この人たちの政治的感度なんてこの程度のもの。政治、政治といっても最大の関心事は政局と我が事、人事(じんじ)だけで、ほかのことは他人事(ひとごと)だ。

西日本豪雨で亡くなった方は223名、行方不明の方もまだ14名いる。

   大変な豪雨になるだろうという予報が出た7月5日夜、“赤坂自民亭”というところで、安倍首相も出席して酒盛りが繰り広げられていたという。

   親切にも官房副長官ツイッターでその様子を国民に知らせてくれた。安倍首相の初めての出席という事態に、副長官、舞い上がってしまったのだろうか。

   次期総裁候補の岸田外務大臣もいて、「獺祭」(山口)と「賀茂鶴」(広島)どっちを飲む?といったつまらない冗談に盛り上がっていたのだろう。カワウソとカモだかツルが集まってのさや当て、なんとも滑稽、且つ醜悪だ。

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ぼーっと生きてんじゃねえーよとチコちゃんに言われるよ

 

   この人たちの政治的感度なんてこの程度のもの。政治、政治といっても最大の関心事は政局と我が事、人事(じんじ)だけで、ほかのことは他人事(ひとごと)だ。

   赤坂自民亭の“女将”は、上川法務大臣だという。オウムの7人の死刑囚の刑の執行の署名をしたあの人である。
   戦後最大規模の死刑執行の署名は7月3日。執行の6日までの3日間、この国でたった一人だけが与えられている権限を行使してどんな気持ちだったろうか、なんて心配はいらなかったようだ。

  報道によれば、5日夜、つまり執行前日、この法務大臣は自民亭で「万歳」の発声を担当したのだとか。一人で長い夜を過ごすのがつらかったのだろうか。それとも署名したこと、忘れてた?

   2001年、えひめ丸の事故の時、ゴルフ場で報告を受けた首相森喜朗は、ラウンドをやめなかった。一斉に激しい批判が沸き起こるとこれに抗するのは難しい。弁明すればするほどアリ地獄に陥る。森は辞任した。
安倍首相はどうか。

「発災以来、政府として一丸となって取り組んできた」

と述べた。これで一件落着である。おいおい、そんなんで許しちゃっていいのかい?

 傍からどう見えるか?いやいや“我が事”からしか物事をみないのがこの人の常套。かけももりもそうだった。

 自分の“人事”が最大の関心事の西村官房副長官は陳謝。

 すべて“他人事”の上川法務大臣は何も言わない。
 
 こういう人たちの下で、豪雨被害は広がり続け、オウム死刑囚らは刑を執行された。お手盛り極まりない議員定数6増法案や、IR法案はほとんどまともな議論なく通過した。力の論理、横暴は明らかで、品位を欠いた国会運営は歴史に残る。

 この政権の厚顔無恥を下支えしているのは誰だ?

 

 

 20日に千葉の長女のところへ二人で出かけた。孫のダンスの発表会があるという。

 猛暑の中、まだ同居して3か月のチワワを残していくのが心配だったが、エアコンの温度設定を少し高めにして、えさと水をしっかり用意、30時間後には必ず帰ってくるからなと声をかけて出かけた。

 21日の夕方帰宅。34時間後だ。
玄関のドアを開けると飛びついてくる。ああ、よかった、一安心。なのだが、エサは? と見ると、昨日二つの皿に盛ったエサがそのままの形で残っている。水は減っているようだが、エサには全く手がついていない。

 頭をなでて抱いてやると、猛烈な勢いでエサを食べ始める。
 犬全般がこういう動物なのか、それともこの犬の特徴なのか。人間の4歳か5歳ほどの知恵があると言われているが、大きな荷物をたくさん持って出かけた私たちの姿が、不安な気持ちを増幅させてしまったのかもしれない。 

 犬を飼う、というのは簡単なことではないのだなと思った。

 

 21日夜は、横浜中華街で元同僚の退職を祝う会。3年間一緒に仕事をした女性、いろいろな仕事にともに取り組んだ方ゆえ、感慨深い。大病にもめげずに、任期満了の定年退職。心からお疲れ様という思い。だが、4月から再任用で同じ職場で働いているとのこと。今ではほとんどの退職者が再任用で働いている。

 2次会がひけて、中華街を出たのが23時半ごろ。南町田に帰り着いたときには久しぶりの午前様。

 

 22日朝、散歩の時間が必然的に1時間ほども繰り下がった。いつもの緑陰がうすくなり、気温は高い。汗が流れる。鳥の姿も見えない。

 午後から大和市シリウスでアラン・ギルバート指揮の東京都交響楽団のコンサート。先月小菅優のピアノを聴いた芸術文化ホールメインホールだ。天井が高く、奥行きも広いステージに隙間なく譜面台と椅子、いわゆる三管編成。 

 フルート、オーボエクラリネットファゴットの各2名に、派生楽器を併せて3名ずつになるので三管編成というらしい。オケ中央部に管楽器が集中しているがここが厚くなり、その分打楽器の人数や弦楽器の人数も増え、総勢90名ほどになる。第一ヴアイオリンは16名ほど。四管編成というのは聴いたことがないから、私が今まで聴いたオーケストラではこれが最大規模。

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 プログラムは、前半にドヴォルザーク交響曲第9番新世界より》、休憩をはさんでL・バーンスタインの《ウエスト・サイド・ストーリー》より「シンフォニック・ダンス」、最後にG・ガーシュインの『パリのアメリカ人』。

