るバス1本。Iさん夫妻は道を隔てた向こう側のバス停。上りは本数が多い。私たちは下り方面。二人がバスの窓から手を振ってくれる。次に会うのはいつになるか。バスは15分ほども待ってやってきた。冷え込んでいる。

 

 暖房のきいているバスを降りると、冷気が押し寄せる。

 ポケットに手を突っ込んで、とぼとぼと二人で帰宅。

 

 ふたご座流星群のことを思い出したのは、帰宅してからだった。

 

 

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ネットからの借りものです。 

「サラリーマン教師」はもう古い。今、ブラックな学校で働く教員は「コンビニ教師」だ。

 昨日は雨で散歩ができなかった。今日は気温6度、一昨日に比べればかなり温かい。らいはマンションを出たばかりのところの坂でウンチをしたあと、4本足を突っ張って体重を後ろに乗せ前に進もうとしない。リードを緩めると一人でマンションのエントランスの方に向かおうとする。いつもそうなのだが、今日はいつになく強硬。仕方ないので部屋まで連れて行き、置いてくる。出かけるときは嬉しそうなのだが。


    散歩も終わるころ、境川の上空の低いところをサギの群れ20羽ほどが何度か飛びかった。冬枯れのモノクロの中の純白が目にまぶしい。オオバンのつがいも見た。この間は、カワウの群れを見た。カモやカワウは首を伸ばして飛ぶが、サギは長い首をすくめるようにして飛ぶ。このところカワセミを見ない。


    ブラック企業大賞というのがある。民間のものだ。ブラック企業大賞企画委員会が選考している。選考委員は次の通り。
●古川琢也(ルポライター
●白石 草(OurPlanet-TV 代表)
●河添 誠(首都圏青年ユニオン青年非正規労働センター事務局長)
佐々木亮(弁護士)
●川村遼平(NPO法人POSSE事務局長)
●松元千枝(レイバーネット日本)
内田聖子(アジア太平洋資料センター〈PARC〉事務局長)
●須田光照(全国一般東京東部労組書記長)
●水島宏明(ジャーナリスト・法政大学教授)
竹信三恵子(ジャーナリスト・和光大学教授)
●土屋トカチ(映画監督)
 
 今年ノミネートされているのは

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1.株式会社ジャパンビジネスラボ
2.財務省
3.三菱電機株式会社
4.株式会社⽇⽴製作所・株式会社⽇⽴プラントサービス
5.株式会社ジャパンビバレッジ東京
6.野村不動産株式会社
7.スルガ銀⾏株式会社
8.ゴンチャロフ製菓株式会社
9.株式会社モンテローザ


 ウエブ投票もあって、それを参考に決定するようだ。HPではノミネート理由がそれぞれ示されている。その基準は、


長時間労働●セクハラ・パワハラ●いじめ●長時間過密労働●低賃金●コンプライアンス違反●育休・産休などの制度の不備●労組への敵対度●派遣差別●派遣依存度●残業代未払い(求人票でウソ)
 

これらを総合的に判断して決めるらしい。残念ながら学校はノミネートに入っていない。

 公立中学校の教員の6割が過労死ラインを超える時間外勤務をしているということだけでもノミネートされてもよさそうなものだが、総合点で弱いのか。

 学校で長時間労働の他に該当するのは、セクハラ・パワハラ、いじめ、コンプライアンス違反などが挙げられる。

 育休、産休などの制度はあるにはあるが、男性が取得することは極端に少ない。

 労組はほとんど機能していないから敵対も何も。

 派遣というより非正規職員への依存度が高く、そして勤務条件はかなり悪い。時給で働く非常勤職員のほかに正規職員と全く同じ勤務条件で働く臨時的任用職員がいる。違いは採用試験に合格しているか否か。雇用は1年以上にならないように途中で切られ、昇給は年齢で頭打ちがある。

 

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 もちろん教員には残業代は支払われない。4%を給与に上づむだけ。4%というのは6時間ぐらいの時間外勤務手当の額である。あまりに少ないから、1972年の法制定時にも4%は時間外手当相当額だとは言っていない。教員の勤務は自発的創造的なものであって計測不能、だから勤務時間の内外を包括的に評価して支給するのが4%。つまり時間に対するものではなく質に対するものだというのだ。屁理屈である。そのうえ教員には「超過勤務を命じない」のが原則だと法はいう。そういわなければ理屈が合わなくなるからだ。

 教員の仕事のほとんどは計測可能。たしかに自発的な部分もないわけではない。だからと言って初めから計測もしないというのはおかしい。時間規制がなかったからこれ程のブラックをうちに抱え込むことになったのだ。

