『パティ・ケイク$』(2017年・アメリカ・109分・主演ダニエル・マクドナルド)・『女は二度決断する』(2017年・ドイツ・106分・原題“Aus dem Nichts”・監督ファティ・アキン・主演ダイアン・クルーガー)

 『パティ・ケイク$』(2017年・アメリカ・109分・主演ダニエル・マクドナルド)をみた。飽きずに最後まで楽しめた。映画はまずこれが一番。「時間を感じさせない」こと。次にいろんなことを考えさせてくれること。


 ネットの惹句には「女子ラッパーのシンデレラ物語」とあるが、アメリカ・ニュージャージーで、元ロック歌手でアルコール浸りで働かない母親と車いす生活の祖母と3人で暮らす主人公パトリシア・ドンブロウスキー。

 見かけもかなりの肥満で周囲からはダンボとなじられる。職も定着せず、母親ともすれ違い、自尊感情を持てないまま屈託する彼女にとって、ラップのための詩をつくることが唯一の自分の思いを表現できる場所。シンデレラってそういう話だっけ?


 いつかラッパーとして世に出たいと思う彼女の生活は、住むところがある分『フロリダ・プロジェクト』より、よりましなのかもしれないが、母親は祖母の病院への支払いが滞っていて法的な措置をとると脅されているが、パティには働けというだけで自分では働かない。祖母が脳梗塞で入院しても、健康保険未加入のため、生活が破綻してしまうほど不安定だ。

f:id:keisuke42001:20180806164756j:plainダニエル・マクドナルド


 音楽はこの映画のためにつくられたすべてオリジナルのものというが、最後のオーディションシーンは圧巻。私は、ラップ音楽とかヒップホップというものにはほとんど関心をもってこなかったが、ラップという方法で、自分を取り巻く差別やそこから抜け出そうとする自分の思いを韻を踏みながらリズミカルに繰り返し“喋る”ラップという表現に、ちょっとやられた感がある。


 主演のダニエル・マクドナルドは、主役を演じるためにラップの猛特訓をしたというが、最後の最後の一枚をめくったところにこの人の素の部分が見えるようで、魅力的である。違う言い方をすると、とにかくかっこいいのである。


 オーデションシーンは、足を骨折した母親が駆けつけ、ステージとフロアで二人で掛け合いで歌うシーンがあるなどメルヘンティックに流れるきらいはあるが、それはそれでミュージカル仕立てのようで楽しめた。


 ラップには、南アフリカのグリオという口頭伝承者に端を発する黒人社会によるアメリカ批判の系譜、黒人霊歌とも通じるものがあるというが・・・そういったことよりも、かなり複雑なビートを駆使して、そこに言葉を載せ韻を踏み何度も繰り返し訴える・・・伝わるものが確かにあると思った。


 パトリシアと薬局勤めの友人、孤独で音楽に真摯に向きあう黒人の青年、そして祖母!の4人で作るグループのデモCDがオーディション出場のきっかけになるのだが、この歌がとってもいい。祖母役のキャシー・モリアーティという女優がいい味を出している。

 暑くても出かけて行って見る価値あり。


女は二度決断する』(2017年・ドイツ・106分・原題“Aus dem Nichts”・監督ファティ・アキン・主演ダイアン・クルーガー

 

 邦題が大向こう受けを狙ったような、どこかで聞いたようなもの。独原題はいたってシンプル。直訳するとどうなるか。グーグル翻訳は「何から」。意味が分からない。英原題を調べてみると、“InTheFade”。グーグルの直訳は「フェードして」。ひどい。独原題から英語に直接翻訳すると“from nothing”。ますますわからなくなる。
これは外国語の素養がなさすぎるということだ。


 映画をみたあとには“何もないから”がいいのかなと思った。

 それとも「消えてしまいたい」というニュアンスか。どなたかご教示を。

 邦題は良くないと思う。「スリー・ビル・ボード」のような筋立てを想像させてしまう。インパクトはあるけれど。

 

 

・・・ドイツ、ハンブルグ。トルコ移民のヌーリ(ヌーマン・アチャル)と結婚したカティヤ(ダイアン・クルーガー)は幸せな家庭を築いていたが、ある日、白昼に起こった爆発事件に巻き込まれ、ヌーリと息子のロッコが犠牲になってしまう。警察は当初、トルコ人同士の抗争を疑っていたが、やがて人種差別主義者のドイツ人によるテロであることが判明。愛する家族を奪われたカティヤは、憎しみと絶望を抱えてさまようが……(映画.comから拝借)。

