安倍首相、サーロー節子さんの面会を拒否。『違った意見の人にも会って語り続けるのが、本当のリーダーシップではないのか』

12月8日 

 昨日の新聞にサーロー節子さんの日本政府への働きかけの記事が載っている。帰国して以来、精力的に広島での講演、面会活動を行い、今週、直接、政府中枢に対して核兵器禁止条約への日本の参加を求めるため上京した。

f:id:keisuke42001:20181208154836j:plain


 しかしこの国の「お友達内閣」は、友達と思っていない人にはとにかく冷たい対応。翁長元沖縄県知事に対する対応のひどさがそれを物語っている。


 今回もひどい。

 サーローさんは安倍首相との面会を希望したが、官邸はこれを拒否。菅義偉官房長官は「日程の都合」を理由として挙げた。

 財界との会合にはホイホイと出かけて「明日はまたややこしい質問を受ける」などと、一国の首相としては信じられないような国会軽視の発言をしている安倍首相だが、サーローさんに代わりに会ったのは西村康稔官房副長官。首相が出られないのなら官房長官が代わりに会えばいいのに、とはどの新聞も書いていない。


 ノーベル平和賞の授賞式で被爆者として核兵器禁止条約批准へ向けた演説をした、しかも高齢のカナダ在住の方が里帰りでわざわざ東京に出てきたのなら、わずかな時間を割いてでも会うのが筋だろう。

 自分の宣伝にならない会談は拒否というケツの・・・のが既定方針なのか。誰と会ってだれと会わないかは官邸が決める、という不遜極まりない態度だから、時に是枝裕和さんのような人から肘鉄を食らわせられるのだ。


 サーローさんは河野太郎外務大臣にも面会を求めたが、こちらも拒否。この人最近は原発のことなど忘れて、安倍外交のお追従が面白くて仕方がない様子。

 代わりに辻清人外務政務官が対応したのだとか。副大臣二人のうち一人は佐藤正久自衛隊イラク先遣隊の隊長だった人。この副大臣さえ出さない。まあ、出ればまた抑止力論をひげをなでながらとうとうとまくし立てるのかもしれないが。

f:id:keisuke42001:20181208160202j:plain

 

 それでまだ40歳にもならない辻清人だ。なぜ?経歴を見ればわかる。彼がカナダの小学校と中高一貫校を卒業しているからだ。カナダの思い出話でお茶を濁そうと思ったかどうか知らないが、国際社会の中でのサーローさんの立場を考えれば、外務省の判断は浅慮この上ないといったところだ。

 こうした母国の非礼かつ情けない対応についてサーローさん、

 

「違った意見の人にも会って語り続けるのが、本当のリーダーシップではないのか」

 

 厳しい指摘である。
 この記事には、西村官房副長官が会談の中で「核抑止の必要性に触れた」ことをサーローさんが明らかにしたことを紹介。

 

核兵器で人間を皆殺しにする用意があるとの態度だ。市民を守るために核抑止論も云々と(言った)。ほんとうに唖然とした」

 

 核保有国と非保有国の「橋渡し役」をすることを核兵器禁止条約に署名しない理由としている政府の本音が飛び出した格好だ。

 橋渡しではなく、アメリカに媚びを売って武器を買い、核の傘の下で抑止力の恩恵にあずかろうというこの国の戦後の政策の根幹がこういう時に顕われてしまう。
 サーローさんは安倍首相にあてた手紙の中で、核兵器禁止条約に日本が署名しないことについて


「裏切られたと言わざるを得ない。果たすべき責任を放棄している」

 

と訴えたことも明らかにした。
 
 自分の主張を、相手がだれであれきちんと伝えようとする姿勢は、長いことカナダで暮らしてきたサーローさんらしいもの。日本的な下から「拝謁」を求めるような卑屈さがこの方にはない。伝えるべきことを自分の言葉で伝える、このあたり前のことが、なかなかできない。この国では、その前に忖度の方が優先されてしまうのだ。
 

 私は、86歳にもなるサーロー節子さんの声に耳を傾けようとしない日本政府を、恥ずかしいと思う。

 

 道徳の教科書に安倍首相が下町ロケットの工場で逆Vサインをしている写真が載っていたが、そんな中身のない写真よりもサーローさんの来日を扱った文章を載せた方がいい。

 広島での講演の様子と官邸での非礼な対応、そして同時期に話題となった本庶さんに比べてサーローさんをほとんど取り上げないこの国のマスコミのあり方まで、この10日間ほどを克明に描く「ややこしいノーベル賞の取扱説明書」と題して。


 もう一つ、先日、広島の平和記念公園の遺構の試掘が始まるとの記事、広島の友人がメールに添付して送ってくれた。爆心の島外科から300㍍南の天神町筋と呼ばれた周辺、ここ中島地区は広島屈指の繁華街、1300世帯4400人が暮らしていたところ。


 私は、ちょうどこの場所で、語り部として長い間修学旅行生にお話をされてきた山崎寛治さんから何度もお話を伺った場所だ。

 もともとこの平和公園は街のあったところに1㍍近く土盛りをしてつくられたところ。遺骨も遺構もたくさん埋まっているはずだ。1955年の開設以来60年以上を経て今一度、ここを被爆遺構として保存する意義は高いと思う。
 

 この記事、実はこちらでも掲載されていた。少なくとも東京新聞には出ていた。共同の配信によるものと推測すると、全国の地方新聞にも掲載されているかもしれない。

 もう一つ、友人とのやり取りの中で、こちらでは報道されていないさる重要な記事があることに気がついた。これについては、次回に。