佐々木賢さん、小浜逸郎さん、芹沢俊介さん、逝く。

散歩の途中、藤の花が咲き始めたのを見つけた。たった一軒の家で。

うちの小さな庭ではコデマリがけっこう派手に咲き、梅の木がたくさんの実をつけている。

毎年、実がついてもせいぜいが10数個だったのが、13年目についに梅の木らしく。

 

3月に佐々木賢さんが亡くなった。

4月になって小浜逸郎さんと芹沢俊介さんが亡くなった。

佐々木さん90歳、小浜さん75歳、芹沢さん80歳。

 

佐々木さんと初めてお会いしたのは、1995年ころ。芹沢さんもそのころ。

小浜さんはその10年ほど前になる。

 

御三方、それぞれにたくさんの示唆を受けた。直接、ではなく、私が勝手に。

小浜さんには最初の本のオビの文章を書いていただいた。

佐々木さんには過分な書評を書いていただいた。

 

5日、小浜さんの通夜に出かけた。住居近くのたまプラーザの葬儀場。

葬儀もまたその人を表すのか、無宗教の、簡素だがすっきりした小浜さんらしいものだった。受付の横には3枚の遺影。小浜さんが白いシャツ姿でほほ笑んでいる。

その横に、著作が10数冊。

生涯に刊行されたものは、単著だけでも70冊を超える。共著なども含めれば160冊超と書いていあるものも。

その一部。世に出るきっかけとなり、私自身おおきなショックを受けた『学校の現象学のために』も並んでいた。


参列者は、遺影とご遺体の前にカーネーションを一輪ずつ捧げる。

お焼香と違ってみな思い思いの時間、ご遺体の前にたたずむ。

棺の中のお顔もごく自然に見える。もう10年以上もお会いしていないのに、こみ上げてくるものがあった。眠るような面立ちから、かつての話しぶり、声音、人柄がよみがえる。

 

初めてお会いした時のことだ。講演を依頼するために伺ったのだが、

駅で待っていた小浜さん、二人で伺った私たちに

「家に来ませんか?」と声をかけてくださった。クルマで来られていた。

ご自宅で長い時間お話をした。当時荒れた中学に転勤したばかりのころ、目を輝かせて現場の話を聞いてくださったのを覚えている。

初対面の人間になんの警戒心ももたず、胸襟を開く姿に驚いたのを覚えている。

 

それからの10数年、いつもいろいろと気にかけていただいた。対談に読んでくださったり、雑誌の原稿を書かせていただいたり、著書も出るごとに送っていただいた。

何度か講演をしていただいた。

杉本治君自殺事件の真相を追及する市民運動が「横浜・子ども・若者考」という連続講座につながった。その最初の講師になっていただいた。

そのまとめが『現代子ども・若者考』(1991年・明石書店)として刊行されている。

 

その小浜さんが2008年から4年間、横浜市の教育委員を務められた。

その直後に青葉台でお会いした。それを最後に会うことがなくなった。

育鵬社の教科書採択をめぐって、小浜さんは育鵬社を選んだ。

横校労は、育鵬社批判を続けてきていた。

市民運動の人たちから、小浜さんと横校労の関係をいぶかしむ声もあった。

つまらないことを勘ぐるものだなと思ったが、いつしか関係は疎遠になっていった。

 

訃報をいただいた時、なにか大事なものを忘れてきたような落ち着かない気分だった。