 全て初演はニューヨークでニューヨークフィルが行っている楽曲。8年間ニューヨークフィルで音楽監督を務めたアラン・ギルバートならではのプログラム。

 さて「新世界より」。耳に慣れた曲だが、生で聴くのは久しぶり。学校では国民楽派と習ったドヴォルザークだが、アメリカに職を得て1892年からの3年間、ニューヨークに移り住む。曲の説明には、新世界アメリカのインディアンの音楽や黒人霊歌との関連などが書かれているのだが。

 2楽章の下校の音楽?は有名だが、それ以上に3楽章4楽章の勇壮さに新世界アメリカへのドヴォルザークの思いを聴きとった若いころと違って、今聴くと、なんとも情感あふれる故郷ボヘミアチェコ)への思慕のほうが強く感じられる。スメタナの「我が祖国」に近いようにも思われた。

 それともう一つ、勝手な思い込みだと思うが、曲のあちこちにベートーベンの影響が強く感じられたこと。特に交響曲7番8番の雰囲気が時々浮かび上がってくるように感じられた。ブラームスが、ベートーベンの高い壁を超えようとしたように、ドヴォルザークもベートーベンの高い壁を意識していたのではないかと思った。

 休憩をはさんでの2曲、これはもう極上の音楽。バーンスタインガーシュインもこのアラン・ギルバートという指揮者の手にあっては、自由自在、奔放そのもの、やりたい放題の指揮に演奏家たちが共鳴している。オケの面々の表情にも、「新世界より」以上にからだもこころも指揮者にもっていかれちゃっているなあというふうに感じられた。

 堅苦しさなど微塵もないまさに自由なプレーヤーたち!終わったときには聴いている方も息が切れた。3曲を終えて数度のカーテンコール。なんとアンコールはやらない!最後のカーテンコールでアラン・ギルバードは両掌を合わせてほおにつけ、首を傾ける。もう十分やったからこれからひと眠り、ということか。会場はやんやの喝さいが続いたが、アンコールなしに不満は感じられなった。こんなことはめずらしい。

 指揮者が去り、会場の照明も明るくなり、演奏家たちが三々五々ステージから両袖にはけていくのだが、ここでも珍しい光景が。プロはたいてい、演奏が終われば何事もなかったように帰り支度を始めるものだが、違った。こういう言い方がいいのかどうかわからないが、みなアマチュア演奏家のように肩をたたき合い、笑顔で握手をして互いに祝福しているのだ。

 自分の中にあったもの、いやそれ以上のものを思わず引き出されてしまったよ、久しぶりに興奮した!なんて言っていたのかどうかは分からないが。
いいものを聴かせてもらった。

 

 夜、横浜西口。ルーマニアブカレストから一時帰国した友人Yさんを囲んで5人の宴。未知の国の話は面白い。今日の2次会は星乃珈琲。

 

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船橋市アンデルセン公園の「平和を呼ぶ像」(岡本太郎)7月21日

「二人を待ち受けるのは、ハッピーエンドさえ凌ぐ誰も見たことのないマジカルエンド」・・・映画『フロリダ・プロジェクト』タグラインはほとんど詐欺だ(笑)

    梁石日「Y氏の妄想録」(2010年)。好きな作家だが、読んでいなかったもの。図書館で借りてきた。面白くなかった。

 

 2018年上半期の芥川賞直木賞が決まった。芥川賞高橋弘希さんの「送り火」(文學界5月号)直木賞島本理生さんの『ファーストラヴ』(文芸春秋)に。北条裕子さんの「美しい顔」は入らなかった。


 この1か月、候補作で話題になったのは「美しい顔」だった。6月初めにブログを始めたのだが、ちょうどその頃に掲載誌群像5月号を偶然入手。読んだ時の衝撃が今だに残っている。当事者性ということにからめて書いた。


 あれから1か月余、この作品はいろいろな言われ方をした。毀誉褒貶。

 引用(盗用?)等についてはまだ決着をみていないが、私の結論はかわらない。

 若い書き手に新人賞を付与したのだから、その責任はすべて群像編集部、講談社にある。新人賞とならなければこの作品が日の目を見ることはなかったかもしれないし、もし単行本として出版されるとしてもこうした問題は、その書籍の編集者の責任となる。どこまで行っても書き手と編集者という関係は、本をつくる場合なくならないと思う。簡単に言うと、編集者は作家の「ケツをもつ」仕事なのだ。
 

 だから、初めは低姿勢だった講談社が、ネット上で全文掲載して信を問うといった姿勢に転換したことには疑問が残る。ネット掲載は読者として是だが、賞の責任者として基本的なミスがあったことを謙虚に反省する必要があると思う。

 北条氏自身が途中でコメントを出す必要があったのかどうかも疑問である。本人が「ごめんなさい」をしたので、留飲を下げたネット評論子もいたようだが、みんなで寄ってたかって・・・なんだかなあである。
 

 いきつくところ作品である。いろいろ周辺の雑多なものを取り除いて、作品そのものとしての「美しい顔」、それを読んでみること。エラい先生や評論家ではなく、普通の小説好きの生活人が読んでどうなのか。

 私などまさにそれだが、やはりこの作品は「いい」と思う。

 今朝、発表を見て「送り火」が掲載されている文學界5月号をネットで検索。「お取り扱いできません」になっている。

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 表紙を見ると「送り火」はもちろん、松尾スズキ青来有一の作品も載っている。ああ、こっちを買っておけばよかったと後悔。文學界3月号は、「岡崎京子大特集」。これはこれでおもしろかったが。