 まともに時間外手当が支払われたとすると、わたしなど終身の残業代は2000万円はくだらないだろう、たぶん。自慢にもならないが。

 80年代以降の学校でまっとうに教員に時間外勤務を支払うことになっていたら、学校は今とはかなり違う場所になっていたのではないだろうか。


 セクハラ・パワハラ、いじめは学校にはかなり多い。生徒のいじめ根絶は言われるけれど、職員間のものは別と思われている。そのほとんどが表には出てこない。まれに組合に相談があったものは加入してもらって、直接役員が学校に出向いて交渉するのだが、ここまでいけばかなりの率で改善はされる。しかし相談だけで終わる事例も多い。矢面には立ちたくないという人が多いのだ。


 コンプライアンス違反は挙げればきりがない。たとえば休憩時間。労基法で定められている休憩時間の存在を知らない若い教員も多い。知っていても取ったことがない教員が多い。休憩時間は校長が教育委員会に届け出る“勤務時間の割り振り”のペーパーの中だけに存在するという学校がほとんどだ。休憩時間を取らせない場合、管理者(校長)は6か月以下の懲役か30万円以下の罰金という罰則規定が労基法にはあるが、いまだかつて懲役に行ったという校長、30万円を払ったという校長を知らない。
 

 教員は休憩時間が取れない仕事、給与の4%をあらかじめ支払われるが残業手当は一切支払われないことなどからすれば、かなりのブラック企業であることは間違いなのだが、なぜかこれほどかなりディープで魅力的な陣容の選考委員会でも学校を選ばない。

 教員の実態は「高プロ」というほど給与は高くないから、どちらかというと裁量労働の押し付けに近い状態か。裁量労働は民間企業の中でも労働者泣かせの手口によく使われる。裁量労働の悪用はブラックの温床であるはずなのに。
 
 さてさて話は変わるが、世間でこうした教員の勤務の話をしても、どこか軽くスルーされてしまう空気を感じるのは私だけだろうか。そうした空気とこの『選考漏れ』は、やはりつながっているのだろうか。


 「そんなこと言ったって公立学校の教員は恵まれているでしょ」という古い風説がいまだ通用しているふしもある。公務員に対するルサンチマンの対象に教員は挙げられやすい。

 そんなに恵まれているのなら、公務員はともかく、教員志望者の競争率の低下をどう見ればいいのだろうか。

 都市部では教員採用試験の倍率は一桁の前半、目も当てられぬ数字だ。教委は数字を発表するのに一工夫も二工夫もしている。内定しても逃げられることが多いから、最終の倍率は出さず、応募人数と採用人数だけを出す。

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特に意味ありません

 こんななのに、どうして世間は教員の労働に冷たい、あるいは無関心なのか。
 

 多くの人々は子どもとして学校に通い、大人である教員を長い時間見続ける。学校体験の中で心に残っているのは教員の仕事の大変さなんかよりも、どちらかといえば教員の勝手さとか横暴さのようなものではないか。そりゃ日常的にほとんどべったりの時間を共有していれば、なかなかいい思い出ばかりとはならない。

「いい先生もいたけれどね・・・」、という口ごもる、学校に対するルサンチマンのようなものが世間一般にはあるのではないか。

 たいてい「いい先生」というのはかなり少数で、ほとんどの教員には問題があり、「だから学校のセンセなんてさぁ・・・」というまとめになることが多い。
 

 学校とか教育が本質的に暴力的で理不尽な面をもつが、この国では、そうした共同体社会の中のルールを次世代に強制することで共同体を維持していくという教育の根源的な一面よりも、個人的な師弟関係に教育のあるべき姿を見てしまう傾向が強い。その中で教員に対して求められるのは、子どもたちのお手本になる行動の高潔さと寸暇を惜しまずに向かい合う生真面目さだ。

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 金八先生はじめ多くの学校・教育を舞台とするドラマでは、さまざまな問題をともに乗り越える美しい師弟関係が語られる。そこには長時間労働も休憩時間の不取得も出て来はしない。そこでは暴力は忌避されるべきものであり、教育は常に子どもたちのためにある善なるもの、私はそれを教育幻想と呼んで、学校の実態を見誤らせるものと考えてきた。


 かつてその対極にあった「サラリーマン教師」や「組合の先生」は最近はあまり言われなくなった。90年代以降、年功序列型賃金体系や終身雇用制度の崩壊、合理化、非正規労働者の増大などサラリーマンという層を一言で規定できなくなってきた。サラリーマンにもいろいろいる時代なのである。

 組合に至っては組織率の低下は留まるところを知らず、企業内組合となっていてその存在意義が疑われて久しい。

 

 今の教員を名付けるとすれば、“コンビニ教師”ではないか。

 

 コンビニと言えばセブンイレブン。教員の働いている時間は一般的にセブンナインぐらいか。学校はコンビニと違って勤務時間が始まるかなり前から「開店」している。セブンナインで計算すれば、過労死ラインは軽く超えてしまう。


 コンビニの業務は内容がすさまじく多く多岐にわたっている。公共料金の支払いから宅配便の扱い、各種チケットの販売、おでんにから揚げ・・・なんでも持ち込まれる学校とよく似ている。○○教育というものが90年代以降どれだけ学校に持ち込まれたか。学校は何でも入る巨大な容れ物だ。

