8月は去り、9月がやってきた。今年もあと4か月。

昨日の朝、5時ごろにLINEに1件の着信。4時過ぎには起きていたはずだが、スマホを部屋に置きっぱなしにしていたから気がつかなかった。

散歩から戻って8時ごろ折り返す。出ない。

卒業生のEさん。知的障碍者グループホームの夜勤の仕事をしている。

電話は夜勤が終わるころにかけたようだ。

 

彼女の担任をしたのは81年のこと。たった1年だったが、付き合いはその後とぎれとぎれに、今年でちょうど40年になる。

何度かお話したことのある生真面目なお父さんは亡くなり,かつてかなりのしっかり者だったお母さんは、介護が必要となり、彼女が同居している。

話題の中心は彼女の仕事のこと。9月からある病院の看護助手として働くことが決まったという。

LINEはMさんと3人で組んでいる。

彼女の顔を最後に見たのは、思い出せないくらい昔のことだ。まだ乳飲み子だった長男を抱いて遊びに来たのときかもしれない。その長男が横浜の病院に勤めているというから、顔を見たのは20年以上も前になる。

MさんがEさんに会ったのはその時だけだと思うのだが、たまに二人が電話で話しているのを横で聴いているとずいぶん親しげだ。ふしぎなものだ。

 

日中、電話がかかってくる。例によってとりとめのない話、30分ほど話す。初出勤が楽しみだという。老婆心から「あんまり力まないでね」という言葉が出てしまう。

器用に生きてきた人じゃないから、ついよけいなことを言ってしまう。もういい大人なのに。

今度も夜勤が月に4回あるという。母親の介護と仕事とうまくバランスをとってやっていってほしい。

 

 

東京新聞に「笑和写真館」という不定期のシリーズがある。2面全面を使って投稿写真を掲載「昭和時代を笑って和もう!」がテーマだ。8月31日付けでは昭和30・40年代の写真を募集。20枚の写真が掲載されている。

この中の1枚がかつて同僚だった友人Hさんのもの。数日前に「載りますから、見てください」との連絡があった。写真は昭和37年のお正月だろいうか。親戚が集まり、いとこたち9人が外に出て記念写真。東京・麻布十番の街並みがバックに見える。

投稿者の年齢を見ると60代後半の方が目に付く。髪型、洋服、遊び、クルマ、てれび、・・・場所は違えど、間違いなく同じ時代。白黒写真のくすみ具合、まさにセピア色。私にも同じような表情で写っている写真がある。

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そのHさんから先月、手紙が届いた。同僚だった養護教諭のSさんが2020年4月に亡くなっていたことが記されていた。

Sさんが重い病を得て闘病中であったことは知っていた。Hさんと3人で食事をしたのが2019年5月のこと。からだの中で暴れまわる重篤な病のことをこともなげに「ほんとまいっちゃうよね」と笑い飛ばす姿に、この人にはかなわないなと思ったものだ。

メールのやり取りは間の空いたものだったがほそぼそと続いた。今思えば、亡くなる1か月ほど前のメールに返信がなかった。重ねてメールを出すことはせず、気がかりではあったがそのままになっていた。

 

3人が初めて顔を合わせたのは1986年4月4日。学区に運河のある、横浜の伝統ある?中学校でのことだ。3人が3人ニッパチ生まれというのが共通点だった。少し大げさにいうと、怒鳴り声と物がぶつかる音がして振り向くと乱闘が始まっていて、流血さわぎになるという、そんな学校だったから、日常にはほんとうに濃い時間が流れていた。

だからずいぶん時間が経ってからかつての同僚たちに会っても、すぐにそのころの空気がよみがえってくる。かたちにならない特別なものを共有している、という感覚があった。

 

コロナ禍の前から葬儀は家族葬直葬が増えていた。年賀欠礼のはがきで亡くなったことを知るということが多くなっていた。

コロナ禍がはじまり1年半以上。人に会うことはもちろん手紙やメールで連絡することも、意識していなければすぐに間遠になってしまう。

大切な友人の死を1年4か月後に知る。家族にはともかく、周囲の友人に様子を聞く手立てだってあったはずなのに、しなかった。コロナだからという理由で片づけてしまうのは少し違うと思う。結局のところ、自分の情の薄さなのだろうと思う。

 

8月はH君だけでなく、Sさんも亡くした月になってしまった。

昨日から急に気温が下がった。さっき、ヒグラシの声が雨音に代わった。