素晴らしいお店だった。ビールの冷え具合いもよい。おつまみは、天ぷらと刺身の盛り合わせを中心に注文したが、内容、量ともいずれも文句をつけがたいほどの料理。名店だと思った。盛り付けのバランスもきれいだし、見掛け倒しでなく食べ応えもある。鮮度もかなり良い。海老天は人数分出ている(笑)。

   教員の独立組合と学校事務職員の独立組合が共同で開催する集会が、御殿場で開催されるので出かけた。初めてJR御殿場線に乗った。8月4日のことだ。


  南町田から相模大野を経て御殿場に行くには、新松田で小田急からJRに乗り換える。新松田までは急行か快速急行の小田原行きに乗る。

 

 この電車、本厚木までは海老名しか停まらないが、本厚木からは各駅停車に変わる。小田原に近づくとまた何駅か飛ばす。

 この日、相模大野から乗ったのは各駅停車。急行だと夏はからだが冷え込んでしまうので、毎回律義にドアを開け閉めしてくれる各駅停車の方が都合がいい。10時。気温は35度を超している。

 


上半期の芥川賞の受賞作「送り火」が掲載されている文學界5月号をもってきた。芥川賞候補作品のうち3作を読むことなど、初めてのこと。「美しい顔」「もう「はい」としか言えない」についてはすでに書いた。以下、素人の勝手な感想。


 小説はこれだけしっかり書きこむものなんだと思った。文章に風格のようなものが感じられる。北東北独特の空気が感じられて引き込まれた。ただ、虫などがメタファーとして何度も出てくるが、うまくはまっているのかどうか。ブレーキに感じられるところもあった。

 

 思春期の暴力性についての突き詰めにはリアリティがあるのに、主人公の中学3年生歩に相応のリアリティが感じられなかったと思うのは私だけか。

 全体に文章の重厚さが私には少し重く感じられた。プロの作家の眼には、才能ありというふうに映る作品であるようだ。


 「美しい顔」については「盗用ではない」という共通認識が審査員の中にあったというが、新人賞という芥川賞の性格からすれば、もう少し評価されてもよいのではないかと思った。


 松尾スズキの「もう「はい」としか言えない」と3つ並べてみると、同じ小説というかたちでありながら、音楽と美術といった違うジャンルのものを比較しているように感じられた。ここにあと2作を入れて、読み比べて評価するなど大変なことだと思われた。

 

 

 新松田駅から50mのところにJR松田駅がある。小さな駅だ。待合室はない。自動券売機が2台。8畳ぐらいの広さ。ここではパスモが使えない。チケットを買ってくださいとの注意書きがある。JR御殿場線JR東海の最も東にある路線。JE東日本に食い込んでいる路線だ。

 御殿場駅までの500円の乗車券を購入。思えば券売機でチケットを買うのは久しぶりのこと。


 改札を抜けてホームへ。これがかなり長い。小田急線の特急電車「ふじさん」が乗り入れているせいだろうか。

 入線してくる電車は国府津駅からやってきたもの。国府津駅JR東海と東日本の境ということになる。


 松田駅を出ると、御殿場駅までは25㌔を35分ほどで走る。単線だが電化されている。7割ほどの乗車率。旅行客が多いようだ。目のまえには短パン姿の同じ世代と思われる男性。キャップに派手めのシャツ。きまっている。

f:id:keisuke42001:20180808213141j:plain富士山をバックに走る御殿場線


 先頭車両に乗る。小説は読まない。乗り鉄というわけではないが、初めての路線は物珍しくて楽しみなものだ。25㌔のほとんどを東名高速と交叉を繰り返しながら走る。深い森の中を右に左にカーブする軌道を走るため、景色が変わって新鮮。4つ目の駅駿河小山静岡県に入る。


 坐っていられず、運転士の右側に立ってしまう。


 御殿場線というと遠藤周作原作の『わたしが棄てた女』という映画を思い出す。

 1969年の浦山桐郎監督の映画。映画館で見た記憶がある。河原崎長一郎浅丘ルリ子加藤治子、そしてさえない女工を小林トシ江が出演していた。

f:id:keisuke42001:20180808213821j:plain映画「わたしが棄てた女」(パートカラー)


 映画に御殿場線のシーンがあったかどうか、今では覚えていないのだが、あとになって読んだ原作、とりわけ数年前に読み返した時には、主人公ミツが御殿場線で国立駿河療養所に向かうシーンで、ぐっとこみあげてきたのを憶えている。

 

 国立駿河収容所はハンセン病の収容施設である。吉岡に体よく捨てられた森田ミツは、ハンセン病との疑いから療養所に向かう。その時のミツの心理と山を登っていく御殿場線の暗いそして黒い蒸気機関車が重なって、鬱々とした情感が伝わってくるシーンである。


 ミツは結局ハンセン病でなかった。いったんは東京に帰ろうとするが、思いとどまりこの施設で介護の職員として働き始める。

 何年か後に、吉岡は施設にミツのことを問い合わせるのだが、交通事故で亡くなったと伝えられるのが結末だったか。

f:id:keisuke42001:20180808213843j:plain原作は「わたしが・棄てた・女」講談社文庫520円

 

 何とも救いのない人生としか思えないミツをスタイルも見場もよくない小林トシ江が好演している。好対照に、吉岡がミツを捨てて走る三浦マリ子を演じるのが浅丘ルリ子である。


 私にとっては文学とか人生とか、そういったものをちょっとだけまじめに考えるきっかけとなった映画である。

 

 


 御殿場駅に到着。高地である分、少しは涼しいかと思ったが、ほとんど変わらない熱気。会場”時の栖”’(ときのすみか)へのシャトルバスを探す。

 

 次の日、午前中にレポート。2013年に起きた市内K中学のセクハラ冤罪処分に対する5年間の闘いと人事委員会勝利裁決について報告する。

 女子中学生の証言をまともに受けて当該T先生を守ろうともしなかった二人の管理職、そしてそのまま報告を教育委員会議にあげて、懲戒処分を出した市教委事務局、それに対し4年半の審理の結果「教育委員会裁量権の逸脱」というのが横浜市人事委員会の判断。

 行政処分は99・9%覆らないというのが常識なのだが、覆った。そうは言っても、一人の教員の尊厳を守るために5年近くの時間と多額の金を要することになる矛盾は大きい。

 二日間の集会はお昼には解散。

 旧知の友人たちと連絡を取り合い、三島駅で昼食をかねて一杯やることに。

 前日のうちに集会には参加していない三島在住の先輩の方に連絡を取り、お店を決めてもらうことに。人数は当初3~4人と思っていたが、8人に。


 三島駅にはシャトルバスで30分ほどで到着。北口(新幹線口)にバスがつけられたので、待合場所の南口まで移動する必要がある。

 連絡通路があるかと一人が駅員に尋ねると、「150円の入場券を買ってもらえれば。そうでないとぐるっと回ることになります」との返答。150円!もったいないよ、ということで、成算もないまま「ぐるっと」に向かう。

 新幹線の高架沿いに荷物を持って歩くのだが、なかなか「ぐるっと」はやって来ない。結局20分ほどもかけて南口に到着する。150円払えばよかったと後悔するも、「いやいや、これでビールがうまくなる!」。

 

 「駅近でお願いします」と頼んであった。「うん、近いよ」と言われて皆、また歩き始める。

 着かない。

 炎天下5分ほど歩いて、思わず「あとどれくらいっすか」と不機嫌をにじませながら訊いてみる。「あと数分」。文句は言えない、一任したのだし。


 10数分後、めざすお店に到着。店名「和食蒲焼高田屋」。うなぎ屋。三島はウナギで有名な街。ここまで来る途中にも何軒もうなぎ屋があった。そして、ここも。

f:id:keisuke42001:20180808213254j:plain三島・和食蒲焼高田屋、いい店でした。

 

