『ドラマ×マンガ あとかたの街 ~12歳の少女が見た戦争~』(NHKBSP8月14日放送)「口に出さない」ということは「忘れてしまう」ことではもちろんない。それはいつでも「そこ」にあって、熾火のように静かに燃え続けているものなのかもしれない。 いったん息を吹きかけるように口に出してしまうと、平常な自分が保てないのではないかという焦燥感が突き上げてきて息ができなくなる、そんなものかもしれないと思った。

涼しくなった。

 

今朝は7時前に散歩に出かけたのだが、短パン・ポロシャツが目についたのか、犬の散歩の近所の人から「寒くないですか」と声をかけられた。

まだ寒いまではいかない。1時間歩いて戻ってくるとうっすら汗をかく。

Mさんは長そでのトレーナーとテニス用のジャージーのようなものを穿いている。

 

境川河畔の遊歩道でキャップ姿の長い望遠レンズ付きのカメラを抱えたおじさんに会う。お名前は知らない。今日は時間が早い。

 

「涼しくなったからねえ。今日は4羽見つけたよ。でも留まっているところが日が当たって明るいところと暗いところが一緒になっていてうまく撮れなかった」

カワセミの話である。

私たちは、今日は一羽も見つけられなかった。

 

台風が近づいている。明日の朝は雨の予報だ。

 

 

「8月ジャーナリズム」と揶揄されるが、それでも貴重なものも多い。録画しておいたものを秋口に差し掛かった今頃、少しずつ見ている。

 

NHKBSプレミアムが8月14日に放送した

『ドラマ×マンガ あとかたの街 ~12歳の少女が見た戦争~』(60分・出演:木村多江桐山漣吉行和子

 

番組のHPには次のようなあらすじが紹介されている。

 

マンガ家のおざわゆき(木村多江)は、50歳を目前にして初の連載マンガを手がけることになった。テーマは、当時12歳の少女だった母の戦争体験。さっそく、編集者の佐藤(桐山漣)とともに、名古屋に住む母・あい(吉行和子)を訪ねて取材を始める。あいが語り出したのは、まさかの“恋バナ”。戦時中とは言っても、恋愛があり、家族のだんらんもあったことに、ゆきと佐藤は驚く。しかしそうした“当たり前の暮らし”は、空襲によって一変する。親友も好きな男子も命を落とした。その記憶を母にどこまで聞いていいのか悩むゆき。意を決して名古屋に向かう。そこで語られる現実は想像以上の過酷さだった。火の海と化した街・・・。だが、あいは、家族とともに必死に生き抜いていた。

 

『あとかたの街』(おざわゆき作)は単行本5冊で完結しているマンガ。このドラマには原案とマンガ提供というかたちで著者がかかわっている。脚本は政池洋佑さん。私が知っているのは『レンタルなんもしない人』(テレビ東京)くらい。

演出の小山靖史さんという方は、同じドラマ×マンガの『お父さんと私の“シベリア抑留”~「凍りの掌」が描く戦争~』というドラマも演出しているとのこと。知らなかった。この漫画もおざわゆきさん作のようだ。

 

木村多江という俳優はしっとりした女性からエネルギーに満ちた女性、さらにはおどろおどろしいエキセントリックな女性まで幅広い演技ができる人。この人が出てくると「ただじゃ終わらない」感じがする。

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ネットから拝借しました

そこに吉行和子。出てきただけで惹きつけられる存在感はいまだ健在。

桐山漣は若手イケメン俳優。御多分に漏れず「仮面ライダー」出身。

 

あらすじにあるように、戦時中というのは白黒映画のような無味乾燥な日常が延々と続くような印象があるが実はそうではなく、ごく当たり前の人々の生活があり、女学生は恋に胸を焦がすような時間もあったことが語られる。

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ネットから拝借しました

 

そこまではさほどざわざわする感じがなかったのだけれど、名古屋空襲の実際の場面をマンガと実写で見せられると、つい身を乗り出して見てしまった。

 

空襲の恐ろしさが一人の少女の視点からリアルに迫ってくるのだ。それは漫画や実写の迫力に留まらない少女の独白のことば一つひとつから伝わってくるものだ。

 

空が真っ黒になるほどのB29、果てしなく続く焼夷弾爆撃・・・アタマではその恐ろしさは理解しているつもりでも、千メートルもないところから実際に何倍もの重力を増して自分の方に落ちてくる焼夷弾に感じる逃げ場のない閉塞感、恐怖感は、恐ろしくて耐えられるものではないということが、肌が泡立つほどに感じられた。

 

いままで数えきれないほどそうしたフィルムを見てきた。もちろんその恐ろしさを自分なりに感受してきたと思うのだが、何気なく見たドラマから今まで以上のものを感じたのだった。

 

吉行和子が演じる「あい」が、長い間その記憶を語ることなく生きてきたことも、今までたくさんの戦争を経験してきた方に重なって理解しているつもりだったが、実際にその記憶を「口に出す」ことの恐怖をあらためて追体験させられたような気がした。

 

「口に出さない」ということは「忘れてしまう」ことではもちろんない。それはいつでも「そこ」にあって、熾火のように静かに燃え続けているものなのかもしれない。

いったん息を吹きかけるように口に出してしまうと、平常な自分が保てないのではないかという焦燥感が突き上げてきて息ができなくなる、そんなものかもしれないと思った。戦争体験だけでなく、通常の心持ちでは耐えられない体験をされた方はみなそうなのだろう。

 

多くの戦争体験の証言者はそういうところを越えて証言までたどり着いている。その重さ深さ辛さに私たちはいまだに鈍感なところがある。

 

このドラマを見て、75年を経て戦争の記憶を継承してことに、まだ試されていない表現方法がいくつもあるのかもしれないと思った。

 

機会があれば、『シベリア抑留』のドラマも見てみたいものだ。

 

 

hihukusyoラジオの6回目が公開されている。

今回は、先日朝日新聞の「オピニオン&フォーラム」欄にインタビューが掲載された切明千枝子さん(90歳)。被爆当時は広島第二県女の4年生。前回紹介した関千枝子さんは2年生。

お名前が同じなのは偶然か。

 切明さんには20数年、広島で毎回生徒の前でお話をしていただいた。