このブログ、備忘録のつもりなのに、書くこと自体を忘れる。
取り立てて面白いことなど起きない私の日常だが、それでも忘れないようにと思うことはいくつかある。
しかし、見た映画も読んだ本も、着目点や考えたことならいざ知らず、あらすじや内容
すら数日経てばどんな映画だったけ?そんな本読んだか?という始末。
だから備忘録、なのだが。
忘れる前に、思考のかけら、記憶の断片くらい書いておかないと「なにもなかったこと」になってしまうのは、少しこわい。
先週の土曜日、16日。フィリアホールで
”森麻季&日本を代表する名手によるニューイヤーコンサート”
があった。
チケットを買ったのは11月。1月に緊急事態宣言が出るとは主催者も考えておらず、人気のある森麻季だけに一席ずつ空けて売るということなど想定していなかったようだ。私がネットにアクセスしたときには、空いていたのは前から12列の1,2番。端っこの座席。それでもS席。いまやどのホールでも半数以上はS席のように思うほどだから致し方ない。しかしホールが小さいからそんな席でもステージには結構近い。「いいんじゃない」ということで購入。
3日前にフィリアホールから手紙が来る。
本公演は「…日本政府の緊急事態宣言発出に伴って1月8日に改定された横浜市発出『横浜市文化施設における新型コロナウイルス感染症対策ガイドライン』に基づき、開催可否及び開催形態を検討した結果、予定通りの内容にて、開催を行うことを決定いたしました。」
なんだかずいぶん重々しい。それで隣の席に他の客が来ることを了承せよ、という。
そして、購入者、あるいはその家族以外が本公演に来場する場合は、「来場者情報申請用紙」に氏名と連絡先、座席番号を記入して提出せよとのこと。私たちは該当しないが。
その他、お客様へのお願いがA4用紙一枚にびっしり。
マスクはもちろんもぎりは自分で、プログラムは自分で手にとり、休憩時間中の近距離での会話は禁止。
Mさんによると、近くの座席の人がフェイスシールドをつけた係員におしゃべりを注意されていたとのこと。休憩時間に。
そんな少しぎすぎすした会場の空気は、森麻季がステージに現れた瞬間、誇張ではなく消えた。いや、消えたというより全く別の空気が流れだした。
満面の笑みを浮かべて登場した森麻季。身にまとっているのはあでやかなドレスだけではない。その場を一瞬で変えてしまう、ほど良いオーラ、押しつけがましくない自然な立ち居振る舞いに引き付けられた。テレビでは一度も感じなかったものだ。私の知っている、というより私の森麻季の印象とは違う。
伴奏は山岸茂人。森がテレビやコンサートで歌うとき、伴奏はこの人。CDも。
第1ヴァイオリンは元N響第一ヴァイオリン次席、第2ヴァイオリン首席を務めた永峰高志。
第2ヴァイオリンはN響次席の森田昌弘、ヴィオラがN響の小野聡、チェロがN響の村井将、コントラバスがN響首席代行の市川雅典。
音楽の世界も、相撲の番付とは違うが、序列というか席次というのが珍重される世界のようだ。
横道にそれてみる。
調べてみると、N響にはヴァイオリンだけでも、上から
ゲストコンサートマスター2名
この人たちはヴァイオリンだけでなくオケ全体のリーダー。コンサートはこの4人うちだれかが指揮者の左下、最前列に坐る。篠崎史紀さんを見ることが多いが、彼が第1コンサートマスター。
第1ヴァイオリンは次席奏者が4人、次席代行奏者が1人。第2ヴァイオリンには首席奏者が1人いて、首席代行が1人、次席が3人。首席客演奏者という外部の人もいるようだ。
一(いち)ヴァイオリン奏者から見れば、第一コンサートマスターは指揮者は別として同業者の中では雲の上の人かな。
日本のトップレベルのN響のメンバーになるのも大変なことなのだろうけれど。
弦楽器はそれぞれ序列がはっきりしているが、楽器が変わるとこの構造も少し違う。
例えばファゴットは5人のうち2人が首席。ティンパニは2人しかいないが2人とも首席。ティンパニと区別される打楽器の3人に序列なし。印がついていない。
