『Fukushima50』最後のシーン「復興オリンピック」への言及は鼻白む思いがした

25日(水)グランベリーパークシネマ。

 

『Fukushima50』(2020年/122分/日本/配給:松竹・KADOKAWA/監督:若松節朗/出演:渡辺謙佐藤浩市/2020年3月6日公開)

 

3・11から9年目。今年は『風の電話』とこの『Fukushima50』。

 

やっぱりこういう映画になってしまう。

 

実写フィルムを組み合わせた津波地震原発のシーンはかなり迫力がある。引き込まれるところもたくさんあった。

 

しかしドラマ仕立てのところは、周囲の音声を消しすぎて、まるで演劇空間。演技も演劇的で重く、わざとらしいもになってしまった。

 

東電本店とのやり取り、菅首相の登場、自衛隊の支援、アメリカ軍の動きなどさまざまな要因を取り込みながら、結局、事故は、現場で働いていた人間の「慢心」が原因的な結論に。

 

吉田所長の現場主義と本店の官僚主義、政治の狼狽ぶり、個人の物語よりそっちを描いてほしかった。

 

事実に即して、

東電本店がなぜ海水を入れたがらなかったのか。

菅首相がどこまで国のリーダーとしての判断をしていたのか。

自衛隊は被ばくをどう考えていたのか。

原発の仕組みからその危険性をなぜもっと出せなかったのか。

アメリカはほんとうに「トモダチ」だったのか。アメリカの在留アメリカ人避難についての政治的な判断や、その後の被爆兵士たちによる訴訟も含めて。

何より「現場」の実態はどうだったのか。主だったメンバーだけでなく、50人の人数を超えた人たちはどう考え、どう動いていたのか。

 

すべてこれに関わるシーンがあるのに、中途半端に思えた。

 

ただただドラマっぽさ、芝居臭さが鼻について面白くなかった。

 

現場の決死的な労苦はわかるが、第一原発内部の位置関係や建屋内の位置関係などが分からず、どれほどの動きをしているかも分かりにくかった。

 

それに比べ、吉田所長と中央制御室(中操)当直長のモノローグ的な表白が目につきすぎて、結果的に二人の英雄譚に終わっているのではないか。

 

二人のキャラクターが濃すぎることも映画を軽くしている。普通の人たちの間に入ると浮いてしまうのだ。

 

 

いったい3・11福島第一原発事故とは何だったのか、まとまらなくてもそこに突っ込んでいく気迫が感じられなかった(実際にはいくつもの偶然が重なり東日本全体が避難地域となるような事故にならなかった)。残念。

 

最後のシーン「復興オリンピック」への言及は鼻白む思いがした。