 

 クレームも同じ。最近ではコンビニ店員にクレームをつけることで、憂さ晴らしをしているとしか思えない客も多い。店員はいわれのないクレームにも正面から反論しない。謝って済ませようとする。そう指導されている。学校も同じだ。学校には何を云っても許されると思っている保護者が増えている。学校はどうせ反論しない。それはそうだ。校長は教員に、クレームには「まず謝れ」と言ってはばからないからだ。店長と店員の関係はそのまま校長と教員の関係だ。本部(教委・行政)の手前、トラブルは最小限に抑える。そのためには・・・。

 

 今や学校は、コンビニ同様サービス業となっているということだ。その中で労働問題が発生しているのだ。

 

 教員にはほとんど勤務時間規制もなく、時間外勤務手当も支払われない。学校に求められるサービスは増えるばかりだ。学習指導要領はどんどん肥大化し、その一方で働き方改革だという。右手と左手が別々に動いている。

 

自分はもう現場にはいないけれど、若い友人たちのことを考えると、ため息が出る。
                               (この項続く)

 

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ピントも?甘い。

 

 

旧陸軍被服支廠を広島県が3億8千万円の費用をかけて改修、敷地内に新たに見学者用の建物を建設、平和イベントなどの使うほか被爆体験を聴く場所にするとのこと。

12月9日

年末商戦のくじ引き、わざわざ途中下車して抽選をと思ったら、期限は昨日まで。今日は餅つき。一日にひとつ、こうした”やらかし”がある。

昨日の続き

もう一つの新聞記事、広島の中澤晶子さんから送っていただいたもの。

 

すみません、写真の回転の仕方がわかりません。保存のときには90度回転しているのですが、貼り付けると戻ってしまいます。

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 わずかに朝日の文字が読めるので、12月6日の朝日の広島版の記事のようだ。

 旧陸軍被服支廠広島県が3億8千万円の費用をかけて改修、敷地内に新たに見学者用の建物を建設、平和イベントなどの使うほか被爆体験を聴く場所にするとのこと。

 

 こういう記事はこそ、全国版で知らせてほしいもの。これは広島県の大変な英断だと思う。

 

 広島市においてはこうした新たに見学者が体験談を聞くような施設をつくることはほとんどない。バカ高い入場料の「折鶴タワー」のようなものは認可?するが、小中学生が自由に使えるような場所はつくらない。何しろ折鶴タワーの貸し会議室70名利用の部屋の値段は1時間25000円もする。先日、入館料1700円(大人1名)を払って上っては見たけれど、腹の立つことばかりだった。原爆ドームを上から見られるというのが唯一の「売り」。それがどうした、という代物なのだ。

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折鶴タワーからの眺め 

 在職中、20年以上もヒロシマ修学旅行をやってきた。1回の修学旅行に毎回3年間かけて取り組んできた。横浜の中学3校で8回企画して生徒を引率したことになる。

 そのたびに、広島市はなんでこんなに修学旅行生に対して不親切なのかと思い続けてきた。もちろん、市の担当者にそうしたことを伝えても来ているのだが、状況はあまり変わらない。

 広島市は修学旅行の誘致には熱心で、横浜にもわざわざ担当部署の役人が訪れてプレゼンなどをしたことがあるが、実際に広島市を訪れると、使い勝手が悪いというか「招かれている」感がきわめて薄いのだ。

 修学旅行の中の大きな目玉は、原爆資料館の見学よりも実際の被曝者からお話を聴くことだ。平和公園の中のゆかりの碑の前で、生徒は車座になって語り部のお話を聴くのだが、どこにも日よけすらないのだ。5,6月の最盛期は紫外線も強く、せめてちょっとした日よけがあればと思うのだが。

 8月6日の記念式典のときには特設の日よけが付けられるが、ふだんは全くない。もちろん雨が降ったら大変である。わざわざ旅館に戻り、寝泊まりする部屋でお話を聴くことになる。その旅館も少なく、ホテルだとそうした場所も確保できない。市立、国立の資料館の会場は事前予約が必要なので、突然の雨でも部屋を貸してはくれない。

 被爆者も高齢化し、亡くなる方も多く、このまま直接お話を聴くというかたちは難しくなってきているが、それにしても行政としてもう少し「来てくれてありがとう」という空気があってもいいのにと思うのだ。

 

 そんな状況を見るにつけ、今度の広島県による旧陸軍被服支廠の改修と新たな建物の建設は、いままで被爆体験の継承に熱心とは思えなかった県がちょっと変わったぞ、本腰を入れ始めたのかなとも思える出来事だ。

 