財団年数や経験が勘案されての役付き。給料もこれで違ってくるのだろう。
指揮者の場合は序列というより名誉職という感じか。
私は、現在のN響の指揮者はパーヴォ・ヤルヴィだと思っていたのだが、この人は首席指揮者でほかに正指揮者という人が二人いる。尾高忠明、外山雄三のお二人。
そのほか(なんて言っちゃいけなのか?)名誉音楽監督がシャルル・デュトワ、
桂冠名誉指揮者があの高齢だが渋く端正な指揮をするヘルベルト・ブロムシュテット、桂冠指揮者という人もいる。私にはどちらかというピアニストという印象があるのだが、これがウラディミール・アシュケナージ。
音楽の世界、音楽性や演奏技術も含めてもみな序列化されているのだ。
一生ヒラでいい、なんていう人は「へたくそだから」なんて言われてしまうのかもしれない。
どうでもいい話が長くなった。横道終了。
第1ステージ。幕開けはモーツアルト2曲
①モテット「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」K.165
モーツアルト16歳の時の曲。高校生か。
ピアノ伴奏。森の声は、テレビで聴いていた声よりはるかにやわらかく澄んでいて軽い。びっくりした。これはすごい。コロラトゥーラなんて聴いたことないくらい。これ、私の歌ですという感じ。全部自分のもの。響きが心地よい。
②弦楽5重奏。アイネ・クライネ・ナハトムジークK. 525 第一楽章。
さすがに名手たち。最初の音だけにびっくり。たった5つの弦楽器とは思えないふくよかでやわらかい音。コントラバスの音が気持ちよく響く。5つの楽器がそれぞれ際立って、そして渾然一体となって聴こえてくる。
③今度は弦楽五重奏とピアノが伴奏。グノー「ファウスト」から”宝石の歌”。
これも明るくダンスを踊るように。声がぶれることなく、コントロールされている。
からだ全体が楽器。歌っているという一体感を超えて、森自身がより特別な楽器を緻密に大胆に演奏しているイメージが浮かぶ。少し興奮状態。
④一息入れましょう、ということで、ピアノの山岸によるドビュッシー「ベルガマスク組曲」から”月光”。
遅いテンポで、澄明な月の光を模す独特の印象派風の音の連なり。
第一ステージの最後は、またピアノと弦楽五重奏でシャルパンティエ歌劇「ルイーズ」から”その日から”。
何とも言えない華やかさ、あでやかさ。伴奏者を紹介するにしても、話し方も自然。わざとらしさがない。正直、テレビで見る森の印象はあまりよくなかったのだが、前半30分で宗旨替え。ファンになってしまった。
言葉を尽くすにしても、表現力が乏しいため「すごい」「すばらしい」「うまい」「いい」の繰り返しになるので、後半はプログラムだけ書いておこう。
弦楽五重奏とピアノで、ヨハンシュトラウス二世 ワルツ「南国のばら」
続いて森が入って、喜歌劇「こうもり」から“公爵様、あなたのようなお方は”
弦楽五重奏でクライスラーの愛の悲しみ、愛の喜び。
レハールの喜歌劇「メリー・ウイドウ」から”ヴィリアの歌”
最後に大曲?”ワルツの声”。
アンコールは、日本の歌。
山田耕筰の「からたちの花」と「花は咲く」。
「からたちの花」にやられた。涙腺を激しく刺激する解釈と声。すごい。
最後はみんなで森が拍手を引っ張っての「ラデツキー行進曲」。大盛り上がりで、幕。
声、歌う姿、表現力、挙措、どれひとつとっても第一級品。なるほど一流というのはこういうものかと納得させられたコンサート。
森の演奏はyoutubeでたくさん聴くことができる。
5月に自分で録画してアップしたものもある。ヘンデルの”涙流れるままに”。
チェンバロを弾きながら歌うのだが、後ろには寝転がっている4,5歳の子どもが映っている。
それともう一つ。啄木の「初恋」(越谷喜之助作曲)。いくつもあるが、2016年のものがすごくいいと思った。