 松尾スズキの候補作「もう「はい」としか言えない」は、相変わらず達者な書きぶりで楽しく読んだが、素人目にはやや純文学的力の入りすぎの感あり、ちょっと難解、今一つだった。 

 まあ5月号はあとの祭りということで、2か月くらい経てば「送り火」は図書館で読めるかもしれない。
 

 今回の松尾の候補作でひとつ面白かったのは、登場人物の常連、脚本家の海馬五郎が今回は主人公なのだが、ひょんなことから彼の出身地が会津という設定になっていたこと。特別養護老人ホームに母親を置いているという設定だ。  

 これは、映画『ジヌよさらば~かむろば村へ』(2015年・121分・原作いがらしみきお)のロケが、会津で行われたことと関係しているのかもしれない。

 松尾はこの映画の監督を務めている。いがらしみきおの原作『かむろば村へ』(小学館①~④)は、彼の出身地宮城県を舞台にしているが、映画では舞台を会津地方にそっくり移して撮影している。私が18歳まで育った町や駅も映っている。方言もすべて会津弁である。

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 松尾も出演していて、阿部サダヲ松田龍平らが中心の、まさにスラプスティックシネマそのものなのだが、私には大好きないがらしワールドと松尾が合体して、そこそこの化学変化が起きているように見えておもしろかった。博多出身の松尾には、異郷の地会津がなにがしかの想像力を刺激する土地柄だったのかとも思う。今回の海馬五郎会津出身設定はそんなところからきているのかと思った。

 いがらしみきおと言えば、いま開催中の大相撲の中継に、いがらし作品に出てくる女性にそっくりの人が毎日画面に映りこんでくる。和服を着た端正な様子の妙齢の女性。毎日前から3,4列目の同じ席に坐って、日替わりの和服に身を包んでいる。

 「かむろば村」では、空からザリガニが降ってくる幻想的なシーンがあるのだが、周囲の空気から隔絶された高貴な雰囲気のただようこの女性を、うちでは”ザリガニおばさん”と命名して呼んでいる。

 

 

 

 猛暑、炎暑、酷暑、極暑、激暑、いろいろな言い方があるが、36℃ぐらいでは驚かなくなってしまった。

 天気予報では、気象予報士が40℃に届くかどうか、熱っぽく語っている。気象好きの人にはいつもと違うこんな年は楽しくて仕方がないのだろう。今日も「最高記録タイ39.8℃!」とうれしそう。オリンピックじゃないんだから。

 

 他にすることもないので、こんな暑い時は映画に限ると独り言ちて、午前中から本厚木映画ドットコムシネマへ。昨日のこと。

 

 『素敵にダイナマイトスキャンダル』(2018年・日本・131分・江本佑、前田敦子)『フロリダ・プロジェクト真夏の魔法』(2017年・アメリカ・112分・原題:THE FLORIDA PROJECT)の二本。間が3分ほど重なっているが、何とかなるだろう。年会費を払っているので、二本で1000円を払い、一番狭いSC2へ。

 入ってすぐに「寒い・・・」。暑熱の中を歩いてきて冷えたのか、ちょっとつらい。ロビーにおいてあるブランケットを取りに行く。こういうときに「歳をとったねえ」とつれあいは笑うのだが、今日は一人。気にしない。


 『素敵に・・・』は、昭和のアングラカルチャー、エロ雑誌などをけん引した末井昭さんの自伝本が原作。結核の母親が隣の息子との浮気がバレて、ダイナマイトで心中して亡くなるという出自を底流に、1960年代から主に昭和後期の時代に出版発禁を繰り返してきた、末井氏の生き方を描いている。

 昭和を知っている者には面白くないわけではない。ああ、そういえばこういう時代だった、こんな雑誌があった、ポカリスエットってこんな缶に入っていた、男はこんな髪形をしていた、ビニ本、ノーパン・・・。でも、正直映画としては面白くない。

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 母親のダイナマイト自殺という衝撃的な出来事が、末井氏のどこか自虐的でアナーキーな生き方の底にあることが示唆されるが、それがよくわかならない。伝わってこない。残念。

 

 『フロリダ・プロジェクト』、どうして“真夏の魔法”なんてよけいなサブタイトルをつけるのだろうか。この映画、ポスターとこの“真夏の魔法”というサブタイトルと、どちらも映画と思い切りすれ違っている。中身を正直に出せば客が入らないと配給会社が考えたか。

 ディズニーランドに隣接するフロリダのモーテルが舞台。一日30~45ドルのモーテルに住む母親と女の子が物語の中心。いつ宿無しになるかわからない貧困のすさまじさ、温かいフロリダ、観光地フロリダ、陽光の明るさと生活の貧困ぶりの対比がすごい。

 映画はドキュメンタリータッチのカメラの回し方、ドラマっぽさをあえて振り捨てて、BGMもほとんど入らない。5歳から7歳ぐらいの子どもたちの“悪がきっぷり”に、作り物でないリアリティがある。罵詈雑言もすごい。演出の力。

f:id:keisuke42001:20180719122817j:plain    このポスターだけ見ると、どんな映画かと。「二人を待ち受けるのは、ハッピーエンドさえ凌ぐ誰も見たことのないマジカルエンド」・・・「ハッピーエンドさえ」はないだろう。このタグライン、ほとんど詐欺。


