『軍旗はためく下に』(深作欣二・1972年)をみた。戦争体験の継承について考えた。

大寒のこの時期、気温はそこそこでも寒風が吹けば体感温度は下がる。

七十二候では「水沢腹堅(さわみずこおりつめる)」。

寒いはずだ。そのうえ曇天では、散歩に出るのが億劫になる。

真冬は、抜けるような青空が朝の何よりのごちそうだ。ごちそうがないのに出かけたくないのは人情だが、そんな日でも思わぬごちそうが用意されていることがある。

 

昨日だったか、帰途、藤沢方面に向かって歩いていると、急にMさんが「あれ!ほら、あそこ!」と小さな声で云う。そこにいる対象に気づかれまいとしている緊迫した声。

 

川面から6~7㍍の虚空に激しく動きながらそこにとどまっているもの。

1羽のカワセミの激しいホバリング

5~6秒後、青が一閃、川面に急降下!

水面に入ったかと思うとすぐに飛び出て、近くの葦にとまる。

口には4㎝ほどの小魚の銀鱗が光る。

呑み込むのに30秒ほどかかったか。

 

前回ホバリングを見たのはいつだかったか。

ずいぶん前のことだ。

ホバリングを見たからといって、魚を捕るシーンが見られるわけではない。

 

ラッキーな一日の始まり。

 

 

 

先日、『軍旗はためく下に』を読んだことを書いた。

急に古い本を読みだしたのには理由がある。

福間良明氏の『戦後日本、記憶の力学』(作品社・2020年)の中の、映画『軍旗はためく下に』についての論考が面白かったからだ。

映画を見た記憶はあるのだが詳細は忘れてしまった。

では、原作は?というと読んだ記憶がない。それで結城昌治の『軍旗はためく下に』を古本で買い求めたのだった。

 

2,3日前だったか、映画を見た。アマプラのレンタル。『仁義なき戦い』ほどには人気がなく、DVD化は2015年だったそうだ。

 

 

『軍旗はためく下に』(1972年/97分/原題:Under the Flag of the Rising Sun/脚本:新藤兼人/監督:深作欣二/音楽:林光/出演:丹波哲郎 左幸子 藤田弓子 三谷昇 ポール牧 江原真二郎 夏八木勲 山本耕一)

 

深作欣二監督は作品数が多い。

 

最初の監督作品は1961年の風来坊探偵シリーズ。ここから『軍旗はためく下に』までの10年間の作品のなかでは『トラ・トラ・トラ!』(1970年)以外は見たことがない。

1972年の『人斬り与太三兄弟』はかすかに見た記憶がある。このあとの『仁義なき戦い』シリーズはほとんど見ている。

深作作品で好きな映画は?と訊かれたら『柳生一族の陰謀』(1978年)。何度も見た。萬屋錦之介が大好きだったし、それまでの時代劇とは違っていたからだ。何がどう違ったかはもう忘れてしまったが。

 

そのほか印象に残っているのは、『青春の門』(1981年)『道頓堀川』(1982年)『蒲田行進曲』(1982年)『火宅の人』(1986年)『いつかギラギラする日』(1992年)など。

晩年には『バトルロワイヤル』を3本撮っているが、1本目は見た覚えがある。

 

柳生一族の陰謀』と双璧となるのは『蒲田行進曲』。そして『仁義なき』シリーズということになる。

 

 

 

脚本は新藤兼人が担当したとされるが、本編のエンドロールには脚本担当として新藤だけでなく、深作欣二ともう一人の名前が載っていた。

福間氏の記述によると

 

「当初は、新藤兼人に脚本を依頼したが、性欲に重点を置いたストーリーが意に沿わず、深作自ら「上官殺害」に焦点をあてる形でシナリオを書き改めた。原作にはないサキエを主人公にしたのも、深作の意図であった。」

 