 入ると、左側に長いL字のカウンターが続いている。10数人坐れる。テーブル席もざっと30人近く坐れる大きな店。

 さてさて、汗をかきながらたどり着いたこの高田屋はどうだったか。

 

 素晴らしいお店だった。ビールの冷え具合いもよい。おつまみは、天ぷらと刺身の盛り合わせを中心に注文したが、内容、量ともいずれも文句をつけがたいほどの料理。名店だと思った。盛り付けのバランスもきれいだし、見掛け倒しでなく食べ応えもある。鮮度もかなり良い。海老天は人数分出ている(笑)。


 2時半ごろになって“ラストオーダーです”と声をかけられる。「まだ、呑んでいてもいいですか」と訊くと、「もちろんです、オーダーはストップしますが、ごゆっくりしていってください」とのこと。感じがよい。

 10分後、白い上っ張りを着たベテランの男性スタッフが私たちのテーブルに来て、「これから昼食休憩に入らせていただきます」と一礼。トイレに立った時に奥のテーブルをみると、老若男女10人ほどが静かに食事をしている。長い時間かかってできてきた店のしきたりが感じられる。

 

  え?それでうなぎは?

 うなぎ屋でうなぎを食べない。呑兵衛にはうなぎはつまみにならない。お店には失礼な話なのだが。

 

 早めに帰るという北九州の人たちは、新幹線の時間があるためタクシーを呼んでもらった。外は肌を刺すような日差しがギラギラしている。”次はいつ会えるかねえ”という会話が最近は冗談と思えない時がある。

 

 さて残留組。同じ道のりを歩いていく気分にはなれない。

 北九州組に遅れること1時間、タクシーを呼んでもらおうと言うと、件の先輩が「少し見せたいところがある」。内心“!”である。


 5人で歩き始める。突然、木立の中に清冽なせせらぎが見えてくる。こんなところに!と思うが、たくさんの親子が当たり前のように水の中で思い思いに遊んでいる。

 飛び石は靴の中に水が入らない程度に配置され、せせらぎに入ってもせいぜいがふくらはぎまで。この流れが200㍍ほど続く。ここが”源兵衛川せせらぎ散歩”という三島の名所。三島市の観光情報には、

 

「水の都・三島」らしさを感じられるスポットとして人気。

富士山の伏流水が湧き出る楽寿園内小浜池を水源とする源兵衛川は、三島駅から徒歩5分にありながら、初夏の夜にはホタルが舞う美しい流れです。

川の中には、飛び石などが配置され、湧水を全身で感じながら「せせらぎ散歩」を楽しむことが出来ます。

広瀬橋付近には、昔懐かしい手扱ぎポンプが設置してあり、子どもたちに大人気です。

 

とある。

f:id:keisuke42001:20180808212701j:plain源兵衛川せせらぎ散歩(市の観光情報から写真をいただきました)

 

まるで西行

 

    道の辺に清水ながるる柳かげしばしとてこそたちどまりつれ

 

さながらである。5人で靴下を脱ぎ、バッグを肩に担いで歩く。しばし涼を愉しんだことだった。

 


 このまま帰るやからではない。駅近くで「沼津○○寿司」なる店を見かければ、もう一軒ということになる。

 


こうして横浜の自宅に到着したのは20時近く。1泊2日の夏の旅だった。

 

 

 

f:id:keisuke42001:20180808214614j:plain本文とは関係ありません。

中世の乱痴気騒ぎ?(アムステルダム国立美術館

『パティ・ケイク$』(2017年・アメリカ・109分・主演ダニエル・マクドナルド)・『女は二度決断する』(2017年・ドイツ・106分・原題“Aus dem Nichts”・監督ファティ・アキン・主演ダイアン・クルーガー)

 『パティ・ケイク$』(2017年・アメリカ・109分・主演ダニエル・マクドナルド)をみた。飽きずに最後まで楽しめた。映画はまずこれが一番。「時間を感じさせない」こと。次にいろんなことを考えさせてくれること。


 ネットの惹句には「女子ラッパーのシンデレラ物語」とあるが、アメリカ・ニュージャージーで、元ロック歌手でアルコール浸りで働かない母親と車いす生活の祖母と3人で暮らす主人公パトリシア・ドンブロウスキー。

 見かけもかなりの肥満で周囲からはダンボとなじられる。職も定着せず、母親ともすれ違い、自尊感情を持てないまま屈託する彼女にとって、ラップのための詩をつくることが唯一の自分の思いを表現できる場所。シンデレラってそういう話だっけ?


 いつかラッパーとして世に出たいと思う彼女の生活は、住むところがある分『フロリダ・プロジェクト』より、よりましなのかもしれないが、母親は祖母の病院への支払いが滞っていて法的な措置をとると脅されているが、パティには働けというだけで自分では働かない。祖母が脳梗塞で入院しても、健康保険未加入のため、生活が破綻してしまうほど不安定だ。

f:id:keisuke42001:20180806164756j:plainダニエル・マクドナルド


 音楽はこの映画のためにつくられたすべてオリジナルのものというが、最後のオーディションシーンは圧巻。私は、ラップ音楽とかヒップホップというものにはほとんど関心をもってこなかったが、ラップという方法で、自分を取り巻く差別やそこから抜け出そうとする自分の思いを韻を踏みながらリズミカルに繰り返し“喋る”ラップという表現に、ちょっとやられた感がある。


 主演のダニエル・マクドナルドは、主役を演じるためにラップの猛特訓をしたというが、最後の最後の一枚をめくったところにこの人の素の部分が見えるようで、魅力的である。違う言い方をすると、とにかくかっこいいのである。


 オーデションシーンは、足を骨折した母親が駆けつけ、ステージとフロアで二人で掛け合いで歌うシーンがあるなどメルヘンティックに流れるきらいはあるが、それはそれでミュージカル仕立てのようで楽しめた。


 ラップには、南アフリカのグリオという口頭伝承者に端を発する黒人社会によるアメリカ批判の系譜、黒人霊歌とも通じるものがあるというが・・・そういったことよりも、かなり複雑なビートを駆使して、そこに言葉を載せ韻を踏み何度も繰り返し訴える・・・伝わるものが確かにあると思った。


 パトリシアと薬局勤めの友人、孤独で音楽に真摯に向きあう黒人の青年、そして祖母!の4人で作るグループのデモCDがオーディション出場のきっかけになるのだが、この歌がとってもいい。祖母役のキャシー・モリアーティという女優がいい味を出している。

 暑くても出かけて行って見る価値あり。


女は二度決断する』(2017年・ドイツ・106分・原題“Aus dem Nichts”・監督ファティ・アキン・主演ダイアン・クルーガー

 

 邦題が大向こう受けを狙ったような、どこかで聞いたようなもの。独原題はいたってシンプル。直訳するとどうなるか。グーグル翻訳は「何から」。意味が分からない。英原題を調べてみると、“InTheFade”。グーグルの直訳は「フェードして」。ひどい。独原題から英語に直接翻訳すると“from nothing”。ますますわからなくなる。
これは外国語の素養がなさすぎるということだ。


 映画をみたあとには“何もないから”がいいのかなと思った。

 それとも「消えてしまいたい」というニュアンスか。どなたかご教示を。

 邦題は良くないと思う。「スリー・ビル・ボード」のような筋立てを想像させてしまう。インパクトはあるけれど。

 

 