 母親のめちゃくちゃぶりも、売春、詐欺、薬以上に、対人関係の不全ぶりが、ここまでかい? というぐらいすさまじい。湿気を感じる「万引き家族」とも違う。文化的基盤がそもそも違うのか。この映画をアメリカ人・・・と一言では言えないが、どう見るのだろうか。

 南国の海や夕日がとにかく美しいし、二人がスコールの中で踊り戯れるシーンなどもとってもよい、よいが、母も子もからっとしている分、そして周囲とつながれない分、みているのがつらくなる。コミュニケーション不全は、娘との間にはない。


 自己責任だとか育児放棄だとか虐待とかということばでこの母親を指弾はできるし、「そんなことしていないで、もっと前向きに」なんてアドバイスをしたくなるのだろうけれど、それよりも、人は人でこうして生きているという重さ(しんどさを外側から称揚するわけではないが)と、非難する側の薄っぺらさが見えてくる。そんなふうに人間はわかりやすくできないぜ、といったところ。

 最後のシーン、初めてBGMが大掛かりにかかる。二人の女の子がディズニーランドのシンデレラ城めがけて走っていく。ぐっとくるが、ちょっと無理があるなと私は思った。 

 モーテルの管理人ボビー役のウィリアム・J・デフォーが素晴らしい。こういう役者の表現、味というのはどこから出てくるのだろうか。女の子ムーニー役のブルックリン・キンバリーには「参った」というしかない。初めての演技だという。

 フロリダの美しい光景をバックに差し込まれる登場人物のモノローグ、特にボビーがいい。彼の人生の悔いや諦観に共感する。

 もう一度だけ最後に。アメリカ人の各層はこの映画、どんなふうにみるのだろうか。

私はみていてつらかった。時間が経つのを忘れた。★5つに近い。

 

f:id:keisuke42001:20180719123157j:plain今年はミニトマトの出来があまりよくない。これは去年のもの。といっても、毎日猫の額の庭で犬と戯れながら丹精込めているのはつれあいの方ですが。

 

マークコーラス、ohana、左座家、コーラスってほら、いろいろあっておもしろいものだから。

    たいてい深夜2時前後に目が覚める。エアコンはつけたままだから、からだが少し冷えている。トイレに立つ。1時間ほど横になったまま本を読む。

 松尾スズキ『私はテレビに出たかった』(2010)読了。面白かった。前作の登場人物を踏襲しながら、つくりがもっと複雑になっている。文章も格段に面白くなっている。

 昨日、Amazonで文学界3月号を注文してしまった。衝動買い。芥川賞2018年上半期の候補作松尾スズキの『もう「はい」としか言えない』が載っているからだ。

 今朝届いていた。今日中に読める。

 選考会はたしか明日。

 芥川賞

 「・・・おもに無名または新進作家の純文学短編作品を対象」

としているのに、無名どころかかなり有名で、かつ新進作家とはいえない松尾が候補に挙がっているのはどういうことなのだろう。門外漢にはよくわからない。

 それはそれとして、北条裕子『美しい顔』と併せて2作も発表前に候補作を読むなんて初めてのことだ。
 

 暑くならないうちに散歩と思っても、食事をしてからだと7時前になってしまう。
 百日紅の花が鮮やかなピンクに染まっている。

 数日前、体を寄せ合って動かなかった三羽のカモの子どもは、今週は親についてえさを摂っていたり並んで水面を進んだりしている。

 アオサギにカワウ、ツバメにムクドリ・・・。

 平日は散歩の人たちの中に通勤の人が混じる。自転車を止めてスマホ片手に太極拳の練習をしている人がいる。姿格好は勤め人、出勤途上のわずかな時間を趣味に費やす。えらいなと思う。

 仕事をしているころ、特に最後の10年ほどは、1時間弱の出勤時間の電車の中で、毎日のように「仕事やめている自分」を思っていたものだ。このまま降りずにずっと乗って行ってしまったらどうなるか、というのも。実際にやったことはなかったし、無断欠勤など38年間一度もしなかった。基本的に小心者なのである。

 やめてみていちばん解放されているなと感じるのは、午前中の外出。スーパーでも本屋でも図書館でも野菜の産直でもいい。ああ、自由だ、と思う。

午後になると解放感は薄れてくる。不思議なものだ。

 

 先週の日曜日、瀬谷区第29回音楽祭を聴きに行った。午後だったけれど。

 土日の二日間、瀬谷区の音楽愛好家が演奏を披露する。出演は小学生から90歳を超えるシルバーまで40団体と個人、幅広い年齢層にわたる。

 つれあいがマンションのコーラスサークル「マークコーラス」の一員で、去年からこの発表会に参加している。9人しか出ないコーラスで、今年は4小節のソロを歌うという。練習で歌うのを何度も聴いたので、行かないわけにはいかない。三ツ境瀬谷区公会堂まで出かけた。

 マークコーラスの発表曲は久保田早紀の『異邦人』を、凝った編曲で長いコーラスに仕立てられたもの、最後のところでソロ。何とか無事に歌い終えた。ほっとする。

 つれあいのコーラスの発表の前5団体ほど聴いたのだが、偶然、昨年と同じ団体の歌にゾクッとさせられた。

 混声合唱ohanaが歌う滝廉太郎の「花」と松下耕の「抱きしめる」。5人。男性2人女性3人。うち一人は小学3年生くらいの女の子。 

 力まず響きを大切にして歌おうとしているのが伝わってくる。こういうコーラスは聴いていて楽しい。2家族かなとも思える。男性の一人が指揮しながらベースを歌っていて、よく響く。2曲目で女の子がソロを歌う。コーラスに溶け込んでしっかり歌う。おまけなどではない。