 

 犯罪者同士の抗争、イスラーム過激派による無差別テロ、ネオナチによる移民への差別、排斥など、トルコ人街に住む移民のヌーリの経歴からさまざまな可能性が疑われる。ドイツだからこそのテロなのか、そうではないのか。簡単には特定できない不気味さがある。

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 この映画は、かといって犯人捜しの映画ではない。ネオナチの若い男性の父親が、息子が使うガレージの中に事件で使われた農薬や釘など爆弾の材料があったこと、そして息子が「ヒトラー主義者」であることを裁判で証言する。カティアは、ヌーリの店を立ち去る女を見ており、男はこの女と親しいことが判明する。

 この裁判のシーンが出色である。ギリシャのホテル経営者がこの男女の名前が宿帳に記されていることを証拠として、二人は事件の時にハンブルクにはいなかったと証言。

 しかしカティアの弁護士はこのホテル経営者もネオナチの一員であることを暴き出す。

 

 カティアの薬物使用についても取りざたされる。少量だということで刑事訴追の対象にはならないというのがドイツの実情のようだが。この薬物は実は弁護士から渡されたもの(このあたりが薬物に対する感覚が日本とはかなり違う。3月にアムステルダムを訪れたとき、大麻を合法的に吸える店“コーヒーショップ”と称する店が今でも200店以上あるというのに驚いたが)。

 

 容疑者側の弁護士は薬物使用者には証言能力がないと主張する。証言能力の有無を調べるため検査をすべきだと容疑者の弁護士は主張するが、カティアは拒否する。これが判決に大きく影響を与える。


 9割がた、容疑者の容疑は固まったに見えるが、裁判所の決定は「疑わしきは罰せず」で無罪に。

 

 ここまでならばネタバレにはならないだろう。問題はこの後だ。

f:id:keisuke42001:20180806165120j:plainダイアン・クルーガー

 

 夫と最愛の息子を失ったカティアにとって、実母、義父母や友人との思いのずれ、そして死者への葛藤はどこまでも深く重いが、私を含めてみている者は、それを一緒にトレースしていっているかのように思わされる。だがカティアの側に立って、怒りや悲しみを共有しているという私の思い込みは、カティアによって思い切り突き放される。


 ファティ・アキンはカティアの“喪失”が、実はどれほど私たちの想像を超えて測り知れないものなのか、全く視線を外さずに描いている。

 それが心情の揺れ動きだけでなく、一つの行動となって表れるのに私は度肝を抜かれた。そしてただただ沈黙せざるを得ない。

 

 衝撃的なラストシーンではあるが、映画全体に伏線が精細に配置されていて、いわゆる物語の「結構」がとってもしっかりしているため、浮いていない。きわものの映画ではない。

 ファティ・アキン監督にとっては、ドイツ国内で2000年代初めに起きた「国家社会主義地下組織」(NSU)が移民に対して起こした連続テロ事件が映画づくりの下敷きにあり、解決に時間がかかるあまり、捜査当局とNSUの関係まで取りざたされたということに不信があったのだと思う。

 その意味で、ラストシーンにはトルコ系移民2世としての怒りや恐怖から紡ぎだされた一つのやりきれない「解決」が込められていたと思われるが、このラストシーンに欧米系の評論家から異議が多く出されたという。

 


 この映画でダイアン・クルーガーは2017年のカンヌ映画祭の主演女優賞を受賞した。緊張感の持続力と感情の揺れを体全体で表現した点で受賞は当然だと思うが、同時に演出、脚本に抜きんでた表現力を発揮したファティ・アキンは監督賞に入っていないし、もちろん最高賞にはもちろんそのほかの賞にも。評価が割れた。映画は民族、宗教、政治的な立場から決して自由ではないということだ。


 この年の最高賞は『ザ・スクエア 思いやりの聖域』。あの『フレンチ・アルプスで起きたこと』というスウエーデン映画の監督がつくった映画だ。9月初めにみる予定。

 

 さてタイトルだが、やはり最愛の夫と息子を亡くしたことの喪失感の大きさからすれば、ネットで見つけた『虚無から』といったタイトルがぴったりするかもしれない。ただこれでは日本で映画館に足を運ぶ人は多くはない。

 

f:id:keisuke42001:20180806165554j:plain写真、へたくそなのであまり涼しくなりませんね。(油壷マリンパーク)