 この旧陸軍被服支廠、実は「父を返せ母を返せ」で始まる峠三吉の『原爆詩集』の中の「倉庫の記録」という詩の舞台となったところ。昨年私は友人とともに、中澤さんと県の担当者の方に案内されて実際にここを訪れた。その時、朽ち果てかけているこうした建物を、本気で保存しようなんて行政はしないのだろうなと思ったことを憶えおている。そんなこともあってなおのこと、今度の決定は嬉しい知らせなのだ。

 この時のことを記録した文章があるので、少し読んでもらいたい。

 

f:id:keisuke42001:20181209175147j:plain陸軍被服支廠、門から外壁を見上げる

 

今回の訪問のもうひとつ大きな目的は、旧陸軍被服支廠のフィールドワークでした。市域の東にある比治山の南側、出汐町にこの被爆建物はひっそりと建っています。ほとんど見学されずに、また壊されずに残ってきたのは、戦後、日通が借り受け、長い間倉庫として使用してきたことにもよりますが、県が所管している部分だけで全長270メートル3階建てという巨大なもので、日通から返還されたあとも、取り壊すには費用がかかるうえに、これを買い取る企業もなかったことによるものです。
 

 中澤さん、Fさんの3人で路線バスで現地を訪れたのですが、その前に建物の所管課である広島県総務局財産管理課へ鍵とヘルメット、懐中電灯などを借りに行きました。ここでお会いしたのが係長のIさん。中澤さんのお話によるとこの方、売れない財産であるこの被服支廠を残すために、週末には京都の大学に通って建物保全について学んでいるのだそうです。

 お話ししていても、私がいつも会う横浜市教委の役人とは雰囲気が全く違っていて、率直というか自由というか、やらされている感が全くなく、ご自分の一部のようにこの仕事をされている感じがしました。居るんですね、こういうお役人が。この方、ここでお別れしたはずなのに、2時間後には現地に。敷地内の花に水をやるとかで、ペットボトルを手に下げていました。帰りには私たちが使ったヘルメットなどをもって帰ってくれました。とても素敵な方でした。 


 さて、ここは原爆投下直後に避難所となったところ。外部はレンガ造りですが、内部は鉄筋コンクリートのきわめて堅牢なもの、建築関係者もこの建物に強い関心を示している資料をいただきました。大正2年につくられたもの、ざっと100年以上経っています。Iさんによると、ここを使用するには耐震の調査が必要とのことですが、素人目には十分な耐性があるように見えます。横浜の日吉にある海軍地下壕もそうですが、軍部がかかわった建築物は、その時代の建築の粋が集められていて、高度な技術的に裏打ちされたものが多いようです。この建物もその例に外れていないようです。

 隣にある、現在、広島工業高校となっているところにあった工場で作られた軍服や軍帽、軍靴などがここに保管、出荷されていたとのこと。岡ヨシエさん(註:比治山女学校在学中、広島城の石垣の下にあった中国軍管区司令部に学徒動員として勤務。原爆投下を最初に福山の通信隊に電信した方。長いことこの司令部あとで子どもたちに体験を話されていたが、昨年お亡くなりになった。この広島港の一番の目的は彼女の弔問だった)のお父さんもここで働いていたのだと、甥御さんに伺いました。

原爆詩人峠三吉は『原爆詩集』の中の「倉庫の記録」でこの場所を描いています。

 
                        
                倉庫の記録
その日
 いちめん蓮の葉が馬蹄型に焼けた蓮畑の中の、そこは陸軍被服廠倉庫の二階。高い格子窓だけのうす暗いコンクリートの床。そのうえに軍用毛布を一枚敷いて、逃げて来た者たちが向きむきに横たわっている。みんなかろうじてズロースやモンペの切れはしを腰にまとった裸体。
 足のふみ場もなくころがっているのはおおかた疎開家屋の跡片付に出ていた女学校の下級生だが、顔から全身へかけての火傷や、赤チン、凝血、油薬、繃帯などのために汚穢な変貌をしてもの乞の老婆の群のよう。
 壁ぎわや太い柱の陰に桶や馬穴が汚物をいっぱい溜め、そこらに糞便をながし、骨を刺す異臭のなか
「助けて おとうちゃん たすけて」
「みず 水だわ! ああうれしいうれしいわ」
「五十銭! これが五十銭よ!」
「のけて 足のとこの 死んだの のけて」
 声はたかくほそくとめどもなく、すでに頭を犯されたものもあって半ばはもう動かぬ屍体だがとりのける人手もない。ときおり娘をさがす親が厳重な防空服装で入って来て、似た顔だちやもんぺの縞目しまめをおろおろとのぞいて廻る。それを知ると少女たちの声はひとしきり必死に水と助けを求める。
「おじさんミズ! ミズをくんできて!」
 髪のない、片目がひきつり全身むくみかけてきたむすめが柱のかげから半身を起し、へしゃげた水筒をさしあげふってみせ、いつまでもあきらめずにくり返していたが、やけどに水はいけないときかされているおとなは決してそれにとりあわなかったので、多くの少女は叫びつかれうらめしげに声をおとし、その子もやがて柱のかげに崩折くずおれる。
 灯のない倉庫は遠く燃えつづけるまちの響きを地につたわせ、衰えては高まる狂声をこめて夜の闇にのまれてゆく。