 そういえば去年も聴いたんだったっけと思い出す。プログラムには「月2回日曜日、午前9時から11時海老名市文化会館で練習」とある。

 演奏を終えて客席に戻ってくる様子を見ていると、女の子は終わってほっとしていて、女性が肩を叩いてやっている。ベースの男性の横にちょこんと坐る。お父さんか。思わず「よかったよ」と声をかけたくなる。もちろんかけないけれど。


 youtubeで、熊本の「左座家(ぞうざけ)」という家族コーラスの演奏を聴くことができる。両親と子ども2人の4人が4パートを受け持って歌う。

f:id:keisuke42001:20180717101316j:plain左座家の4人

 2002年から活動を始めて2年前に「解散」したらしいが、youtubeではいつでも聴ける。かなりうまい。遺伝子が似ている分、声にもそれが表れてハーモニーがきれい。お父さんが県庁合唱団の指揮者で、4人でも、いや4人だからできるかなりレベルの高いコーラス。聴いていて楽しい。

 まだ小学生の二人を間にして歌う両親、数年たつと子どもたちは学生服に。10年以上たつと立派な大人のカルテット。ハーモニーが厚みを増していく。両親は少し太り、お父さんは髪が薄くなる。これは歌う家族の歴史。

 声も音楽性もどんどん進化し、たっぷりした豊かなものに。今これを書きながら聴いている小学生時代の「旅立ちの日に」学生服の「瑠璃色の地球」、かなりいい。鳥肌が立つ。

 お父さんのソロで始まる桑田佳祐TSUNAMI」もいい。「喝采」や「津軽海峡冬景色」に「ダニーボーイ」も。クラシックに拘らず「とりあえず歌ってみよう」がいいなと思う。

 

 Ohanaも続けていってほしいなと思う。5人でつくるコーラスの歴史。これはこれで夢がある。大編成、大音量のコーラスもいいものけれど、コーラスってほら、いろいろあっておもしろいものだから。

 

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イワシの梅干煮(画面を横にしたいのですが…)

『もしも人生に戦争が起こったら~ヒロシマを知るある夫婦の願い~』一人の被爆者の戦争と原爆、夫妻の戦後の痛苦の人生がここにある

 今朝の新聞で、是枝裕和さんがフランスの女優カトリーヌ・ドヌーヴを起用して新作をつくる準備を始めたことを知った。現在脚本執筆中だとか。楽しみである。


   カトリーヌ・ドヌーヴについては、2018年上半期映画寸評で『ルージュの手紙』(2017)に触れたが、癌を抱えながらエネルギッシュで奔放な老女を演じていて素晴らしかった。邦題は恋愛映画の雰囲気だが、原題はThe Midwife(助産師)。シングルマザーの助産師カトリーヌ・フロが演じるクレールと、血のつながらない母親ベアトリス(カトリーヌ・ドヌーヴ)の、互いにすれ違い、傷つけ、許し合うチリチリするような緊張感と情感豊かな演技が印象深かった。寸評でも触れたが、パリで助産師として働く等身大と思われる女性が描かれてことも好感がもてた。

   カトリーヌ・ドヌーヴの大胆で精細な演技は、映画評論ふうに言えば「老いてなお新境地を開拓」というふうな惹句になるのだろうが、『シェルブールの雨傘』(1964年)から50年以上を経て、堂々と老いの深さ豊かさを演じるこの老女優と、是枝監督との、それこそ「新境地」に期待したい。年齢のことを言っては何だが、彼女は1943年生まれ。今年75歳、私より10歳年上である。

 

 

 『もしも人生に戦争が起こったら~ヒロシマを知るある夫婦の願い~』(居森公照・いのちのことば社)という本をいただいた。
   先月この出版社から何度か電話があった。「居森さんの新著であなたのことに少し触れている。差し支えないだろうか」という問い合わせだった。


 公照さんは被爆者の語り部として活動された居森清子さんのおつれあい。15年前の2003年、私は偶然、新聞の県版で清子さんのことを知った。

   清子さんは、爆心直下の島外科から350㍍の本川国民学校被爆、6年生だった。校舎が、当時としては珍しい鉄筋の建物であったこと、ちょうど1階校舎の端の下駄箱付近にいたことから、奇跡的に一命をとりとめる。この距離で戦後を生き延びた人は皆無である。

   人が一瞬にして亡くなることは悲惨極まりないことだが、大惨事の中から生き延びることも、大変な労苦を背負うことになるものだ。その事情についてはぜひ本書を読んでいただきたいが、12歳の少女が69歳になるまで、その被爆体験を一切話してこなかったことからも、その辛苦のすさまじさが想像できる。

   2003年当時、私は中学校の教員としてヒロシマ修学旅行に取り組んで10年ほど。2校目、東鴨居中学校で2回目の修学旅行を前に事前学習に取り組んでいた。

   すぐに新聞社に連絡。朝日新聞の横浜支局だったが、まるで待っていたかのように連絡先を教えてくれた。感度のいい記者がいたのだ。いまなら個人情報云々でそうはいかない。

   居森さんのお宅は、横浜の下町。先般亡くなった落語家の桂歌丸の住まいの近くである。考えるより動くことというのが、それまでの10年間の事前学習の一つの教訓。次の日には、私は居森さんのお宅のリビングに坐っていた。