・・・ドイツ、ハンブルグ。トルコ移民のヌーリ(ヌーマン・アチャル)と結婚したカティヤ(ダイアン・クルーガー)は幸せな家庭を築いていたが、ある日、白昼に起こった爆発事件に巻き込まれ、ヌーリと息子のロッコが犠牲になってしまう。警察は当初、トルコ人同士の抗争を疑っていたが、やがて人種差別主義者のドイツ人によるテロであることが判明。愛する家族を奪われたカティヤは、憎しみと絶望を抱えてさまようが……(映画.comから拝借)。

 

 犯罪者同士の抗争、イスラーム過激派による無差別テロ、ネオナチによる移民への差別、排斥など、トルコ人街に住む移民のヌーリの経歴からさまざまな可能性が疑われる。ドイツだからこそのテロなのか、そうではないのか。簡単には特定できない不気味さがある。

f:id:keisuke42001:20180806164906j:plain


 この映画は、かといって犯人捜しの映画ではない。ネオナチの若い男性の父親が、息子が使うガレージの中に事件で使われた農薬や釘など爆弾の材料があったこと、そして息子が「ヒトラー主義者」であることを裁判で証言する。カティアは、ヌーリの店を立ち去る女を見ており、男はこの女と親しいことが判明する。

 この裁判のシーンが出色である。ギリシャのホテル経営者がこの男女の名前が宿帳に記されていることを証拠として、二人は事件の時にハンブルクにはいなかったと証言。

 しかしカティアの弁護士はこのホテル経営者もネオナチの一員であることを暴き出す。

 

 カティアの薬物使用についても取りざたされる。少量だということで刑事訴追の対象にはならないというのがドイツの実情のようだが。この薬物は実は弁護士から渡されたもの(このあたりが薬物に対する感覚が日本とはかなり違う。3月にアムステルダムを訪れたとき、大麻を合法的に吸える店“コーヒーショップ”と称する店が今でも200店以上あるというのに驚いたが)。

 

 容疑者側の弁護士は薬物使用者には証言能力がないと主張する。証言能力の有無を調べるため検査をすべきだと容疑者の弁護士は主張するが、カティアは拒否する。これが判決に大きく影響を与える。


 9割がた、容疑者の容疑は固まったに見えるが、裁判所の決定は「疑わしきは罰せず」で無罪に。

 

 ここまでならばネタバレにはならないだろう。問題はこの後だ。

f:id:keisuke42001:20180806165120j:plainダイアン・クルーガー

 

 夫と最愛の息子を失ったカティアにとって、実母、義父母や友人との思いのずれ、そして死者への葛藤はどこまでも深く重いが、私を含めてみている者は、それを一緒にトレースしていっているかのように思わされる。だがカティアの側に立って、怒りや悲しみを共有しているという私の思い込みは、カティアによって思い切り突き放される。


 ファティ・アキンはカティアの“喪失”が、実はどれほど私たちの想像を超えて測り知れないものなのか、全く視線を外さずに描いている。

 それが心情の揺れ動きだけでなく、一つの行動となって表れるのに私は度肝を抜かれた。そしてただただ沈黙せざるを得ない。

 

 衝撃的なラストシーンではあるが、映画全体に伏線が精細に配置されていて、いわゆる物語の「結構」がとってもしっかりしているため、浮いていない。きわものの映画ではない。

 ファティ・アキン監督にとっては、ドイツ国内で2000年代初めに起きた「国家社会主義地下組織」(NSU)が移民に対して起こした連続テロ事件が映画づくりの下敷きにあり、解決に時間がかかるあまり、捜査当局とNSUの関係まで取りざたされたということに不信があったのだと思う。

 その意味で、ラストシーンにはトルコ系移民2世としての怒りや恐怖から紡ぎだされた一つのやりきれない「解決」が込められていたと思われるが、このラストシーンに欧米系の評論家から異議が多く出されたという。

 


 この映画でダイアン・クルーガーは2017年のカンヌ映画祭の主演女優賞を受賞した。緊張感の持続力と感情の揺れを体全体で表現した点で受賞は当然だと思うが、同時に演出、脚本に抜きんでた表現力を発揮したファティ・アキンは監督賞に入っていないし、もちろん最高賞にはもちろんそのほかの賞にも。評価が割れた。映画は民族、宗教、政治的な立場から決して自由ではないということだ。


 この年の最高賞は『ザ・スクエア 思いやりの聖域』。あの『フレンチ・アルプスで起きたこと』というスウエーデン映画の監督がつくった映画だ。9月初めにみる予定。

 

 さてタイトルだが、やはり最愛の夫と息子を亡くしたことの喪失感の大きさからすれば、ネットで見つけた『虚無から』といったタイトルがぴったりするかもしれない。ただこれでは日本で映画館に足を運ぶ人は多くはない。

 

f:id:keisuke42001:20180806165554j:plain写真、へたくそなのであまり涼しくなりませんね。(油壷マリンパーク)

「なあに、少しの間だけ殊勝にしていればいいのさ。こんなもの、すぐ収まるから。いいか、発言の撤回とか謝罪はしてはいけないよ。その意味では君の事務所のコメントはなかなかよくできている。あれでいいんだ。いいか、あなたの後ろには味方がたくさんいる。これからもはっきりものを言うことが大事だ。君にはしかるべき働きを期待しているからね」

    また猛暑がぶり返した。

    以前はエアコンのつけっぱなしはからだに悪いと、タイマーをかけて寝ていたが、タイマーが切れたあとかえって寝苦しくなるので、ここ1,2年は弱めにつけっぱなしにしている。

    からだが冷えてしまうようなので、3時過ぎ、テラスを開け放しエアコンを止める。外はまだ真っ暗だ。

   外と中の温度はほとんど同じになっている。26℃ぐらいか。扇風機はつけっぱなしにしておく。また少し浅い眠りがやって来る。気がつくと目覚まし時計が4時を示している。

    遠くから鳥のなき声が聞こえてくる。フェードインするように少しずつ大きくなって寝床まで届いてくる。目を覚ましたつれあいが、昨日眠れなかったという。歳を重ねるにつれ、睡眠の質が変わってくるものだ。不眠はつらい。


    夜が明け始めている。鳥の声にミンミンゼミの啼き声が重なり、ときおりひぐらしがそれに加わる。部屋を閉め切っていれば聴こえない音のかさなり。暑苦しい音だが、この時間なら許せるような気がする。今日はこのまま起きてしまった。
 
 杉田議員の「生産性」発言に対する予想を超える反発に、自民党が火消しを始めた。

 総裁選を前にして、このままではやばいと判断したということだ。

「理解不足と関係者への配慮を欠いた表現があることも事実」「本人には今後、十分注意するよう指導した」

 と発表したが、これに呼応して杉田議員は「真摯に受け止め、今後研鑽に努めていく」という事務所のコメントを発表した。

 謝罪も撤回もない。つまり自民党は本気で指導したわけではないということだ。
 

 これって最近の自民党のやりかた。安倍総理自身がそうだ。形だけ一歩引くが、撤回したり、辞めさせたりはしない。粛々と職務に専念していただく、といった具合だ。

 ところで、これでこの問題が終わるとすると、だれが得をしたことになるのか。私は杉田議員だと思う。

 なんと言っても彼女は今度のことで、安倍総理日本会議に近い人物としての地歩を固めることができた。なかなかにきれいなお名前もしっかり売って、右派議員としての位置を確固たるものしたということだ。

