曇天のせいか朝の気温が30℃を切った。
いつもは首に巻く保冷剤2つを入れた涼感ワーククーラー?というのを首に巻くのだが、今朝は氷を入れた水筒だけ。
今年産まれた3組目の4羽の母子カモ、目撃。
何かくれると思うのか、こちらの姿を見えて3羽の子カモが寄ってくる。何もないので、口に含んだ氷を落とす。一旦口に含むが、なんだよ氷じゃねえか、と吐き出す。ごめん。
母カモは少し離れて見守っている。
子カモ、一昨日より一回り大きく。岩についた苔のようなものを食べているようだが、日に日に成長著しい。3ヶ月くらいで親と同じような大きさに。そうなると、あまり人の目をひかない。私たちも。
録画しておいたNNNドキュメント’24『生かされて 原爆投下79年目の決意』(8月4日放映)を遅ればせながら見た。
1945年8月、元廣島一中2年生才木幹夫さん。
「原爆ドームは崩れてしまえばいいと思っていた」
原爆のことは記憶から消すように生きてきたという。
生き延びてしまったことへの悔いが才木さんを苦しめ続けてきた。
その才木さんが、90歳を越してから語り部となったという話だ。
廣島一中2年生は、8月6日、建物疎開の作業が「休み」だった。
「休み」にしてくれたのは、戸田五郎という若い先生。
才木さんは、原爆資料館に保存されている戸田先生の手帳を見せてもらう。
「休み」にした経緯が克明に書かれてあった。
この手帳を見たことが、原爆投下から79年を経て才木さんを被曝証言を始めるきっかけとなったという。
若い教員だった戸田先生がなぜ自分の学年だけ「休み」としたのか。他学年の教員や校長などからの批判はなかったのか。
番組では、「反逆罪も覚悟」したが、最後まで「休み」を突き通した。
時代は違うとはいえ、同じ学校という組織にあっていわば「ありえない」話、戦時中であれば抗命は大罪とされてもおかしくない。疑問が膨らんだ。
長く広島に通っているが、初めて聞く話。しかし調べてみると、よく知られた話であるらしい。
いつも思うことだが、ヒロシマについては知っていることより知らないことの方が遥かに多い。私が知っていることなどほんのわずかなことだ。
ネットで調べてみると、戸田先生について触れている人もいる。
さすらいのカナブンさんは、漫画で戸田先生のことを描いている。無料で公開されている。
何より、戸田先生自身が書かれた『ピカドンー廣島原爆手記ー』という本が、紙ではないが、Kindle版であることがわかった。
「手帳」を元にした「手記」いう一次資料がしっかり残っているというのは大変なこと。
じっくリ読みたい。読後感はまたいつか。