   1か月後に居森さんご夫妻が来校、小さなからだで原稿をもって椅子に坐ってのお話だった。これが、居森清子さんが語り部として初めて中学生にご自身の体験を話された会となった。 

   1974年以降、清子さんは原爆症放射線障害の諸症状に苦しみ、甲状腺膵臓、大腸(2回)、脳の髄膜とがんの手術を繰り返していた。私がお会いした時にはペインクリニックへも通院されていた。

  たくさんの中学生の前で話すことは大変な負担であるのに、それ以降清子さんは、私の次の赴任校もえぎ野中をはじめ、市内の中学校で長くお話を続けられた。

   講演直前に入院されて取りやめになることもあり、直後に入院されることもあった。

 中学生にとっては、清子さんのお話はもちろん大変な衝撃的なものであったが、それ以上に、いつも手を取り寄り添って歩く公照さんとの姿が印象強く、感想の中にはそのことに触れるものが多かったことを憶えている。

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いのちのことば社フォレストブックス 定価(本体1400円+税)

発刊日は2018年8月6日である。ネット上では予約受付中となっている。 

 

長い闘病ののち、2016年4月2日に清子さんは亡くなる。
語り部としての活動は10年に及んだ。

 

   教会で行われた告別式では、40年にわたって清子さんの原爆症の治療にあたってきた鎌田七男医師(元広島大学原爆放射能医学研究所所長、現広島大学名誉教授)の、清子さんを敬してやまない思いのこもった挨拶が印象的だった。

 司会はNHK広島支局時代から、居森さんご夫妻と親子のようにお付き合いを続けてきたアナウンサーの江崎史恵さんが担当した。

  清子さん死去の報は全国紙各紙で報じられたが、告別式は清子さんの遺志でマスコミの入らない小さなものに。私には、公照さんのあいさつも含めて忘れられない告別式となった。

  さきほど久しぶりに公照さんに電話をした。わずかに間をおいて「これはこれは、赤田先生」、声に力が感じられた。

「やっと清子の思いを形にすることにできました」。

 公照さんは清子さんの遺志を継いで、今でも中学生に清子さんの被爆体験を語り継いでいる。本書の中にも、今年3月、神奈川区の錦台中学の体育館で話された写真が載っている。
 

   たくさんの方にこの本を手に取ってほしいと思う。一人の被爆者の戦争と原爆、夫妻の戦後の痛苦の人生がここにあると思うからである。   

 公照さんは、今年83歳になる。

 

 

 

 

 

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今朝のらい

 

 

韓国映画『わたしたち 우리들』は、静より動、淡より濃、穏より激という韓国映画への印象は偏見なのかもしれないなあと思わされる

「わたしたち」(2015年・韓国・原題:「우리들」(わたしたち)「The World of Us」・94分)は、忘れられない映画である。ディテールは忘れかけているが、みて半年も経つのにまだなんとなくみたときの肌感覚が残っている。

 11歳の女の子たちの話である。

 映画の中に流れる韓国映画っぽくない何とも言えないゆったりとしたリズムと、子どもの表情を捉えるカメラがとにかくいいのだ。何度も何度も重ねられる主演のソンを演じるチェ・スインのアップは、驚くほど雄弁で想像力を刺激する。ソンの弟に至っては、小さな存在なのに映画全体を包み込む不思議な存在になっている。

 監督ユ・ガウンの子どもの世界を捉える視点は、『君はいい子』の呉美保、『万引き家族』の是枝裕和に通じるものがある。あたたかくて鋭い。

f:id:keisuke42001:20180715094953j:plain右側がソン、左側がジエ

 啓蒙的な映画ではない。知識や経験のない(少ない)子どもには独特の世界観があり、時間の流れがある。時にそれが破滅的な方向へ向かう時もあれば、融和的な方向へ向かうことも。親や社会の影響をまともに受けながらも、大人とは違う関係の結びつき、あり方を子どもは探る。残酷な子どもがいるのではない、子どもが残酷であることは、ある意味自然なことでもあるのだ。それは関係のありかたの一態様であり、だからいつも簡単に逆転することもある。
 

 韓国では、20年ほど前には「いじめ」という言葉がそのまま使われていた時代があったという。現在は「ワンタ(완타)」と呼ばれるらしいが、同じ東アジアにあって集団を優先する発想を抱えもってきた民族として、いじめはこの国でも「目立つこと」を忌避することから生まれるようだ。

 映画はいじめを縦糸にして流れていくが、厳しい労働のはざまでアルコールに依存気味の父親の言動が気にかかるし、その病気の父親(ソンの祖父)との親子間のいかんともしがたい齟齬が示唆され、いじめっ子のジア(ソン・ヘイン)をめぐる家庭の事情も理屈っぽくなく提示される。いずれも日本社会とそっくりかさなる問題が横糸となっている。

 そのなかでほっとさせられるのが、ソンの母親のなんともいえない自然な包容力と、随所で光る弟の言動だ。

 94分という今では短い部類に入る映画だが、通奏低音は一貫して豊かな響きを醸し出している。静より動、淡より濃、穏より激という韓国映画への印象は偏見なのかもしれないなあと思わされるほどにしっとりした映画である。ユ・ガウンの次回作が楽しみである。

