新聞連載小説『かたばみ』(木内昇)が面白くなってきた。主人公は山岡悌子。やり投げの選手だが、今は国民学校の教員だ。
連載133回は、今まで何度もさまざまな資料で「知っていた」と思っていたことが、全く違ったシーンとして展開されたのが新鮮だった。
1945年9月、文部省は「終戦ニ伴フ教科用図書取扱方ニ関スル件』を発した。教科書の中の戦意高揚や皇軍称揚をうたった個所をすべて塗りつぶすようにという通達だ。
三年一組の教壇に立ち、悌子は言う。
・・・
「いいですか。これから先生の読み上げる箇所を、墨で塗り潰してください」
たちまち生徒の間から動揺の声が上がる。
「教科書は汚しちゃいけないって教わってます。墨で塗ったら読めなくなります」
早速、級長の向山平造が異を唱える。おとなしい子だが人一倍真面目で、浄化作業など面倒なことは率先して引き受けてくれる。
「向山君の言う通り、本来、教科書は汚してはいけないものです。でも、今回は特別に、これからの世の中にふさわしくないところを消していくことになりました」
こんな簡易な説明でいいのだろうか、と惑う。彼らが入学時から受けてきた教えを覆されるという理不尽を、世の中が変わった、というひと言で済ませていいものか。御国に言われるがまま教育方針を変える教師を、いずれ生徒たちは軽蔑するのではないか。
「さ、筆を執って。はじめますよ」
煩悶に蓋をして、半ば強引に推し進める。生徒たちはおとなしく従ったが、「皇軍」や「兵士」といった言葉を黒く塗り潰していくうち、すすり泣きが教室に漂いはじめた。これまで信じてきたものを否定される辛さばかりではないだろう。兵士として御国に尽くした父親を、裏切っていると感じる子もいるはずだ。
「泣かないでください。これから新しい世の中になるんですよ。明るい世の中に」
悌子は励ましたが、今後どんな教育をすることになるのか、まだ知れない。戦争が始まってから教員になった悌子は、三年一組の生徒と同じく、国民学校令が敷かれてからの授業しか行っていいないのだ。・・・
「墨塗り」については、知識として知っていた。昨日までの教育を全面否定して民主教育を語る教員。「墨塗り」を指示するという行為は、教員の戦争責任の問題として私のなかにインプットされてきたし、子どもたちは教練を中心とする少国民教育の縛りから逃れて、自由になる象徴として「墨塗り」を受け入れたのだろうと考えていた。
ところがこのシーンでは子どもたちがすすり泣いている。その子どもたちの気持ちを想像して暗鬱な気持ちになり、さらには「軽蔑されるのではないか」と考える悌子の感性。こうしたシーンはいままであまり語られてこなかったと思う。
教練の中で、率先して竹やり訓練の手本を示せと配属将校に言われた悌子は、どうしていいかわからず混乱してしまい、競技のように槍をつかんで投げてしまう。
このシーンも面白かった。悌子には戦争に反対だとかこんな教育はおかしいという理屈めいたものはない。しかしからだが感じる自由さがある。
教員として決してうまく立ち回れない悌子には、空襲で退避したときに亡くなってしまった児童、賢治に対する負い目もある。木内の文章からは悌子の中に渦巻く感情がよく伝わってくる。
毎朝、朝刊を開くのが楽しみな連載小説は久しぶりだ。
このあと、悌子が職員室に戻ると、教頭から呼び止められる。
「近く我が校で、子供たちの身体検査を施行します。つきましては山岡先生、全校生徒の体を鍛えていただけますか、期日までに」
体錬ですかと問う悌子に教頭は、
「体錬という言葉は、近く使えなくなるようですよ。錬成も教練もダメ。戦争を想起させる言葉は消えていきますから。体錬なんぞと軽々しく口にしてはいけません」
開いた口が塞がらなかった。ついこの間まで、少国民として国に奉仕せよ、竹槍教練に力を入れよ、と目を吊り上げて命じていた教頭と同じ人物とは思えない。
「子供の体位低下が問題になっておりますでしょう。先だって厚生省研究所の調査結果が出ましたが、子供たちの体重の平均値が去年は大幅に落ち込んだそうです。おととしまでは毎年大差なかったのに。今年に入っても低下の一途をたどっているというんですから」
驚きの新事実、とでも言わんばかりの教頭の口ぶりに、悌子は顔を歪める。食べるものがないのだから、子供たちの体格や体力が以前より劣るのは当然のことだろう。
「これではいかんと、とくには健康復興を目指すと宣して、各校の生徒の身体検査を行うことにしたそうです。その際、ぜひとも我が校はよい数字をあげたい。そこで計測日までに先生に、生徒たちの体を鍛えていただきたいというお願いです。名案でしょう」
誇らしげに顎をあげる教頭の横っ面を、悌子は思うさま叩きたい衝動に駆られる。だれが、子供たちから健康を奪ったのか、省みることもしないで、「よい数字」を欲しがるとは、なんとさもしいことかと怖気立った。
「お断りします」
言下に切って捨てると、教頭は目を丸くして、「え?」と、うめいた。
「体は食べ物によって作られます。この食糧難のさなか、激しい運動をさせることは危険です。もしよい数字をおとりになりたいのなら、まずは給食の実施を。体を鍛えるのは、栄養のあるものが生徒に行き渡ってからです」
憤然と言い放ち、とっとと踵を返して自席に戻る。教頭に楯突いたことへの後悔はなかった。むしろ、かつて体錬の授業で五年三組の生徒たちの中距離走を止めた時に言えなかったことが言えて、悌子は清々していた。・・・
70年以上経っても、この教頭のような教員たくさんいる。
いつだって教員は、「小官僚」という立場から自由になれない。教員であるということはそのことを問い直す姿勢をもつということと考えてきた。
このシーンは戦争が終わっても結局のところ、政府も変わらなければ現場の教員も変わらないことを象徴する場面だ。
さて、このあと悌子はどう生きていくのか。
木内昇という作家の作品は初めて。伊波二郎という人の挿絵もすごくいい。
毎朝、楽しみだ。