 二日め
 あさ、静かな、嘘のようなしずかな日。床の群はなかばに減ってきのうの叫び声はない。のこった者たちの体はいちように青銅いろに膨れ、腕が太股なのか太ももが腹なのか、焼けちぢれたひとにぎりの毛髪と、腋毛と、幼い恥毛との隈が、入り乱れた四肢とからだの歪んだ線のくぼみに動かぬ陰影をよどませ、鈍くしろい眼だけがそのよどみに細くとろけ残る。
 ところどころに娘をみつけた父母が跼んでなにかを飲ませてい、枕もとの金ダライに梅干をうかべたうすい粥が、蠅のたまり場となっている。
飛行機に似た爆音がするとギョッと身をよじるみなの気配のなかに動かぬ影となってゆくものがまたもふえ、その影のそばでみつけるK夫人の眼。

 三日め
 K夫人の容態、呼吸三〇、脈搏一〇〇、火傷部位、顔面半ば、背面全面、腰少し、両踵、発熱あり、食慾皆無、みんなの狂声を黙って視ていた午前中のしろい眼に熱気が浮いて、糞尿桶にまたがりすがる手の慄え。水のまして、お茶のまして、胡瓜もみがたべたい、とゆうがた錯乱してゆくことば。
 硫黄島に死んだ夫の記憶は腕から、近所に預けて勤労奉仕に出てきた幼児の姿は眼の中からくずれ落ちて、爛れた肉体からはずれてゆく本能の悶え。

 四日め
 しろく烈しい水様下痢。まつげの焦げた眼がつりあがり、もう微笑の影も走ることなく、火傷部のすべての化膿。火傷には油を、下痢にはげんのしょうこをだけ。そしてやがて下痢に血がまじりはじめ、紫の、紅の、こまかい斑点がのこった皮膚に現れはじめ、つのる嘔吐の呻きのあいまに、この夕べひそひそとアッツ島奪還の噂がつたえられる。

 五日め
 手をやるだけでぬけ落ちる髪。化膿部に蛆がかたまり、掘るとぼろぼろ落ち、床に散ってまた膿に這いよる。
 足のふみ場もなかった倉庫は、のこる者だけでがらんとし、あちらの隅、こちらの陰にむくみきった絶望の人と、二、三人のみとりてが暗い顔で蠢き、傷にたかる蠅を追う。高窓からの陽が、しみのついた床を移動すると、早くから夕闇がしのび、ローソクの灯をたよりに次の収容所へ肉親をたずねて去る人たちを、床にころがった面のような表情が見おくっている。

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2階に上がる階段

 

 六日め
 むこうの柱のかげで全身の繃帯から眼だけ出している若い工員が、ほそぼそと「君が代」をうたう。
「敵のB29が何だ、われに零戦、はやてがある――敵はつけあがっている、もうすこし、みんなもうすこしの辛棒だ――」
と絶えだえの熱い息。

 しっかりしなさい、眠んなさい、小母さんと呼んでくれたらすぐ来てあげるから、と隣りの頭を布で巻いた片眼の女がいざりよって声をかける。
「小母さん? おばさんじゃない、お母さん、おかあさんだ!」
 腕は動かず、脂汗のにじむ赧黒い頬骨をじりじりかたむけ、ぎらつく双眼から涙が二筋、繃帯のしたにながれこむ。

 七日め
 空虚な倉庫のうす闇、あちらの隅に終日すすり泣く人影と、この柱のかげに石のように黙って、ときどき胸を弓なりに喘がせる最後の負傷者と。

 八日め
 がらんどうになった倉庫。歪んだ鉄格子の空に、きょうも外の空地に積みあげた死屍からの煙があがる。
柱の蔭から、ふと水筒をふる手があって、
無数の眼玉がおびえて重なる暗い壁。
K夫人も死んだ。
――収容者なし、死亡者誰々――
門前に貼り出された紙片に墨汁が乾き
むしりとられた蓮の花片が、敷石のうえに白く散っている。

 

 

 私自身この場に立ってみて、そんなことはありえないのですが、片隅にじっと佇んでいると、当時の人々の呼気があちこちに澱んでいるような感覚に襲われました。出かける前に何度かこの詩を読み返したからもしれませんが。それほど「倉庫の記録」において、峠三吉は自ら被爆はしていても、客観的に透徹した視点に立とうとしていて、記録者に徹しています。原爆投下からの8日間をまるでドキュメンタリーの写真を撮るように表現しているという点ですぐれた作品だと、今にして思います(17歳のときに初めて手にした『原爆詩集』。何度か購入しましたが、まだまだ読み切れていないのだなと思いました)。