 

f:id:keisuke42001:20180715095337j:plain庭でとれたみょうが。 

『万引き家族』この社会に存在する普段は目にすることのないさまざまな「境界」あなたはそのどっちにいる? という問い

<今回長文です> 

6月の末に、鴨居のららぽーとで『万引き家族』と『焼き肉ドラゴン』をみた。比べても仕方がないけれど、映画としての出来は、明らかに『万引き家族』。み終わったあとの充溢感というかいろいろなものの残り方が違う。
 脚本とか演出とか編集とか、専門的なことは分からない。たぶんそれらが合わさった力の差なのだろう。役者の動きによく出ている。


 まずふたりの子ども。拾われるようにして万引き一家と一緒に生活する「りん」の自然さ。自然にしていればいいよ、というのとは違う。
もう一人、リリーフランキーと万引きをする祥太。意思が視線や体のたたずまいにはっきり感じられる演技。『だれも知らない』の柳楽優弥を彷彿とさせる。二人だけのセリフのやりとりの場面も同化していなくていい。

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 次に大人。リリーフランキー演じる柴田治。ものごとを理屈では決められないくせに、損得や好悪、快不快だけでいとも簡単に飛び越えてしまう人。何人か出会ったことがあるこういうタイプ。弱くて優しくて、そしてずるい、いつも揺らいでいるが自分では意識していない。

 
 年金受給者の柴田初枝役の樹木希林。みな彼女に寄生している。いつもながら驚かされる。自虐的に「死ぬ死ぬ詐欺」(彼女は現在75歳、がんの転移で満身創痍と言われている)などと言っているが、自らが老いながら老いを演じる凄さ。餅を食べるシーン。どこまでが演技でどこまでが素なのか。すべて演技なのだが、これって素じゃないのと思わせられるシーンもいくつか。


 で、何と言っても安藤サクラ。この人の表情、セリフ回しは独特。演出を超えてしまっているんじゃないかとみまがうほどの演技力。『百円の恋』(2014)でも驚かされたが、力を入れた演技よりも抜いた演技の豊かさ深さがいい。逮捕後の拘置所のシーンは忘れられない。それまでの表情と全く違っている。
 

 そしてセット。彼らが暮らす初枝の家。ものがあふれている。既視感。雑魚寝が自然だし、それぞれはまっている。
 こんなセットと一人ひとりの役者の演技がからまって一つの世界ができあがる。大好きな『歩いても歩いても』(2007年)や『海よりもまだ深く』(2016年・団地の部屋のセットが素晴らしかった)に通じる。作り物なのに自然すぎて、みている方がそれを忘れてしまう。セリフが聞き取れないと、「今なんて言った?」と訊きたくなる。

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 映画としては『だれも知らない』や『そして父になる』に近い。前2作よりいいと思ったのは、結論を急いでいないところ。ほんとうの家族ってなんだ? 的な問いのための問い、第三人称的な問いかけより、この社会に存在する普段は目にすることのないさまざまな「境界」、児童虐待、貧困、年金不正受給、教育格差、行方不明、非正規労働などなど。そして、あなたはそのどっちにいる? という問い。現在の社会が融通性をなくして、形式的な安全安心を「是」としているものへのはっきりとしたアンチテーゼ。だからと言って人はどんなふうにも生きていく、生きていける、どっこい人間!というのではない。だれもそれを選ばない。選ばないのに漏斗の底に向かって滑っていってしまう現実がこの社会には確実にある。


 音楽は無理に感情を揺さぶろうしておらず、セリフは聞き取れないところが多い。でも、私たちはいつだって他者のことばをすべて正確になんか理解していない。ほとんどの人間関係が、誤解と思い込みでできているとすれば、この映画のなんと自然なことか。互いにどこまでいっても分かり合えないことがたくさんあることの当り前さ。
否定も肯定もなく、こうして生きている人たちがいるというリアル。


 映画にすっきりした開放感を求める人にとっては、もやもやとしたものがたくさん残る映画なのかもしれない。

 

一つ付け足し。2018年上半期の寸評で触れた「大阪バイオレンス3番勝負 大阪外道」(2012年)という映画の中では、「外道」と呼ばれるやくざが、子どもたちを次々と拾ってきてともに暮らすというシーンがある。家族らしくない家族だが、子どもを守るために本能的に動いてしまう、つまり暴力によって金を巻き上げてくる「外道」が印象に残っている。この共通点は何だろうか、と考えている。

 

 『焼肉ドラゴン』。舞台は大阪万博の1970年代前後の大阪。在日朝鮮人が営む焼肉屋。夫婦と3姉妹に弟が一人。常連の客と娘たちの彼氏たち。

 お店の中の造作がいい。外の路地から貯蔵庫のような、調理場のようなところへ入るくぐり戸やカウンターの神棚。テーブル席、小上がりの奥にあるカーテンで仕切られた生活空間。でも期待していた料理はほとんど印象に残らない。それと伊丹空港近くのとある朝鮮部落という設定なのだが、「日本」との関係がどうも希薄だ。空港のシーンが何度も出てくるのに「よど号」は連想されないし、日本の進学校に通う在日子弟というのもちょっと違和感。そこでの在日「いじめ」もありがちすぎてリアリティがない。設定が原作に縛られていて、演劇的空間ぽい。広がりがないと思われた。

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 ひとり息子時生はいじめのせいで言葉を失い、自死してしまうのだが、唐突でほおりっぱなしと感じた。70年前後ならば、もっと違う展開があったのでは。 