 彼女の後ろからやってきて、


「なあに、少しの間だけ殊勝にしていればいいのさ。こんなもの、すぐ収まるから。いいか、発言の撤回とか謝罪はしてはいけないよ。その意味では君の事務所のコメントはなかなかよくできている。あれでいいんだ。いいか、あなたの後ろには味方がたくさんいる。これからもはっきりものを言うことが大事だ。君にはしかるべき働きを期待しているからね」


と肩をたたいて立ち去る男の姿が見えるような気がする。


 アドバルーン?観測気球?の手法だ。少しずつ免疫をつくっていく。そのうち、それもありかな?という人が増えてくる。問題は対象化されてしまい、新たなシステムの基盤が揺らいでいく。
 

 ゆめゆめこんな手法に騙されてはなるまい。

 

「同性愛は趣味みたいなもの」という谷川議員の発言も、単なるあさはか、短慮男の発言というより、どこかにLGBTの人たちを軽く見る、異形視する民衆の無意識に手を突っ込んでかき回す役割を演じているように見える。

 

 

 

 文科省汚職が止まらない。次官までが取り調べを受ける。もてなす側は月に600万円も使ったという。組織ぐるみということだ。官僚のプライドなど微塵も感じられない。集配係?いえいえ収賄係。

 贈賄先の東京医科大は女子を一律減点していたという。本来女子の方が得点が高いにもかかわらず、女子は医師となっても「離職率が高い」ので、それを回避するためにとった措置だという。女子の離職率が高いのはなぜかという問題を問わずに、入り口を狭めれば全体の離職率が下がるだろうという浅慮。女子にはいい迷惑だ。先に一律減点だよ!っていうのなら・・・、だれも受けないか。


 医師の長時間労働が問題になっても、働き方改革は進まない。無定量の超過勤務に残業代も請求出来ない医師が多くいるのが現実だ。その中で女性はせっかく医師となっても、産む性であり、育てる性とならざるを得ない状況の中で離職率が上がってしまうのは必然であるし、それはまさに政治の問題。なのにそれを大学の入り口で操作しようとするやり方は、問題を隠蔽し本質から目をそらさせる悪弊しか産み出さない。裏口入学に手を染め、女子の入口を狭める。「大学を守る」の意味が違いすぎる。


 それにしても、あちこちの強面のおっさんたちのやりたい放題ぶりはどうしたことか。特にスポーツがらみのおっさんたちはひどい。大相撲、日大アメフト、女子レスリング、日本ボクシング連盟・・・。おっさんたちはみな同じような雰囲気をまとっている。

f:id:keisuke42001:20180803153623j:plain

凄いツーショットだ。(写真はネットから)


 今日テレビを見ていて、ついひとりで爆笑してしまった。件の日本ボクシング連盟の山根会長の携帯の呼び出し音が「ゴッドファーザーのテーマ」だった。たちの悪いテレビのおふざけかと思ったら本当だった。 

 白い背広に白いマフラーの写真が出ていたけれど、勘違いも甚だしい。

 

 暑苦しいことこの上ない毎日なのに、気候以上に暑苦しいおっさんたちの所業だ。
そうして、いつだって選手や学生が嫌な思いをするのだが、おっさんたちの跳梁批判をその日暮らしのワイドショーに任せないで、学生や選手がもっと表に出て批判ができないものか。当事者性ということならば、当の学生や選手が自ら調査委員会を組織してもいいと思うのだ。

 というのも、私はどうもあの「第三者委員会」というのが信用しきれないのだ。いじめ問題でもそうだが、第三者とは名ばかりの第二者に近いものも少なくない。

 学識経験者や弁護士が常に公平公正とは限らない。横浜では福島からの避難者いじめ事件の第三者委員会に元教育委員会の役人がちゃっかり大学教授という肩書で入っていた。第三者って簡単にはなれない。


 日本全国、実はいたるところにミニ田中やミニ山根、ミニ内田がいると思う。テレビを見ながら、ひどいもんだといいながら、自分も気がつけばミニ○○をつくっている一員になっていないとも限らない。言いたいことが言えない、そういう状況があるのなら、ミニがそのまま大きくなっていく可能性が高いということだ。

 

 老人のくりごとになってしまった。今日は、映画『パティ・ケイクS』と『女は二度決断する』に触れようと思ったのだが。

 

 

f:id:keisuke42001:20180803154540j:plain

春に訪れた宇都宮・大谷資料館:大谷石採掘場のできた巨大地下空間、少し涼しくなりませんか

 

 


 

いい呑み会は酒が次の日まで残らなくていい。心地よく酔ったあとに酒もいっしょに発散してしまうから。

 去年の暮れに、辻原登の『鸚鵡の籠』を読んだ。ちょっと気にかかっていたので2013年の『冬の旅』を図書館から借りて読んだ。『冬の旅』というと、立原正秋の同じタイトルの小説を思い浮かべるが、あれは1973年。いい小説だったという記憶がある。40年の懸隔。森進一の『冬の旅』も1973年だそうだ。こちらは阿久悠


 辻原登の『冬の旅』。阪神大震災をはさんで一人の男の生々流転が描かれる。転落の人生。さまざまに絡み合うそれぞれの人生。登場人物にしっかり凹凸が見えて惹きこまれた。

 

ついでに借りた松尾スズキの『東京夫婦』、「GINZA」(マガジンハウス)という雑誌に連載したエッセイをまとめたもの。へそのごままでエッセイの材料にしてしまう(比喩です)下品さと率直さ。かなり面白い。ほとんど毎回、最後がうまく落ちていないところがいい。

 

 先週、旧知の先輩とその知り合いの女性と酒席をともにした。話の中で、その女性が熊本市議会の緒方ゆうかさんと知り合いであることがわかった。国連で働いていた緒方さんとイエメンで一緒になり、それ以来親交を続けているとのことだった。

 

 緒方さんと言えば、昨年秋、熊本市議会に赤ちゃんを連れて出席、大きな話題になった方。「子育て中の女性でも議会で活躍できる市議会であってほしい」という思いから、議会事務局と交渉を続けてきた結果の実力行使。

 授業でこのこと扱ったんですよ、と私。ええ?じゃあ資料送ってください、緒方さんにも送りますから、ということに。

 

 緒方さんの赤ちゃんを連れての議会入場が11月22日。授業がすぐの28日だったので、新聞記事を読んで感想を学生に書いてもらった。

 ここで授業というのは某大学の文理学部(と書けば、今、話題の大学ということがわかるが)の授業。教職実践演習といって、教員免許を取得する学生の4年次の必修科目。設定されて10年にもならないかなり新しい科目。半期の単位認定なので、9月から1月まで15回の授業を受け持っている。20名ほど。今年で3年目になる。
 

 その時々の旬な話題を選んで感想を書いてもらうのだが、いつもは男女の違いはさほどでもないのだが、この時はかなりはっきりとした違いが出た。今時の学生がこういう問題にどんなふうに反応するか、記録があるので、お時間のある方は目を通してみてほしい。

         

        「議場に赤ちゃん」を読んで考えたこと
                    

                (教職実践演習第10講) 2017/11/28記入

 

太字が学生の意見。その下のコメントは私。


女性が議場に子どもを連れていくのには賛成だが、事前に通告もなく強行するのは問  題である。子どもを理由にするのではなく、最大限他の議員に配慮すべきだと思った。 

 なぜ彼女は強行したのだろうか、とは考えませんか?「他の議員への配慮」と言いますが、他の議員は彼女に何か配慮してくれたのでしょうか。いちばんの問題は「強行したこと」なのでしょうか。


確かに静粛な審議の場に乳児を連れて入ることは適切ではないと思う。だが現在で は、専業主婦の割合が低下していて共働きしている家庭が大半。時代に合わせて見つめなおすべきだと考えた。T君の意見を聞いて、職業を変えてみて考えてみたらさすがに無しだなと思った。

