港をうたった歌5曲、るるるサロンに久しぶりに。

いろいろと立て込んでいて1月から休んでいた「るるるサロン」、4ヶ月ぶりに二人で出かける。

約1時間、16曲を歌う。

 

先週の月曜は、声楽の先生の伴奏でMさんと2人で1時間半歌い続ける「やさしいコーラス」。楽譜を読みながら初めての曲を歌うため、終わりの方はヘロヘロになる。やさしい、とはいえない 門戸はいつも開かれているが、参加者はここ半年以上私たち二人だけ。

るるるサロンは福祉クラブが主催する高齢者対象のうたう会。人数も12、3人。休みながら歌える。楽譜もなし。耳に残っている懐かしい歌ばかり、スクリーンに映し出される歌詞を見ながら歌うだけ。

 

伴奏はリードギター、キーボード、ベースギター、オカリナ。童謡から昇華、懐メロまで選曲は多彩。毎回さまざま趣向が凝らされている。

今回は、後半5曲が海や港にまつわる歌が集められた。

 

瀬戸の花嫁(1972年)

勝手にシンドバッド(1978年)

*港が見える丘(1947年)

かもめが翔んだ日(1978年)

ブルーライト・ヨコハマ(1968年)

 

瀬戸の花嫁」は私が大学に入った頃。ほぼ50年前。

瀬戸内海の島から島へ「お嫁に行く」風景は、時代を感じさせる。今ならばいくつも橋が架かっているから、渡し船に花嫁が乗って・・・という光景はもうない。

「男だったら泣いたりせずに父さん母さん大事にしてね」。姉の弟に対する優しい心遣いなのだろうが、今ならジェンダーハラスメントか。50年前は「男、女」に対する無謀な決めつけが当たり前だった。

歌詞のほとんどを覚えている。

みんなが口ずさんでいたからだろう。

 

勝手にシンドバッドは、私たちが結婚した年。

耳には残っているが、いざ歌ってみると全くと言っていいほど歌えない。テンポも早いし言葉数の多い桑田節。カラオケもまだそれほど普及していなかった頃、聴いてはいたが歌ったことはなかったのだろう。

 

タイトルは、沢田研二の「勝手にしやがれ」(1977年)とピンクレディの「渚のシンドバッド」(1977年)を合わせたものだとリードギターのMCの方が話していたが、一説には志村けんの「8時だよ、全員集合」の中のネタ「勝手にシンドバッド」を「パクった」という説が有力なのだとか。

歌詞は一見脈絡がないような、リズムと音符に言葉を嵌め込んだ印象だが、

「砂まじりの茅ヶ崎」で始まる歌は、テンポの良さとは別に夏の終わりの湘南と好きな女の子に告白できない気持ちの揺らぎをよく表している。

リズムという点では冒頭の「砂まじりの茅ヶ崎」と「胸さわぎの腰つき」が韻を踏んでいる。

歌詞が進むと、江ノ島が見えて・・・など主体が動いていて、人称も変わる。「おれとあんた」、時々男女が入れ替わっているようにも見える。

この揺らぎがいいのだが、揺らいでいる中で突然「今何時?」とくる。

これを「そうねだいたいね」「ちょっと待っててオー」「まだはやい」で受ける。この不確かさは感情の揺れとパラレルだ。

最後まで何度も繰り返される「胸騒ぎの腰つき」。妙に艶っぽくて、詩的というほかない。

やはり手の込んだつくりと言っていいようだ。デビューから45年、桑田は一級の現代詩人。

 

「港が見える丘」なんとなく耳に残っているのはテレビの懐メロ番組の記憶か。

ネットで72回転のレコードを流す動画があった。ジャズ調の洒落た歌だ。

作詞・作曲の東辰三は、作詞家で「瀬戸の花嫁」などを書いた山上路夫の父親。

横浜の「港の見える丘公園」には、楽譜も描かれた「港が見える丘」の小さな歌碑があるが、東の出身地は神戸。必ずしも横浜が舞台とは言えないそうだ。

それにしても1947年、70年以上も昔の歌なのに、独特の気だるさもあっていい雰囲気の歌。あまり古さを感じない。

 

湘南、横浜(神戸)ときて

かもめが翔んだ日」は、渡辺真知子の出身地横須賀が舞台だという。作曲は渡辺真知子自身。テンポもよく物語ふうで、途中の転調が曲を締めていて、これまた古さを感じさせない。名曲だと思う。

 

2、3ヶ月前アバンギャルティというダンスグループが、この曲をバックに踊るのをYouTubeで見た。なんとも印象的なダンスで惹きつけられ、何度も繰り返し見た。バブリーダンスというのだそうだ。

趣味の問題だが、こういうダンスを初めてみた。二つのバージョンを載せておく。

 

 

ブルーライト・ヨコハマ」が1968年。

横浜は戦後、日活映画などでよく知られていた街。

この曲でイメージがかなりアップした。

ベイスターズのチームカラーにもなった。

私が横浜で仕事に就いた1976年、イメージのカタカナの「ヨコハマ」は、港のごく一部分だけ。急激な人口増に対し無秩序な開発が繰り返された時代、いわゆるスプロール現象が進んだ頃。公立学校のグラウンドにはプレハブ校舎が並んだ。初任校はひと学年14クラスもあった。次々と畑や田んぼが宅地に変わっていった。

中学3年の時に聴いた「ブルーライト・ヨコハマ」とはほぼ無縁の生活だった。

計画としては60年代に発表された港北ニュータウンが、実体化し市営地下鉄などが敷設されていくのはその後のことだ。

気がつけば、人口は376万人(2023年1月)、東京に次ぐ第二の都市。しかし東京と違って自治体としては一つ。末端にまで血液が巡らない巨像、虚像だ。実際に住んでみると、住民サービスは東京都や近隣自治体と比べるとかなり手薄に感じる。

私の住む北西部のはずれなど横浜?と言われるほど横浜色の薄いところだ。

港北区35万人、青葉区30万人。西区9万人。

自治体としてのアイデンティティーは、ない。逆に格差は驚くほど広がっている。

「ヨコハマ」のイメージが、その格差を隠蔽する役割を果たしている面も否定できない。

そんなことをつらつら考えて歌っているうちに、1時間が過ぎた。