『82年生まれ キム・ジヨン』映画の底流に精神疾患を個人の物語に収れんさせず、韓国社会がもってきた宿痾や社会システムを対比させる意思がはっきりと流れていることに好感。

10月10日はかつて体育の日。56年前に東京オリンピックの開会式が行われた日だ。

いわゆる「晴れ日」である。

毎年わりあい天気がいいのに、今年は台風14号の影響で雨。少し肌寒い日になった。

 

こんな日は「映画でしょ?」とMさんを誘う。きのうも映画に出かけたのだが。

 

そそる映画が何本も。とりわけ今週は邦画が。

 

それでも決め手はふたりとも原作を読んだあの映画に。

 

グランべリパークシネマ 13時55分。

『‘82年生まれ キム・ジヨン』(2019年/118分/韓国/原題:Kim Ji-young: Born 1982/原作:チョ・ナムジュ/監督:キム・ドヨン/出演:チョン・ユミ コン・ユ キム・ミギョンほか/日本公開2020年10月9日)★★★★

 監督はこれが長編映画第一作だとか。

とてもそうは思えない。映画の中に静かに流れている通奏低音のような空気、脚本も演技も音楽もカメラもみな大仰でなく、静かにこれを形作っている。

見ていて、いろいろなことをアタマに思い浮かばせてくれる。

魂をもぎ取られるような映画もいいが、静かに思索できるような映画もいい。

 

82年生まれのキム・ジヨン

就職、結婚、出産と30代後半に差し掛かる時期に襲ってくるどこかに閉じ込められてしまうような不安を感じるジヨン。

育児に喜びを見出しながらも、嫁として家の中から抜け出せない苛立ちが精神疾患の症状として、母親や祖母が憑依するかたちでジヨンに現れる。

 

精神科受診までのさまざまな葛藤が映画の中心。何より夫との関係、実家の父母との関係、兄弟や伯母たちとの関係。夫の実家の父母との関係。

 

ジヨンはいったんは、閉塞から抜け出そうとかつて勤めていた会社の上司が起業する会社に就職を決めるが、夫は育児休暇を取って協力しようとするが、義母からは『息子の出世の邪魔をするのか』と罵倒される。

 

ジヨンに憑依する母親や祖母のことばが映画を単なる社会派モノにせず、情感のある映画にしている。母親の演技がぐっと胸に迫る。父親の能天気と好対照。

 

映画の底流に精神疾患を個人の物語に収れんさせず、韓国社会がもってきた宿痾や社会システムを対比させる意思がはっきりと流れていることに好感。

 

日本のカウンセリングの流れとは一線を画している。社会的存在としてのジヨンをしっかり提示しようとしているところが秀逸。

日本でつくるともっと湿気の多い、個人の物語が前面に出てきてしまうような気がする。隣国でありながら文化的には一線を画していることがよく表れている。

 

この映画、男女の性差による役割が一つのテーマだが、韓国の若い男性からは批判的に見られているという。

82年生まれより一世代二世代あとの若者にとっては、必ずしもジヨンが訴える旧来の韓国社会の矛盾より、男子でも受験競争が激しく、就職難があり、さらに徴兵制がある現在の韓国の社会はかなりの生きづらさがあるというのだ。

以前に比べ男性だけが大事にされる偏頗な傾向は影を潜めているのかもしれず、日本における変化と歩調を一つにしているのかもしれないが、随所に見られる会社における男性優位や育児をする女性に対する差別的な視線(ママ虫という言葉があるようだ)は、日本でも同じなのではないだろうか。

 

ひとつ疑問。さまざまな問題提起を投げかけているが、この家庭、家族は韓国において平均的なものなのだろうか。

韓国映画を見る限り、一定に社会的には上の階層に当たるのではないか。少なくとも格差問題はこの映画からは見えてこない。

 

経済的な悲壮感がないことが映画にとっていいことなのかどうか。

アカデミー賞を取った「地下室」の人々のリアリティのなさ、「はちどり」の親子関係のしんどさ、「わたしたち」の母子関係などいろいろな映画を対比させたくなる映画である。