 議会というものを無前提に「静粛な審議の場」としていますが、あなたは議会というものを実際に見 たことがありますか?居眠りしている人、スマホをいじっている人、ヤジに熱心な人・・・。もちろんまじめに議論しようとしている人もいますが、その中で緒方議員は不真面目な人でしょうか。自分の中の「常識」となっていることを疑ってみることも大事です。


緒方さんの主張は理解できるが、急にやることではないと思う。たしかに、今までと同じやり方では議論が進まないのも十分に理解できるところだが・・・。いちばんの問題はその市議会の在り方になるのではないか。男女平等のきっかけの一つとなるか、それでも厳正な市議会として名を通すか。今後の動向が気になるところである。

 どうもあまりに他人事で評論家的な論評ではないでしょうか。子どもの問題は女性だけの問題ではありません。これからのあなたの問題でもあるのでは。「・・・理解できるが、不適切」という意見には、自分の立場を忘れている鈍感さを感じますが、どうでしょうか。いちばんの問題は「市議会の在り方」ではなく、私やあなたを含めた「男の在り方」ではないですか?


たしかに職場で子どもの、面倒を見ることも許される社会をめざしていくべきだと思うが、議会という厳粛な場の規則はしっかり守っていかねばならない。こういうことを二度三度繰り返されるようならば、端から規則なんていらなかったことになると思われる。なので、こういった育児をしている議員に最低限の配慮ができるように働きかけないといけない。

 「職場で子どもの面倒見ることが許される社会」とありますが、それは「許される、許されない」という問題なのですか?誰が許しを請い、だれが許すのですか。そのどこに男としてのあなたはいるのですか?「許す許される」社会と「厳粛な議会」を比べて、あなたは厳粛な場=議会を優先させていますね。実際に厳粛な議会を見たことがあるのですか?議会は厳粛であることより市民の思いが伝わる場でなければならないのではないですか。あなたに思い込みはありませんか?「女性議員が子どもを産む」ということが今までの日本では想定されていなかったから、子どもは「厳粛さを侵す」ということになってしまうのでしょう?「最低限の配慮」とありますが、「配慮」ですか。誰が誰に配慮するのですか。厳しいようですが、男社会を前提とした「上から目線」ではありませんか?


女性の仕事と育児の両立がなされる環境の整備が遅れていることが、ひとりの勇気ある議員によって明るみに出た結果であると思う。この問題の是非をすぐに判断することは難しいが、今後さらに活発な議論が展開されることを期待したい。私たちも教育に従事していく者の立場として考えなければならないと思う。

 「是非の判断」なんかより、あなたは彼女に共感しているのですか?それとも批判的なのですか?「活発な議論を期待したい」なんて、自分を蚊帳の外に置くあまりに他人事な姿勢です。子どもの問題は女性だけの問題ではありません。半分は男の問題。なのに男はいつもどこか大所高所から常識を振りかざし、逃げている。私にもそういうところ、あります。そういうところをしっかり見つめなおさないと、こういう問題の本質は見えてこないと思います。


一般企業の会議の場や、中高や大学の教員が授業に自分の子どもを連れていくのは是か非かという問題に置き換えれば、話は明確になるのかと思います。職場に託児所(またはそれに代わる場所)を設置するように動くべきでは。

 授乳を別にすれば、男が職場に赤ちゃんを連れていくことも想定されます。日本ではまだ認可されていませんが、乳児用液体ミルクが日本で普及すれば、なおさらです。この問題は働きながら子育てができるように保育園をきちんとつくってください、という問題とつながっています。一億総活躍とか女性が輝けるとか、そういうキャッチフレーズなどより、安心して子どもをあずけられる保育園をどう保障するか、保育士の給料の安さ、労働環境の悪さ、保育園を近隣につくるというと反対する地域、それらを克服していくのが政治本来の仕事。でも動きが鈍いのは見ての通り。そんな時に「日本、死ね」という発言や今度の緒方さんの行動がどんな意味をもつのか、産まない性としての男が自分の問題として考えることが必要なのでは。


他の国と比べることが良いことだとは思わないが、子育てであったり学校に対する理解が日本はあまりないように思える。学校の騒音、公共の場での赤ちゃんの泣き声など解決策がないからそうなっているのだ。むしろ自然に育てるべきだし、シニア世代の良く云う日本人の我慢することの美学をなぜこの場合にはできないのか、疑問である。

 やっぱり評論家的。あなたが好きになった女性とともに子どもを授かったとしたら、その時に預ける場所もなく二人で途方に暮れることがあったとしたら・・・。そこから考えないと、いいと年したおっさんたちの飲み屋談議レベルになってしまいます。あなたに付き合っている人がいるならば意見を聞いてみるといいと思います。


以前友人と話したことがあったけど、今の日本の社会だと子どもを産むタイミングがない、という話になった。大学出て、就職して慣れるまで3年ほど、そのあとは自分のやりたいこと、仕事の楽しさが分かり、同期との争いを含め、子どもを産むタイミングがない。産んでも育児のせいにするなとか周りの仕事を取られて、居場所がない。なんて多くあり、産めないのに少子化やらなんやらで対策しようとする政府。まずは、職場の環境から変えるべきだと考える。

 私の若い友人の男性の中には、育休を取り、それが終わると育児短時間勤務を取って子育てをしている人が二人います。二人とも子どもが多いので、妻と交代でそういうシステムを使っています。すると、男でも「こういう働き方もいいかな」と考えるそうです。つまり、会社や学校の競争社会、男社会の中で家庭を顧みずに生きていくという生活より、仕事もそこそこにやり、子育てもそれなりにやる、その充実感っていいものだ、戻りたくないな、と考えるとのこと。システムが人の思考も変えることがあります。私にとっては男女混合名簿がそうでした。混合にしてから期末テストなどで、それまで当たり前だった男女別の平均点などがどれだけばかばかしいものかと考えるようになりました。分けているとその違いの方が先に立ってしまい、発想もそれをもとにしてしまいがちです。これに似たことは随所にありますよね。


確か22日の議会の際、別の女性市議が暴言・パワハラ問題で世間を騒がせている真っただ中で姿を現したため、マスコミが詰めかけていたと思う。その一件をマスコミを利用してあえて緒方市議が赤ちゃんを連れて入るパフォーマンスをしたのだと思う。とても勇気のある、そしてチャンスを逃さない、政治力のある有能な市議だと私は彼女を評価したい。

「政治力のある有能な市議」ととらえる視点は新鮮です。同時にそれが計算された「戦術」のように見えながら、実はもっとエモーショナルな彼女の子どもへの思いから始まっていることも事実ではないでしょうか。またそれがなければ、戦術至上主義に陥ってしまい、子どもは置き去りにされてしまいます。それでは元も子もありません。ところで「暴言パワハラ市議」はどうなったんでしょうね。3回も議員辞職勧告決議がでているのに「これから小さい声で話します」とコメントしていました。もちろんそういう問題ではないのに。


議会事務に訴えてきながらも前向きな回答が得られなかったという状況があるので、処罰を受けても仕方がないのではないかと正直思うが、どうしてこのくらいのことが融通がきかないのだろうかと思ってしまう。小さな子供をもつ親がこんな肩身の狭い思いをしなければならない状況が政治の場ですらも起こっているのだから、そろそろ世の中も保育事業の充実や職場環境の改善に努めなければならないのだろう。