 多くの被爆建物が変質していく中で、これほど当時の空気をそのまま残している建物は多くないと思います。思い付きでしかありませんが、今だ広島には文学館がありません。この場所をこの倉庫を「広島原爆文学館」として利用できないだろうか、などとぼんやり考えました。

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壁は崩れかかっている

 

 

 

 大変に長い引用になってしまったが、ここは「広島原爆文学館」にはならないが、それ以上の施設、たぶん広島を訪れた方々が訪れる必須の見学個所になることは間違いない。

 多くの偶然の積み重ねでこうした被爆建物が原爆投下から73年を経たのちまで私たちに残されたということ、そしてそれを保存、改修して後世まで原爆を語り継ぐ「場」となることを心から喜びたい。

 この3月に訪れたアウシュビッツは、ポーランドが国として現在に至るまで大変な規模できちんと保存しようとしていることからすれば、日本はもっともっと被爆遺構や戦時建物の保存に意を砕いてもいいのではないか。

 元ドイツ大統領で故ワイツゼッカー氏のあまりにも有名な言葉を思い出す。

 

「歴史を変えたり無かったりすることはできない。過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目になる。非人間的行為を心に刻もうとしないものは、また同じ危険に陥るのだ」

 

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建物の入り口

 

 願わくば数年後、多くの見学者とともにここを訪れてみたい。

 

 

 

安倍首相、サーロー節子さんの面会を拒否。『違った意見の人にも会って語り続けるのが、本当のリーダーシップではないのか』

12月8日 

 昨日の新聞にサーロー節子さんの日本政府への働きかけの記事が載っている。帰国して以来、精力的に広島での講演、面会活動を行い、今週、直接、政府中枢に対して核兵器禁止条約への日本の参加を求めるため上京した。

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 しかしこの国の「お友達内閣」は、友達と思っていない人にはとにかく冷たい対応。翁長元沖縄県知事に対する対応のひどさがそれを物語っている。


 今回もひどい。

 サーローさんは安倍首相との面会を希望したが、官邸はこれを拒否。菅義偉官房長官は「日程の都合」を理由として挙げた。

 財界との会合にはホイホイと出かけて「明日はまたややこしい質問を受ける」などと、一国の首相としては信じられないような国会軽視の発言をしている安倍首相だが、サーローさんに代わりに会ったのは西村康稔官房副長官。首相が出られないのなら官房長官が代わりに会えばいいのに、とはどの新聞も書いていない。


 ノーベル平和賞の授賞式で被爆者として核兵器禁止条約批准へ向けた演説をした、しかも高齢のカナダ在住の方が里帰りでわざわざ東京に出てきたのなら、わずかな時間を割いてでも会うのが筋だろう。

 自分の宣伝にならない会談は拒否というケツの・・・のが既定方針なのか。誰と会ってだれと会わないかは官邸が決める、という不遜極まりない態度だから、時に是枝裕和さんのような人から肘鉄を食らわせられるのだ。


 サーローさんは河野太郎外務大臣にも面会を求めたが、こちらも拒否。この人最近は原発のことなど忘れて、安倍外交のお追従が面白くて仕方がない様子。

 代わりに辻清人外務政務官が対応したのだとか。副大臣二人のうち一人は佐藤正久自衛隊イラク先遣隊の隊長だった人。この副大臣さえ出さない。まあ、出ればまた抑止力論をひげをなでながらとうとうとまくし立てるのかもしれないが。

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 それでまだ40歳にもならない辻清人だ。なぜ?経歴を見ればわかる。彼がカナダの小学校と中高一貫校を卒業しているからだ。カナダの思い出話でお茶を濁そうと思ったかどうか知らないが、国際社会の中でのサーローさんの立場を考えれば、外務省の判断は浅慮この上ないといったところだ。

 こうした母国の非礼かつ情けない対応についてサーローさん、

 

「違った意見の人にも会って語り続けるのが、本当のリーダーシップではないのか」

 

 厳しい指摘である。
 この記事には、西村官房副長官が会談の中で「核抑止の必要性に触れた」ことをサーローさんが明らかにしたことを紹介。

 

核兵器で人間を皆殺しにする用意があるとの態度だ。市民を守るために核抑止論も云々と(言った)。ほんとうに唖然とした」

 

 核保有国と非保有国の「橋渡し役」をすることを核兵器禁止条約に署名しない理由としている政府の本音が飛び出した格好だ。

 橋渡しではなく、アメリカに媚びを売って武器を買い、核の傘の下で抑止力の恩恵にあずかろうというこの国の戦後の政策の根幹がこういう時に顕われてしまう。
 サーローさんは安倍首相にあてた手紙の中で、核兵器禁止条約に日本が署名しないことについて


「裏切られたと言わざるを得ない。果たすべき責任を放棄している」

 

と訴えたことも明らかにした。
 
 自分の主張を、相手がだれであれきちんと伝えようとする姿勢は、長いことカナダで暮らしてきたサーローさんらしいもの。日本的な下から「拝謁」を求めるような卑屈さがこの方にはない。伝えるべきことを自分の言葉で伝える、このあたり前のことが、なかなかできない。この国では、その前に忖度の方が優先されてしまうのだ。
 

