誘いは突然やってくる?
みたことのない番号だからとほおっておいたのだが、何度もかかってくるので、3日目におそるおそる掛けなおしてみた。
Dさんだ。
85年から97年まで勤務した学校の美術の先生。たしか私より5つか6つほど上だったような気がする。声は変わらない。もう70代前半か。
いっしょに仕事をしたのは5年ほど。
ユニークで自由な発想をする面白い先生だった。当時から私は彼のファンだった。
早期退職して、房総の別荘と横浜を行き来している。
久しぶりに呑もうよ、と云う。
たしかに久しぶり。ずいぶん会っていない。
思い出した。2014年、私が退職した年に、この学校の人たちが集まってお祝いをしてくれた、あの時以来だ。
あの時もかなり久しぶり。賀状のやりとりもなく、携帯の番号もメールのアドレスも交換していない。
それでも、話はすぐに決まる。何人か声かけといて、で電話は切れる。
疾風怒濤の時代。怒号と暴力であふれた学校。深夜に帰宅してまた朝出てくる、その繰り返し。措置要求から超過勤務裁判を提起、最高裁まで闘ったのもこの職場。魅力的な人たちに出会えたのもここだった。
めぼしい人たちにショートメールを送る。もう皆若くはない。さて、何人集まるか。
2月11日のことを書いておこう。
東京の竹内義男さんが主宰している『ヒロシマ講座』この日は『広島・旧陸軍被服支廠の保存を考える東京での「緊急の」集い』の3回目。
1回目(1月19日)は「被服支廠のいま・・・」と題しての武蔵大学の永田浩三さんのお話と広島現地からの報告。
2回目(1月26日)は「戦争遺跡の保存を考える(1)として毎日新聞の栗原俊雄さんと東京都歴史教育者協議会の東海林次男さんのお話。
3回目は今回(2月11日)、戦争遺跡保存全国ネットワーク代表の十菱駿武さんとアカデミック・ジャーナリストを名乗る柴田優呼さん、そして被服支廠の保存・活用キャンペーンの若者5人のうちの1人大阪大学大学院生の松本渚さん、3人のお話があった。
この後4回目(3月8日)も準備されている。登戸研究所資料館館長の山田朗さんとジャーナリストの高瀬毅さんのお話が、会場を江古田の武蔵大学に移して開かれる。
緊急4回の講座を準備しながら、その間に定例の「連続講座」をやり、フィールドワークも計画している。
連続講座の開催は経験がないわけではないが、これほど密に開催したことはない。竹内さんの知的好奇心の強さとエネルギッシュさに頭が下がる。
十菱駿武さんのことは、ついこの間東京新聞(12月21日)の「あの人に迫る」という半面以上の大きな記事に写真入りで載っていた。専門は縄文から古墳時代の水晶、山梨県史など。水晶とあるから山梨学院大学の先生なんだろうと勝手に納得。
戦争遺跡とは
「近代日本の対外戦争とその遂行過程で、加害・被害・反戦抵抗に関わって国内および国外で形成され、かつ現在に残された遺構・構造物のこと。
日本国内に戦争遺跡は推計で50000か所。地上の建築物は20000件、特殊地下壕は12000件に及ぶという。
そのうち国指定文化財が35件、県指定が17件、市町村子弟が120件。国登録文化財が78件、市町村登録文化財が12件、道遺産・市民文化資産が3件。
これらに登録されれば一定の公的な補助が受けられるが、都市開発による変化や耐用年数を超えて解体、破壊、消滅するものが急速に増えているという。
何度か見学した横浜・日吉の旧海軍地下壕や長野・松代の地下壕などもまだ何の指定も受けていない。
広島市南区出汐の旧陸軍被服支廠は、1904年(明治37年)完成。鉄筋コンクリート・赤レンガ造り3階建ての大規模な建築物。もともと98棟あったという。現存しているのは4棟(3棟が県の所有、1棟が国の所有)。
ほおっておけば、解体、消滅の危機。現存する戦争遺跡としての規模はかなり大きく、原爆ドームのようにほとんど人が生き残っていない建物と違って、峠三吉の「倉庫の記録」のように被爆後の人々の様子が想像できる貴重な建物。
「・・・現物が残っていれば、戦争にかかわる何かが実際にそこであったということを感覚的に学びとれる。七十年以上も前の人たちが、暗く、寒い場所で、食料にも苦しんだ事情を追体験できます。たとえ疑似体験でも、実体験をもつことで、現代はどういう時代化か未来はどんな時代でなくてはならないかを感じ取ることが大事だと思います。」(東京新聞「あの人に迫る」から抜粋)