 緒方議員に対して熊本市議会は「厳重注意」を決めたそうです。マスコミの報道が効いたと思います。赤ちゃんは電車の中でも泣きます。時と場合など考えてくれないのが赤ん坊です。泣くのが仕事、なんですね。議員も仕事、同じように仕事をやっている者同士、うまく折り合いをつけていくのが柔軟な社会だと思います。政治家はある意味、自分をさらけ出して人々のために働くわけですから、なおさらそうした柔軟さ、斬新さを求めてほしいなと思います。


以前から乳児を連れての本会議出席を求めたにもかかわらず、前向きな回答が得られなかった。それを受け、周りからの批判も承知のもとでマスコミに取り上げてもらうための行動のように思えた。ルールは守らなければならないが、そもそも女性が働きにくい環境に問題がある。

 どうして男子学生と女子学生でこれほどこの出来事を捉える視点が違うのでしょうか。男子諸君、怒らないで読んでね。傾向として男子は他人事、バランス感覚で受け止め、女子の方は緒方議員の心情に寄り添っているように感じられます。


「働きたくても子どもがいるから働けない」という点から言えば、緒方市議の行動は問題解決の一歩となったのではないかと思う。家庭と仕事をはっきりと区切り、分けて考えることはできないように感じる。一人の人間として、その生活の中に家庭と仕事があるのだから、両方が共存できるようにしていかなければいけないと考えた。

 「緒方市議の行動は問題解決の一歩となったのではないか」という発想は男子諸君の方にはありませんでした。社会常識を守るべき、という視点の方が「問題提起」より強いように感じます。問題はなぜそうなっているか、そうなってしまうか、です。男女平等という近代の発想だけでは解けない問題がそこにはあるようです。社会的に平等であることを確認するためにこそ、男女がもっているさまざまな面での「違い」について考えることが大事だと私は思います。

 

以下はその時のちょっとしたまとめ。

12月になりました。穏やかな日が続いていますが、日ごとに気温が下がっていくようです。いよいよ冬到来、大学生最後の冬、でしょうか。今年の授業もあと3回。1月には授業は1回しかありません。

 さて前回、熊本市議会の赤ちゃんを連れての議場に入った緒方ゆうかさんの記事について意見を書いてもらいました。資料㊱にまとめました。男子学生は社会問題の一つとして客観的に論評している傾向が強く、それに対して女子学生の方は、「産む性」であることが意識されていて、緒方さんの行為をより自分に引き付けて考え、論評している人が多かったように思いました。男女は基本的に平等という概念でくくられますが、しかしある出来事をフィルターとして通すと、明らかな違いがその思考の中に出ます。それは生物学的な違いにとどまらず、社会的に形成されてきた環境的要因によるものが大きいと思います。今回そんなことを強く感じました。一人ひとりの意見に対して、今回もコメントを付しました。ちょっとストレートで厳しい言い方が多いかもしれませんが、私の率直な思いなので読んでみてください。コメントしながら、自分も若いころ、諸君と同じように考えていたことがあったなと思いました。だからちょっと厳しいと思われるコメントは、諸君への批判だけでなく、そのまま今につながる私自身に向けられたものでもあると思ってください。昨日の東京新聞に緒方さんの記事が掲載されていましたので、これも資料として配付します。彼女の思いや周辺の事情などがよく整理されていると思います。資料㊲。

 

 酒席となったお店は、貸し切り状態。近くの女子大の留学生の送別会だそうで、店内に若い女性の笑い声が響く中、3人は埒もない話に興じている。団体さんが引けたあとはお店のマスターが入って日本酒談議に。こういう呑み会は酒が次の日まで残らなくていい。心地よく酔ったあとに酒もいっしょに発散してしまうから。

 

f:id:keisuke42001:20180802093306j:plain

ようやく完成。つれあいが丹精を込めて作った梅干し,18㎏、500個。あちこちにおすそ分け。

写真は、私のも使ってと長女。技量にかなりの差を感じます。

 

この国は、戦争をしないで済むのならどんな邪悪なものでも使わせてもらいましょうと、どれほどの譲歩を続けてきたか。それはいびつな形で常態化し、この国の独自の?「平和論」を支えてきたのではないか。

 『ウインストン・チャーチルヒトラーから世界を救った男~』(2017年・イギリス・原題:Darkest Hour・125分・監督ジョー・ライト・主演ゲイリー・オールドマン


 イギリスでの封切りが2018年1月12日。日本の公開が3月30日、私がみたのが7月25日。何かと話題の多かった映画だが、全編、長さを微塵も感じさせない緊張感に満ちた素晴らしい映画だった。チャーチルを演じたゲイリー・オールドマンの写真とポスターのチャーチルの違いに驚いたが、癇の強い大酒飲みの老人の自己顕示と孤独の演技は、メイクによって際立った素晴らしいものだった。

 映画は1940年、ドイツのすさまじい進撃によって連合国軍が北フランスの町ダンケルクの浜辺に押し込められたところから、歴史的撤退戦を戦う1か月間のイギリス政府の動きを描いたもの。同じ年につくられた『ダンケルク』(2017年・アメリカ・監督クリストファー・ノーラン)を3月にアウシュヴィッツからの帰りに機上でみていたので、二つの映画が重なった。

 チャーチルヒトラーに対して徹底抗戦を叫び講和派と対立し孤立するが、その1か月間の懊悩が特異な言動も含めてじっくりと描かれる。ほとんどのシーンにでづっぱりのチャーチルに惹きつけられた。地下鉄に乗って国民と対話するシーンは秀逸である。

f:id:keisuke42001:20180730171130j:plain

 

 一方、映画を楽しみながら私の頭に浮かんでは消え、消えては浮かんだのは、「この映画を日本人はどう見るだろうか」ということだった。

 中学の教員として、長い間ヒロシマ修学旅行という仕事に取り組んできたが、最後までなじめなかったのは「平和教育」「平和学習」という言葉だった。

 広島にある平和資料館の正式名称は、広島平和記念資料館である。もちろん原爆資料館とも称されることもあるが。長崎の資料館はそのまま長崎原爆資料館である。この違いは何だ?といつも考えてきた。8月6日と8月9日、3日おいて開催される広島平和記念式典、これに対し長崎は、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典、若干ニュアンスが違う。市長の式辞はもっと違う。しかしやはり「平和」は欠かせない。万人の願いだから、ということだけでは納得ができないで来た。

 

「平和」を前面に出しながら、実は戦争のことを考え学ぶのが平和学習の中身なのだが、いつも戦争は「平和」と言い換えられた。平和学習のリーダーたちは平和委員だし、集会は平和の集いだ。私にはどこかまやかしの臭いが感じられた。

 私があえて使ってきたのは、変哲のない「事前学習」ということば。「平和」の代わりに「事前」を使う。面白味も何もないが、これ以上でも以下でもない学習の実態をそのまま表している。「戦争学習」とまでは言えなかった。

 「平和」が強調されるのは、「戦争」が絶対悪として忌避される思考が、この国では強いからだと思ってきた。

 被爆者の語り部の方のお話の中には、時として「いじめ」が出てくる。
「戦争は国と国の間のいじめだ。学校でいじめをやっていてなにが平和学習だ。身の周りのいじめをなくすことが戦争をなくすことにつながるんだ」。

 私は、戦争といじめは別のものだと考えている。いじめをなくせば戦争がなくなるとも思わない。それより子どもの世界だけの「いじめ撲滅」という発想の方が、子どもの生を考えるとき、ひどく現実味のないものに感じられる。撲滅よりも実体を見定めること。その意味でいじめと差別はかなり似ている。差別がもとにいじめは起こる。
差別やいじめは、子どもの社会よりも大人の社会にいくらでも散見できる。そのことを隠さずに、しっかり認識できるようになることが先決だ。大人も、教員も。だから学校では撲滅より出来得る限りの事実の認識が優先されるべきだと考えてきた。