左幸子演じる主人公サキエをシナリオに導きいれたのが深作なら、これはもう深作脚本といっていいのかもしれない。「性欲を重点に」は、サキエが寝巻のまま海辺でびしょぬれになりながら悶えるシーンがそれに該当するのかもしれないが、これに類するシーンはほかにはない。

 

 

ストーリーは次のようにつくられている。

 

昭和二十七年、「戦没者遺族援護法」が施行されたが厚生省援護局は、一戦争未亡人の遺族年金請求を却下した。「元陸軍軍曹富樫勝男の死亡理由は、援護法に該当すると認められない」。富樫軍曹の死亡理由は、「戦没者連名簿」によれば昭和二十年八月南太平洋の最前線において、「敵前逃亡」により処刑されたと伝えられている。そして遺族援護法は「軍法会議により処刑された軍人の遺族は国家扶助の恩典は与えられない」とうたっているのだった。富樫軍曹の未亡人サキエは、この厚生省の措置を不当な差別として受けとった。それには理由があった。富樫軍曹の処刑を裏付ける証拠、たとえば軍法会議の判決書などは何ひとつなく、また軍曹の敵前逃亡の事実さえも明確ではなかったからである。以来、昭和四十六年の今日まで、毎年八月十五日に提出された彼女の「不服申立書」はすでに二十通近い分量となったが、当局は「無罪を立証する積極的証拠なし」という判定をくり返すだけだった。しかし、サキエの執拗な追求は、ある日とうとう小さな手がかりを握むことになる。亡夫の所属していた部隊の生存者の中で当局の照会に返事をよこさかなったものが四人いた、という事実である。その四人とは、元陸軍上等兵寺島継夫(養豚業)元陸軍伍長秋葉友幸(漫才師)元陸軍憲兵軍曹越智信行(按摩)元陸軍少尉大橋忠彦(高校教師)。サキエは藁にもすがる思いで、この四人を追求していく。彼らはどんな過去を、戦後二十六年の流れの中に秘め続けてきたのか--?その追求の過程で、更に多くの人物が彼女の前に現われてくる。--師団参謀千田少佐小隊長後藤少尉 富樫分隊員堺上等兵 同小針一等兵。そしてその結果--サキエの前に明らかにされたものは、今まで彼女の想像したこともなかった恐るべき戦場の実相だった--敵前逃亡、友軍相殺、人肉嗜食、上官殺害等々、そうしたショッキングな事件が連続する中で、サキエは否応なく、亡夫のたどった苛烈な戦争の道を追体験していくのだ--

                  映画ドットコムから

 

 

1970年前後の高度経済成長の世相や上空を飛ぶ米軍機の轟音、若者の体制批判、全共闘運動などのシーンを随所に挿入するなど、戦後25年を経た地点から戦争に光を当てている点が、この映画の大きな特質。原作には全くない視点。夫の無罪を信じ事実を探るサキエの前に立ちふさがるのは、官僚も社会も、家族までもが25年後の「戦後」という時間だ。その懸隔を描くことがこの映画の主眼と言っていいのではないか。

 

1970年代初頭は、靖国神社国家護持運動など使者を公的に検証する動きが際立つ時期、全国戦没者追悼式は1963年から毎年8月15日開催されるようになったという。

 

映画の冒頭のシーンは、この戦没者追悼式での天皇の「おことば」で始まる。

これはラストシーンと平仄を合わせている。

サキエの夫、富樫勝男はラストシーンで二人の仲間とともに銃殺される。三人は目隠しをされているが、富樫は慌てふためくように二人に声をかける。

「堺、小森、手さ貸せ、手さ貸せ。手さ貸せ、手さ貸せ。いいか、いいか。俺たちは駆り出さ絵れたときも一緒だが、殺されるときも一緒だぞ。いいな、いいか。て、て、て、、天皇陛下ぁ」と叫んだ時に銃声。

そして再び全国戦没者追悼式のシーン。

ここでは君が代はオーケストラではなく、エレキギター一本の演奏だ。

 

