なぜ、どのメディアも判を押したように「処理水」という言葉を使用するのか。稼働する原発から出る放出水と炉心溶融した原発から出る汚染水(処理水)は基本的に違うものではないのか。

9月4日、朝から雨。気温25℃。傘を差したりたたんだりしながらの散歩。蝉の声は聞こえず。明日はまた晴天で35℃ほどになるらしい。

8月31日、記者会見で「処理水」を「汚染水」と言ってしまった野村農水大臣。「自分でその時なんで言ってしまったのか記憶がない」などと釈明するものだから、緊張感がない、定年制を導入すべきなどの議論が。野村大臣78歳。普通の市民の普通の感覚で口に出してしまったのではないか。

岸田首相は「遺憾なことであり、全面的に謝罪、撤回して、今後挽回してもらう」と更迭を否定。賄賂問題や副官房長官の炎上もあり、ここで閣僚をやめさせるわけにはいかないのだろう。

政府は処理水に含まれるトリチウムだけを焦点化し「トリチウムの排出量は中国の各地の原発のほうがずっと多い」キャンペーンを張っている。これを全国紙が追随しているのが、いかにもおかしい。なぜどのメディアも但し書き抜きの「処理水」を使用するのか。

私のような素人でも、稼働している原発から出る処理水と炉心溶融してしまった原発から出る処理水の違いぐらいわかる。排出されるのはトリチウム以外に60種類以上の放射性物質、核種。それらを含む汚染水をALPSという除去システムに何度もかけて薄めて海に放出するというのだが、30年間それを続ければ、少しずつ海水の中にそれらが蓄積していくのではないかと考えるのはごく自然なこと。

汚染水を溜めるタンクはあと30年分であってもそのための土地は十分あるのに、わざわざ放出することにどんな意味があるのか。放射性物質除去の技術のどんどん進化するのだから、今、慌てて放出することはないはず。

ところが、メディアも処理水放出には腰がひけている。それどころか、むやみに様々なところに噛みついている中国の抗議は、常軌を逸していて理屈に合わない無謀な批判だという論調。

「汚染水」という言葉を徹底して狩るという政府の姿勢に対し、メディアからの批判はほとんど見かけない。放出されているのは薄められているとはいえ、汚染水に間違いないだろうに。

汚染水でなくALPS水という美しい名前の水ならば、岸田総理はじめ閣僚は福島の水産物をそれ見よがしに食べるように、大量の水で割った水割りウイスキーでも飲んで見せればいい。あるいは1キロメートル先の放出パイプのところに行って、そこの薄まった海水を飲んでみればいい。

「どれだけ時間がかかっても、私が必ず責任を持つ」と言ったのだから、毎日、そうしたパフォーマンスを見せてほしい。岸田が処理水を飲む姿を見れば、国際社会も納得しないわけにはいかないだろう。これは暴論だろうか。

責任という言葉が軽すぎる。責任の重さをどう見える化するか、官房は真剣に考えるべきだ。

東京新聞9月1日