 戦争についてはどうか。戦争はすべて絶対悪として否定されるべきものか。

 チャーチルは戦争を否定せず、侵略者ヒトラーを徹底的に否定した。そして戦う方を選び政治指導者として堂々と主張し、国民を扇動し、支持を得た。その演説は映画の中でも出色のシーンである。

 大日本帝国に侵略された人々は戦争を否定しただろうか。平和を求めながら戦わざるを得なかった人々、あえて戦おうとした人々は、はっきりと日本をヒロヒトを東条や日本軍を否定し憎んだのだではないか。

 

伊藤剛さんという方の著書『なぜ戦争は伝わりやすく平和は伝わりにくいのか』(2015年・光文社新書)の中に、藤原帰一さんの『戦争を記憶する』(2001年・講談社新書)が引用されている。ここでは広島の平和記念資料館とアメリカのホロコースト記念館を比較して、「戦争の価値観」が全く違う方向を向いていることが指摘されている。この本、読んだおぼえがあるのだが、手もとに見当たらない。伊藤剛さんが引用した部分を孫引きしておきたい。重要な指摘だと思う。

 

 《広島の記念館は、何よりも核兵器の廃絶を訴えている。平和運動で用いられる言葉を使えば、核兵器は「絶対悪」とされ、その延長上には、戦争そのものを絶対悪として捉える考え方がある。(中略)
 戦争を絶対悪とする場合、だれが戦争を戦うかによって正しいか間違っているかが決まることはない。戦争そのものが悪なのだから、戦う主体によっては戦争が正しくなるというはずもない。また、その処方箋も、侵略戦争を起こす政府を解体することではなく、戦争という行為の追放と、それを可能とする武器の追放に向けられる。(中略)
他方、ホロコースト経験の教えは、絶対悪を前にしたときは、その悪に踏みにじられる犠牲者を見殺しにせずに、立ち上がらなければならない、という教えである。(中略)
 後者は、間違っても絶対平和のメッセージではない。ナチスによる迫害が続けられていることを知りながら立ち上がろうとせず、犠牲者たちを見殺しにした諸国の行動は正しかったのか。暴力への批判に加え、暴力を放置した責任もここでは問われている。》

 

 伊藤剛さんは、日本では「70年間、「平和を求めますか?」「戦争に反対ですか?」と常に問われ続けてきたために、私たち日本人は迷うことなく「イエス」と答えることができていた。・・・つまり、日本と国際社会とでは、「絶対悪の対象」が違うということだ。日本はその対象が「戦争」自体を指し、国際社会では「平和を脅かす存在」を意味しているのである。」と言う。

 映画『ウインストン・チャーチルヒトラーから世界を救った男~』を見ていると、このことがよくわかる。逆に、70年間のこの国の平和が、何によって支えられてきたのか振り返らざるを得ない。立っている者は親でも使えの俚諺のように、どんな邪悪なものでも戦争をしないで済むのなら使わせてもらいましょうと、どれほどの譲歩を続けてきたか。それはいびつな形で常態化し、この国の独自の?「平和論」を支えてきたのではないか。

 

 戦争を学ぶこと、戦争を管理すること、何によって戦争が起こり、終わらせることができるか、正しい絶対的平和は存在するのか、学ぶべき「戦争」は、残念ながら現在も無数にある。

 

この日、2本目にみたのは『29歳問題』(2017年・香港・原題:29+1 ・111分・監督キーレン・パン)。あまりピンとこなかった。

 

f:id:keisuke42001:20180730171538j:plain

土用は過ぎてしまいましたが。

今回のことはみんなが優しくなれば解決することじゃないんです。優しい気持ちになれる時も、そうじゃない時もあるから、だから私たちに必要なのは「制度」なんです。「ルール」なんです。

    前回,自民党杉田水脈議員の発言に対して触れた。

 7月27日、大規模な抗議行動が行われたという。自民党本部前に5000人の人たちが集まった。個人のtwitterによるよびかけ。マスコミの反応は鈍い。


 二階自民党幹事長は「人生観の問題」として杉田議員をかばったが、それに先んじて「当事者の方が社会、職場、学校でつらい思いや不利益を被ることがないよう、多様性を受け入れる社会の実現を図ることが大事だ」とまっとうなことを言っている。まあ、建前的ではあるが。 

 問題はそれが「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない」と断じた杉田発言とどう整合するのかということだ。理屈にどれほどの懸隔があっても「人生観の問題」なら中身は問わないということか。それではかばうことにもなっていないのではないか。これは、もう組織の対応として体をなしていないと思う。個人的趣味、人の好悪を持ち込むなと言われても仕方ない。当然のことだが、自民党内部からも異論が噴出しているようだ。

 組織としての最低限の公正さ、潔癖さのようなものをもっていなければ、党も政府も担うのは難しい。いやいや国民もその程度だから支持率そこそこでやっていられるんですよと、言われれば返す言葉もないが。 

 LGBTに限らず、少数者の側に立ってものを見ることが大事だと思ってきた。アナーキーかもしれないし、けっして生産的ではないが。
 

 抗議集会の中での林夏生さん(LGBT法連合会共同代表)という方のスピーチがネットで起こされていたので、拝借して載せておく。響くものがあった。


 

 絶対今日は来なきゃいけないと思ったんです。今回私たちは傷つきました。悲しみました。 
 私は大学で教えています。その中で性の多様性の話をようやくこの3年間始めることが出来ました。そしたら、大学生が次々に言うんです。

 先生、どうしてこんな大事なことを小学校、中学校の時に教えてくれなかったんですか?もしそれを知っていたら、酷く虐められていた自分の友達を助けてあげることが出来たのに。もしそれを知っていたら、自ら命を絶ったあの友達を助けることが出来たかもしれないのに。

 杉田議員、あなたご存知ですよね。2015年の動画の中で「性的マイノリティの自殺率は6倍だ」って、あなた、嗤いながら言ってました。あれを見た時に背筋が凍りました。一体どれだけたくさんの命を見送れば、世の中は変わってくれるんだろう。ずっとずっと辛かった。

 差別の言葉がなんでダメなのか、それはその時耳に刺さるだけじゃないんです。その言葉はその言葉に触れた人の心の中にずっと残るんです。「あなたは必要とされてない」ってその一言、それが寝ても覚めて繰り返されてしまうんです。

 わたしがそうでした。古い町の長男に生まれながら、親に孫の顔を見せることが出来ない僕なんて生まれてくるべきじゃなかったって…!物心付いた時からずっと思ってたんです。誰ですかこんなこと私に吹き込んだのは…。

 でも、こんなのは30年前のことだ、40年前のことだろうと思ってたら、違うんですよね。地方の町の中では、まだまだ昔の私と同じように自分を呪いながら生きている若い子たちがたくさんいるんです。

 私が懸命に中学校を回り、高校を回り、あなたはあなた、大切なあなたなんだからと言っても、あなたの言葉が(杉田議員の言葉が)それをみんな吹き飛ばしてしまう。こんなことは許せない。

f:id:keisuke42001:20180730150138j:plain


(ここでその場で聞いていた女性から「全部、話して!」と声がかかる)
(半ば応える形で)私、カミングアウトしてないんですよ。はい。それはどうしてでしょう? だって、カミングアウトなんかしたら私は生きて行けないって、ずっと自分の中で言い聞かせて来たからです!