 私は、86歳にもなるサーロー節子さんの声に耳を傾けようとしない日本政府を、恥ずかしいと思う。

 

 道徳の教科書に安倍首相が下町ロケットの工場で逆Vサインをしている写真が載っていたが、そんな中身のない写真よりもサーローさんの来日を扱った文章を載せた方がいい。

 広島での講演の様子と官邸での非礼な対応、そして同時期に話題となった本庶さんに比べてサーローさんをほとんど取り上げないこの国のマスコミのあり方まで、この10日間ほどを克明に描く「ややこしいノーベル賞の取扱説明書」と題して。


 もう一つ、先日、広島の平和記念公園の遺構の試掘が始まるとの記事、広島の友人がメールに添付して送ってくれた。爆心の島外科から300㍍南の天神町筋と呼ばれた周辺、ここ中島地区は広島屈指の繁華街、1300世帯4400人が暮らしていたところ。


 私は、ちょうどこの場所で、語り部として長い間修学旅行生にお話をされてきた山崎寛治さんから何度もお話を伺った場所だ。

 もともとこの平和公園は街のあったところに1㍍近く土盛りをしてつくられたところ。遺骨も遺構もたくさん埋まっているはずだ。1955年の開設以来60年以上を経て今一度、ここを被爆遺構として保存する意義は高いと思う。
 

 この記事、実はこちらでも掲載されていた。少なくとも東京新聞には出ていた。共同の配信によるものと推測すると、全国の地方新聞にも掲載されているかもしれない。

 もう一つ、友人とのやり取りの中で、こちらでは報道されていないさる重要な記事があることに気がついた。これについては、次回に。

 

変形労働時間制とは「今までは勤務時間は8時間でしたが、これからそれが2時間延びて建前10時間とします。これで時間外勤務が2時間減ります。これが働き方改革です。ずいぶんとラクになるでしょうね」ということ。

12月6日

 昨日とはうってかわって冷たい雨が降りしきる。緩やかなグラデーションとはいかない初冬の一日。

 

 教員の働き方改革の話。

 今年に入って文科省のリークと思える変形労働時間制についての報道が増えた。5月には「観測気球」だったものが、この夏どこかで政・官・労の合意があり「いけるぞ」という確信を深めたのか、8月終わりには毎日新聞が「確定的」との報道。それ以後は、なだれを打って来年度か再来年度には導入という勢いだ。

 

 論評のほとんどは懐疑的批判的なものが多いのだが、手っ取り早い「改革」として導入を求める声もある。口上だけ聞いているとずいぶんすっきりした打開策のようにも見える。

 それもそうだ。なにしろこの打ち出の小づちは、1日の勤務時間を2時間も増やすことができる。同時に現在の1日の時間外勤務を2時間カットできることになるからだ。2時間も多く働かせられて2時間も時間外をカットできる。夢のような話だ。

 

 過労死ラインの時間外勤務80時間を月20日で便宜的に割れば、一日4時間の時間外勤務になるが、勤務時間を2時間増やせば時間外は2時間減る。つまり時間外は40時間となり、金も人も出さなくても時間外勤務を半減させることができるというわけだ。

 

 ばかなことを言うな、増やした分は閑散期にちゃんと返すのだから年間を通せば数字的には同じになるんだ、というのが理屈、いや屁理屈、机上の空論。返せるという実証的なエビデンスを示してほしいものだ。

 

 

 

 教員残業は原則「月45時間以内」 罰則はなし
                 日経電子版2018/12/6 11:02 

 小中学校などの教員の長時間労働是正策を議論する中教審の特別部会が6日開かれ、公立校の教員の残業時間を原則として「月45時間以内」、繁忙期でも「月100時間未満」とする指針案を了承した。働き方改革関連法の上限に沿う内容だ。文部科学省は必要な制度改正に向け検討を始めるが、罰則は設けない方針で実効性の確保が課題となりそうだ。

特別部会では、長時間勤務の縮減策などを盛り込んだ答申素案も示され、労働時間を年単位で調整する変形労働時間制の導入を提言した。

文科省は繁忙状況に応じて学期中の勤務時間を引き上げる一方、夏休み中の学校閉庁日を増やし長期休暇を取りやすくするなどの活用例を想定。導入する自治体が条例化できるよう教職員給与特別措置法(給特法)の来年度中の改正を目指す。

文科省の2016年度教員勤務実態調査によると、残業時間が月45時間以上の公立小学校教諭の割合は81.8%、公立中学校教諭は89.0%に上っている。

指針案は、民間企業の時間外労働の上限を定めた働き方改革関連法を参考に、教員の目安を原則月45時間、年360時間に設定した。特別な事情があっても月100時間未満、2~6カ月の月平均で80時間、年720時間までとし、タイムカードなどで勤務時間を客観的に捉えるべきだとした。