戦後生きのびた昭和天皇の言葉と、裁判も受けられずに銃殺されていく富樫ら。

映画の一番外枠には天皇制批判があることを示している。

 

 

サキエは、厚生省の照会に返事のなかった4人の「戦友」に会うが、その都度、彼らの話から立ち上がる富樫勝男の相貌は変転していく。見ているほうもサキエの視点をつい体験させられるのだが、サキエが裏切られるのと同様、見ているほうも予想を覆される。

そうして描かれるのは、戦闘で死んでいった兵隊ではなく、飢餓と故のない暴力で殺されていった兵隊たちの姿。

 

あたりまえのことなのだが、映画がつくられた1972年とそれから50年を経た今では、戦争をとらえる視点は大きく変化していることを感じた。実体験としての戦争を記憶している人々が少なくなり、同じような表現に対しても、見る側の反応は違ってきている。

 

どちらの反応が「正しい」のかはわからない。

ただ、現在と違うのはこの映画がつくられたころにはまだ「遺族への配慮」という観念が強く、戦争体験についても「語らない」という判断が前面に出、語ったとしても「死者」は「英霊」としての名誉を守ることが優先された。

これについて福間氏は、

「正しさや美しさを帯びた死者像は、戦争大作映画をはじめとしたポピュラー文化の中で多く語られてきたが、そのことは末端の兵士の暴虐や狂気、軍隊の組織病理に起因する「無意味な死」といった問題を。半ばタブーとして後景化する状況を生んだ。その点で、『軍旗はためく下に』は例外的な戦争映画であった。遺族の情念を突き詰める先に「遺族への配慮」が破綻し、また死者への内在的思惟が死者の美化への拒絶につながる、こうした逆説が、かつては少ないながらもポピュラー文化の中で扱われていた」

とこの映画を高く評価する。

 

戦争体験の「継承」という概念はまだ希薄で(継承は客観化の一つの表現と考えれば、時間の経緯が与える影響は大きい)、何をどう語り継ぐべきかが問われるよりも、表立っては一面的、一辺倒のあるべき日本軍の兵士像が語られ、市井においては主観的でバラバラで猥雑な言説が流布していたのではないか。私が気にかかるのはその猥雑さの中身だ。

 

この映画の中で二つそれについて気にかかるところがあった(ほかにもあるようなきがするが・・・)。

 

一つは、戦争体験に対する「笑い」の問題である。

映画の中でサキエが訪ねて行った先の「戦友」が、舞台で漫才を演じているシーンがある。戦争が終わったのを知らずに戦い続ける役を演じる「戦友」に客席が笑い転げる。

戦後造られた戦争映画、もちろん喜劇も多いのだが、そうでなくとも笑いに包まれることがよくあったという。

「戦争っは劇だが、しかも喜劇でもあった」とは戦争喜劇映画もつくった岡本喜八の言葉だが、私はこのシーンがよくわからなかった。

これは、戦場で人に語れないほどの体験した人たちの、一種のバランス感覚なのだろうか。

 

もう一つ戦後の時間の経過によって、戦争の中の事実が想像力を拒否する形で固定化していくといったことである。

映画の中で江原真二郎が演じる後藤少尉は、学徒出陣で出征した即席指揮官であることから、プロの海軍兵学校陸軍士官学校出の士官に対する劣等意識が強く、その分、部下に過度に暴力的であったり、理不尽なふるまいをする。

しかし私が概念としてもっている学徒出陣の士官のイメージは、知的で思索深く、どちらかといえば厭戦的な思想の持ち主、いわば「わだつみの声」や「無言館」によるものだ。これらについて全く逆の、後藤少尉的なふるまいをする士官が多かったことが、70年当時はまだ盛んに語られていたことに驚いた。

 

こうした二つの点からしても「正しく継承」することの困難さに思い至る。

 

小説と映画、二つの『軍旗はためく下に』は表現として全く別物だ。

どちらも1970年頃の作品だが、戦争体験の継承を考える上で意義のある作品だと思う。

 

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