 でも、この一週間、知りました。黙っているより、もっと怖い事が起きるんだって。だから、私はここで言います。


 私は、ゲイだ!(声援と拍手)それが、どうした!!(声援と拍手)
 私たちはここにいる!THIS IS PRIDE!!(シュプレヒコール)THIS IS PRIDE!!


 今回のことはみんなが優しくなれば解決することじゃないんです。優しい気持ちになれる時も、そうじゃない時もあるから、だから私たちに必要なのは「制度」なんです。「ルール」なんです。

 この世界の風向きが変わったって、誰も傷つけることのない世の中にするために、どうか一緒に「制度」を作って下さい!!

 私は大学の教壇でずっと学生たちに「政治を諦めるな」って言ってるんです。「諦めたくなるような政治」はどうか終わりにして下さい。
これからもいい世の中を一緒に作っていきましょう。ありがとうございました。

 

 

 

 

「LGBTは子どもを産まないから生産的でない」問題は、炎上することを分かってこういう発言を繰り返す手法だ。今回はそれに幹事長の放置発言。たちが悪い。

昨日7月25日に書いたものです。午前中に書いておいたのですが、深夜の酩酊帰宅のためチェックできず今になりました。


 深夜3時ごろに目が覚めて、テラスを全開にしてエアコンを消す。外の気温は部屋の中と変わらない26,7℃になっている。

 これからの1,2時間がぐっすりとよく眠れる。そんなことをこの2週間繰り返してきた。

 今日はテラスを開けてみたらむっとした空気。そのまま閉める。明け方までエアコンと扇風機はつけっぱなし。空はどんより曇り空。気温は猛暑日には至らずとの予報だが、湿気がかなりある。

 

 散歩の帰り道、無人販売所できゅうりとなすを買う。

 自宅から半径300mぐらいのところに5,6か所、小さなワゴンに野菜をおく無人販売所がある。いちばん小さい販売所は、門の前に椅子をおいてその上にお盆。ミニトマトとシシトウときゅうりぐらいしか載っていない。

 今日寄ったのは、その中でも規模がすこしだけ大きい。といっても三段ほどのワゴン。10種類ほどの野菜が載っている。集計の都合だろうか、それぞれの野菜ごとに代金入れが置いてある。細かい。

 ここは午前と午後でワゴンの向きが変わる。直接日が野菜に当たらないように午前中は西向きに午後は東向きに。

 いちばんよく利用するのは、歩いて30分、3㎞ほど離れた森さんというお宅。自宅の隣に立派な販売スペースがあって種類も多い。掃除なんかしている私たちの同世代? の奥さんともよく挨拶をする。ここは一つひとつの野菜が丁寧につくられていておいしい。

 近く小学校の前に何軒かの農家が集まって運営する大型販売所もあるのだが、最近はそこよりも「森さんち」を利用することが多い。大型販売所はまれにスーパーよりたかい時がある。

 販売所といえば、もうひとつすごいのが。そこは散歩の途中によく通る二畳ほどの小さな掘っ建て小屋。いつもがらんとしている。ここが実は近所で有名なキングof産直らしい。

 小屋の壁には「月水土の10時から販売します」とマジックで書きなぐった紙が貼っている。「らしい」というのは、噂に聞くだけで寄ったことがないからだ。その通りの散歩だと通過時間は7時ごろ。ただの掘立小屋状態。


 それでも一度くらいはと、この間10時過ぎに行ってみた。ところが人はまばら野菜もまばら。売り子のおじさん一人が暇そうにしている。

 きゅうりとミニトマトくらいしかなかったので、「10時からでしょう?他に品物はないの?」と尋ねると、「ダメだよ今頃来たんじゃ、8時ごろからクルマが並んじゃって」。
 10時になったと同時に売り切れているのだとか。
 

 以前、早朝に売りだしていたころは、深夜2時ごろから客がクルマを連ねていたとか。伝説の野菜作りの名人の販売所。きゅうりもミニトマトも味は間違いなく一級品。小さいころ食べた味がする。

 かと言って2時間も並んで買うほどの意欲は私たちにはないから、あれ以来行っていないのだが。

途中、雨がパラパラと。すぐに止んでしまった。地面を濡らすほどの量ではない。

f:id:keisuke42001:20180726095906j:plain

家に帰ると妻が必ず折り紙を折っています。死んだふりはしていません。

 

 

 昨日(24日)、岸田外務大臣緊急記者会見。なにかと思ったら、「私は自民党総裁選挙に出馬しません。安倍政権を支え続けます」だって。
「出る」というなら記者会見もいいけれど、「出ない」ためにの記者会見とは?

 
 これは「不出馬宣言」ではなく、「はむかいません=白旗=軍門に下ります宣言」だ。

 ほかの派閥が節操なく次々と安倍支持を表明する中、岸田率いる宏池会は、方針を出すのが遅かった。これ以上はっきりしないままだと、安倍さんのご機嫌を損ね、先々派閥のメンバーが冷や飯を食わされることになる。今となっては「出ない」と小さな声でいうだけでは格好がつかない。公衆の面前ではっきりと仰向けになっておなかを見せて抵抗の意思なしということを明らかにしなければ、それが昨日の記者会見。


 すべて自民党という政党の中の話。総裁が総理に直結するとはいっても、派閥同士のさや当てなど一有権者の私には興味がない。それより党内下克上の材料でもいいから、もりかけ徹底解決、賭場づくり法案撤回、議員定数6増粉砕、ぐらい叫ぶ派閥はないものか。寝首をかきあうほどの切磋琢磨?がこの政党の面白いところだったのに。
 

 もう一つ自民党の話題は、杉田水脈自民党議員の雑誌「新潮45」発言問題。

 

 今までも繰り返してきた女性差別LGBT差別発言に重ねて今度は「LGBTは子どもを産まないから生産的でない」と。そうしたらあちこちから批判の矢が飛んできた。でも自民党二階幹事長は党を代表して「人それぞれ人生観がある」として静観。

 親しい議員には「間違ったことを言っていないだから堂々としていればいいんだよ」と言われたとか。
 

 この杉田議員、次世代の党時代からこうした発言を繰り返し、安倍首相のおぼえめでたく懇請されて自民党に入ったのだとか。

 とは言え、これは今まで何度も繰り返されてきたおっさん議員たちのトンデモ発言と同じレベル。

 問題は、炎上することを分かってこういう発言を繰り返す手法だ。今回はそれに幹事長の放置発言。たちが悪い。

 自民党としてのLGBT問題に対する立場は、建前とはいえ、LGBTは生産的でない、支援の度が過ぎる、そんなに差別されているものか、といった視点はなく、不十分ではあるが差別があることを前提に「国民の性的指向性自認に対する理解の増進が前提であり、その是非を含めた慎重な検討」(2016年「性的指向性自認に関する特命委員会」(古屋圭司委員長)が示したLGBTなどの性的マイノリティへの差別解消に関する党の基本方針)が必要としている。
 また日本は、2008年の第63回国連総会で採択された性的指向等に関する宣言に署名、国連のLGBTコアグループの一員にもなっている。2008年と言えば、福田・麻生内閣、もちろん自民党が政権を担当している年である。
 こうした経過を考えれば、自民党内から杉田議員批判、処分論が出なければおかしいと思うのだが。少なくとも人生観の問題ではない。

 岸田問題も杉田問題も、つまるところ小選挙区制によるところが大きい。議員も劣化、政党も劣化、野党も劣化、その結果、政治が劣化するのは必然と言えば必然なのだが。

 

f:id:keisuke42001:20180726100111j:plain

元気で大ぶりな鰺。久しぶりに姿づくりに。首を右に傾けてみてください。