Y君の母親Mさんの葬儀に妻と出席した。
葬儀への参列は今年2度目。小浜逸郎さんの葬儀は4月の初めだった。
喪服は夏用のものになる。これを着るのは3年ぶり。ほつれや汚れはないかと点検する。
式場は、クルマで15分ほどの横浜市の北部斎場。森と畑の間に造られた、横浜とは思えない独特の雰囲気の場所にある。どちらから来てもトンネルをそれぞれ抜けるとすぐに斎場の入り口となっている。ここに来るたびに思うこと。大袈裟でなく、彼此界の境い目に入ったような気分になる。
Mさんの子どもが3人。そのお連れ合い、そして孫たち、親戚の方も入れて10数人。そこに私たち二人が加わっての告別式。
浄土真宗のお寺さんがやってくる。
祭壇に飾られた法名は「釈 〇〇」と3文字。〇〇にはMさんのお名前がそのまま入る。音読みで「しゃく こうすい」と読むのだという。Mさんが生前、自分で準備していたものだそうだ。
遺影もご自分で。若々しく微笑んでいる姿。背景にはご自分が描いた作品、手前にはY君の焼いた花瓶。Y君は、30代前半でくも膜下出血で倒れ、言葉と右半身が不自由に。以来30年来、陶芸を生業としている。
法名、遺影を準備するくらいだから、Mさん、覚悟を決めて旅立つ準備をしていたのだろう。この潔さは真似できない。
告別式の最後に、一番下の弟K君が挨拶。
晩年、Mさんがマンション管理の会社に入社した話が紹介された。
Mさんが最初に配属されたマンションは、かなり悪質なクレーマーが多く、管理人は長続きせず、何人もの人がやめていったそうだ。勇躍、乗りこんだMさん、初めは住民たちも「この人もまたすぐやめるだろう」という態でみていたというが、クレーマーに対しておじけずに真っ直ぐものをいうMさん、最後はクレーマーたちもMさんに一目置くようになったという。最後まで勤め上げ、住民たちからは随分感謝されたという話を披露してくれた。
告別式の挨拶なのに、拍手をしたくなるような話だった。
K君の気負わない穏やかな話しぶりが、まるでMさんがそこにいて微笑んでいるような気分にさせてくれた。
出棺のあと、控室で今度は妹のTさんから病院でのエピソードを伺った。
Mさん、病状が悪化し、ICUに運び込まれ、管を何本も繋がれ横臥している状態の時のこと。
周りには、意識さえない状態で運び込まれた人が何人かいたという。
看護師たちの中には、そうした人たちに対して、ぞんざいで礼を失するような対応をする人がいたそうだ。
Mさん、自分は動けない状態でありながらも、その看護師に対して臆せず敢然と「ちょっとあなた、そういうのは・・・」と横臥しながらもきちんとその非を指摘したという。看護師ははっとして謝ったそうだ。
こういうところがMさん。どんな場所、時であっても、理非曲直をしっかりと主張する。誰にでもできることではない。
45年前、Y君は中3。管理的な学校のやり方に具体的な行動で反抗を繰り返していた。体罰を受けることもあった。Mさんは何度も学校の呼び出されたはずだ。でも学校を批判することなく、T君に対しては「ダメなことはダメ、でも、言うべきことはしっかり言う」という対し方をしていた。
私が学級担任となった中3の年。私も学校の中では浮きに浮いていた。管理的な生徒指導のやり方を批判するだけならまだしも、全員が加入している労働組合を脱退し、新しくできた独立少数労組に加入した若造の教員に対して、周りの視線は厳しく、何度も嫌がらせを受けもした。
その時に陰で支えてもらったのが、何人かの保護者の方たちだ。Mさんもその中の一人。今考えても「守ってもらった」という実感が残っている。若い教員だから、至らないところはあるけれど、先生は先生、そして担任は担任、皆さんで盛り立ててあげましょう、といったことが話されていたのだろう。そんな時代だった。
「言うべきことはしっかり言う」をY君が実践したのは、学年全体で行われた卒業間際の「お別れ会」だった。
さまざまな出し物が用意された。その中には教員の「サザエさん」もあった。20人近い教員が充てられた役を演じ、生徒たちの笑いをとっていた。私は出なかった。
Y君は、Tという名のフォーク歌手が好きだった。名前も同じTだ。
70年フォークがもう下火になっていた頃のこと。
彼はフォークギターを持ってステージに上がり、ギターを弾きながら自作の詩をうたった。3年間の管理教育批判、意味もない規則で縛ろうとする教員に対する痛烈な批判、意趣返しだった。
今でもその時のことははっきりと覚えている。400人の生徒たちが(14クラスもあった)、彼が歌うワンフレーズごとに後ろを振り向き、居並ぶ教員たちの表情を窺ったのだった。これもまた彼の威を借りた意趣返し。意趣返しされる側に、私もいた。
そのことをMさんがどういうふうに捉えていたのかはわからない。でも「言いたいことははっきり言えばいいんだよ」というMさんの声が今でも聞こえてくるようだ。
葬儀を終えてから、Y君の連れ合いのKさんが、「去年初めてTと旅行をしたんです。運転は全部Yがやって・・・」「すっごく楽しかったんです。これからもできるだけ続けようと思います」
二人は一人娘を長い闘病の末、がんでなくしている。18歳だった。
Mさんは今日、骨になってしまったが、このKさんの言葉が一番嬉しかったのではないか。
庭の紫陽花