 日本人として戦争に駆り出され、片腕を失った在日朝鮮人父龍吉を演じるキム・サンホ、母英順を演じるイ・ジョンウン、二人の演技が素晴らしい。日本語を話せない二人の日本語が、ぐさぐさとくる。日本人の役者がどう転んでもこうはいかないだろうというリアリティがある。


 でも、彼らが発する思いや言葉が妙に「やわ」に感じられるのはどうしたことだろうか。私の知っている在日一世の朝鮮へのこだわり、日本人への反感は、それ以後の二世、三世、四世とは全く違うものだ。これも違和感。
 

 一家の中で3姉妹とそれぞれの彼氏たち、そこで起きる在日をめぐる結婚や労働をめぐる差別事件、しかしそれらは、時生の自死も含めて、とりあえず並べてみましたの感がある。羅列的で、類型的に感じられてしまうのだ。
 

 だからなのか、面白いのにみていてちょっと「飽き」がくる。長いなと感じる。気持ちが離れ始めたところで、キム・サンホとイ・ジョンウンに引き戻される。悪くはないのだけれど、今一つぎゅっと凝縮したものが薄いと思った。

『パッチギ』『月はどっちに出ている』『血と骨』『GO』・・今となっては中身もあまり覚えていないが、在日を題材としたこれらの映画は、いつも何か新鮮なものを見せてもらった。あざといまでの差別者としての日本人への強い反感と、翻って民族としての自己定立に悩む少数者の苦悩があったと思うのだが、『焼き肉ドラゴン』からはそうしたものはあまり感じられなかった。なにが変わっただのだろうか。70年代を描いた映画なのに。
期待していただけに残念!

 

万引き家族』興行的にはそこそこ日本でもみられているようだ。カンヌ映画祭での最高賞受賞は、カンヌの審査員の感度の高さを表しているが、それ以上に受賞によってたくさんの人が映画館に足を運ぶこと、なにより是枝監督が自ら執筆した脚本と演出に「手ごたえ」を感じとれたこと、そして次作をつくる意欲と経済的な裏付けが取れたことが素晴らしいと思う。首相や文科大臣への表敬訪問もしないところもいい。表現者は権力とは距離を保つ、日本ではこういう人は少数派だし、貴重だと思う。

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今場所は、稀勢の里白鵬鶴竜、蒼国来そして今日から栃ノ心が休場。

写真は昨年9月場所だが、この時はすごかった。せっかく見に行ったのに。

白鵬(東横綱
稀勢の里(東横綱
鶴竜(西横綱
・高安(東大関
照ノ富士(東大関
・碧山(西前頭・二枚目)
・宇良(西前頭・四枚目)
佐田の海(西前頭・十二枚目)

が休場。照ノ富士は今場所幕下6枚目まで落ちてしまった。

 

服部桜、今日まで1勝3敗。

 

nonchi1010さん、コメントありがとうございました。

「別途」まだあと少しあります。近いうちに。 

 

 

松尾スズキの8年前の芥川賞候補作『老人賭博』が面白い。今年『もう「はい」としか言えない』で3回目の候補に。

 夜更けというより朝方、松尾スズキの『老人賭博』(2010年)読了。夜中に目が覚めて本を読むことが多い。 

 眠っている間に雷鳴を聞く。4時30分起床。雨。外の空気を入れる。エアコンをつけている部屋の中と気温は変わらない。

 雨の中、傘をさしてふたりで散歩。この季節、風さえなければ小雨の中の散歩は気持ちがいい。川はいつもと違って濁流に。上流の方ではかなりの降雨があったようだ。
    コンクリートの岸で、カモの夫婦がコガモ三羽を水の中に引き入れようとしている(ようにみえる)。三羽はからだを寄せ合って動かない。岸を歩く親カモの下羽の青が鮮やかに見える。 

    帰り道、マンションまで小さな林を少しだけ上るのだが、ここで蝉の声。今年、初啼き。家に戻ると庭からもミンミンゼミの啼き声。早い梅雨明けに数十年に一度という豪雨被害。亡くなった方は200人に迫っている。(7月11日)

 

 

    月一度の通院日。神奈中バス小田急を乗り継いで藤沢まで。いつもは二人で出かけるのだが、今日はつれあいが横浜で買い物、東海道線で藤沢へ。医院の待合室で合流。 

 銀座通りという全国どこにでもある商店街、小さなお店が並んだ一画、小さな路地を入ったところにこの医院がある。

 門を入ると庭。左側の診察室に先生がいる。こちらに気づいて軽く会釈をする。
待合室には庭から入る。庭に向かって全面ガラス。小さな池にうっそうと茂った花木、鳥の巣が懸けてある。小さな置物がいくつか。待合室には椅子が5つぐらい。予約制なので他の患者さんと一緒になることはほとんどない。庭に向かったその椅子に坐ると、庭が一枚の絵のようだ。

 開業して1年あまり。病院らしくないたたずまい。病院を気に入っているというのもおかしなものだが、気に入っているのはこのロケーションだけではない。今ではふたりとも歯科以外のことはすべてここの先生に相談している。
 前回の検査結果の説明。数値があまり芳しくない。高止まりしている。一喜一憂しないで、という先生の言葉にいつもほっとする。それに甘えているところもあるけれど。
 診察代を払い、処方箋をもらって近くの薬局へ。
 同じ経路をたどって帰るのだが、いつも一か所寄り道。居酒屋へ。

 ご褒美の不摂生1時間。
 
西日本豪雨で亡くなった方の7割が60歳以上だとか。
                             (7月12日)

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東京駅で見つけたステンドグラス(7月6日)