ただ、同法にある罰則の導入については、答申素案で「慎重であるべきだ」と指摘した。公務員の扱いに合わせるためで文科省もその方向で対応する。

また、答申素案では改革の具体策で縮減できる1人当たりの年間勤務時間数の目安も提示した。校務支援システムの活用で成績処理などの負担を軽減し年約120時間、部活動に外部指導員を充て年約160時間をそれぞれ減らせるとした。給特法が教員に給与月額の4%相当を支給する代わりに時間外手当の支給を認めておらず、残業の大半が自主的な労働とみなされていることについては「勤務時間管理が不要との認識を広げている」との見方を記したが、抜本的な見直しには踏み込まなかった。

 

 

 

 

 今日12月6日は、それに加えて「教員の時間外勤務を月45時間、年間360時間に抑制する」との報道があった。何とも上手に平仄(ひょうそく)を合わせるというかこずるいというか。

 

 この数字、変形労働時間制を導入すれば、十分達成可能な数字となってしまうところがミソ。

 カネもヒトも増やさずに数値目標をさだめればなんとかなるといういつものやりかた。もちろん罰則はなし。障碍者の雇用水増し問題と同じ。「言うだけ」番長。

 

 国の働き方”改革”同様、ここでも繁忙期は時間外勤務100時間を容認するのだ。100時間までは働かせもよい、というお墨付き。給特法で支給されるのは給与の4%は、せいぜいが6時間分にすぎない。教員だけは忙しかったら94時間まではタダで働かせて良いと言っているのだ。怒らなくてどうする?

 

 さて繁忙期の月の勤務時間は10時間にというが、繁忙期でない月は何月か?百歩譲っても8月だけ。この8月も昔から「休んだのはお盆だけ」という教員が多い。

 

 変形労働時間制と言っても、現状と重ねればこっちの凸をこっちの凹にという具合にはならない。タダで凸だけが増えるということ。

 

 現場での変化は「今までは勤務時間は8時間でしたが、これからそれが2時間延びて建前10時間とします。これで時間外勤務が2時間減ります。これが働き方改革です。ずいぶんとラクになるでしょうね』というだけのこと。

 

 変形労働時間制が、週や月の総労働時間を定める労基法の精神を逸脱しているものだという意識が全くないのがいちばんの問題。変形労働時間制導入の歴史を繙くまでもなく、本来水と油の関係を無理やり一つの法律の中に押し込んできた。つまり矛盾をそのまま入れ込み、広げ続けてきたのが労基法の中の変形労働時間制の歴史だ。

 

 もともと変形労働時間制は導入時にはひと月に限定されていた。それがいつの間にか、「3か月」「3か月から1年」というふうに延長されてきた。延長されればされるほど労基法の精神からの懸隔は広がるばかりだ。

 

 労基法の精神とは何か。憲法で保障される健康で文化的な生活のためには『寝だめ食いだめ』はからだに悪いよ、ということだ。だから年間総労働時間ではなく、週労働時間を定めてきたのだ。

 

 全体の6割が過労死ラインを超えている(公立中学)なかで、変形労働時間制を導入すればどうなるか。寝ないで仕事をしながら『寝だめ』は出来ないよという事だ。つまり何度も言うが、実態としては8月以外は勤務時間は10時間という意識になってしまうという事。

 

 今でも勤務時間を超えて会議や進路指導、学校行事、生活指導などが行われているが、19時まではフリーでさまざまな業務がが入れられるという事になる。さらには、部活動も勤務時間を超えて行われてきたものが、平日のほとんどで勤務時間内という事になってしまう。5時まで会議、7時までは部活?(10時間になると労基法の規定では休憩時間は60分になる。今までもほとんど取れてはいない。実質10時間の連続勤務。朝練を入れると?19時以後の時間外を入れると?)

 

 さらには保育園の送り迎え、介護ヘルパーの問題なども出てくる。これらすべて実質的な負担増にもつながる。しかしこうした人たちが大変だから導入はやめろ、というのは闘う理屈としては偏頗だ。健康で文化的な生活を送る権利を法律にしたのが、変形制を除いた労基法。個人の事情に関係なく、「わたしの時間を勝手に奪うな」なのだ。

  

 文科省はいつもの狡知に長けたやりかたで「大枠は決めたので、あとは地教委でいかようにも」と丸投げをするだろう。地教委は地教委で「中枠」は決めたからあとは現場でと丸投げ。現場の「小枠」はどうなるか。

『あしたから勤務時間2時間延長だよ。これで慌てずじっくり仕事ができるね』

 

 いちばんの桎梏(しっこく)が給特法であることはまちがいない。給特法の40数年が、教員から「勤務時間意識」を奪い、行政や管理職から「時間外勤務意識」を奪ってきた。

 その給特法の延長上に、給特法の上に乗っかってこの変形労働時間制があることを忘れてはならない。