竹内良男さん主宰『ヒロシマ連続講座』第95回 小村公次さん講演「戦没作曲家・音楽学生の音楽」 ⑥

声聴館に入っている戦没学生は4人。小村さんは彼らが作曲したものを実際に聴かせながら触れていく。

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鬼頭恭一 声聴館から

 

鬼頭恭一、1922年愛知県の酒問屋に生まれる。家業を継ぐことを期待されていたが、顔族には内緒で音楽の勉強を始め、1941年東京音楽学校選科に入学。1942年予科、1943年本科作曲家に進む。半年後仮卒業。三重、築城、神町各航空隊を経て霞ケ浦航空隊。7月29日開発中の日本初の液体燃料ロケット戦闘機「秋水」練習機での飛行訓練中の事故により殉職。

同僚の話では、前方を通過した航空機を避けようとして掩体壕に激突したという。1942年2月にビルマで戦死した同い年の従兄・佐藤正宏のために《鎮魂歌》を捧げた。東京の佐藤家で空襲を免れた楽譜や鬼頭自身が入隊後に所持したノートなどがわずかに残された。

 

「秋水」は、陸軍と海軍が共同で製作した戦闘機。ドイツのメッサ―シュミットMe163の資料をもとに開発されたが、試作機で終わった。ドイツとの同盟の中で、日本はアジア各地の天然資源である生ゴム、錫、タングステンなどの戦略物資を輸送する見返りとして、ドイツはジェットエンジンロケットエンジン原子爆弾などの新兵器の技術情報を日本に供与した。(Wikipedia

 

1万メートルの高度を飛ぶ爆撃機B29に対して、ロケットエンジンを積んで高度的にも対抗できる戦闘機をという理念で着手されたが、実際にはスピードこそ時速800㌔と565㌔のゼロ戦よりも速く10000㍍に達するのに5分30秒(ゼロ戦は6000㍍までに7分)すさまじい性能だが、航続距離が5分30秒と極端に短く(ゼロ戦は6時間)、戦闘機として実用化には至らなかった。

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秋水 Wikipediaから

 

ほとんど空想の産物のような、戦争末期の遺物と言っていいような戦闘機、飛行訓練と言ってもまともに飛ぶことはほとんどなかったようだ。

飛行機とは無縁の優れた音楽学生である鬼頭が、なにゆえ無謀な計画に翻弄され殉職しなければならなったのか。

 

直「秋水」の名は、飛行試験が成功した時に岡野勝敏海軍少尉の『秋水(利剣)三尺露を払う』という短歌に由来するというが、よく分からない。切れ味の良い刀といった意味のようだが、「少尉」という階級の歌からというのも理解しにくいし、無実の大逆罪で処刑された幸徳秋水を連想させるのも不可解である。

 

小村さんは「無題」(アレグレットハ長調1944)を聴かせてくれた。

声聴館のミュージックアーカイブでも、オルガン曲「鎮魂歌」・歌曲「雨」そして「無題」アレグレットを聴くことができる。

 

「鎮魂歌」は悲しみというより穏やかな心の平安を感じさせる。名曲だと思う。「雨」は豊かな叙情を、「無題」は軽快な曲だが、私は3曲の中で一番才能のようなものを感じた。なお「無題」のヴァイオリンは現芸大学長の澤和樹氏が弾いている。

 

https://archives.geidai.ac.jp/kito/

 

村野弘二は1923年兵庫県生まれ。1942年に東京音楽学校予科入学。この時の同期に團伊玖磨大中恩、島岡譲、鬼頭恭一、友野秋雄、竹上洋子がいるという。

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村中弘二 声聴館から

大中恩は同様「さっちゃん」の作曲家である。このとき師事したのが下總 皖一。20年前に東京音楽学校を首席で卒業、ドイツに留学して日本におけるドイツ音楽語法の先駆者とされている。門下に芥川也寸志、佐藤眞がいる。

 

私が卒業した小学校の校歌も下總 皖一が作曲している。

 

1943年本科1年秋に鬼頭同様、徴兵延期措置が撤廃され、11月仮卒業。京都の陸軍通信隊に入隊。1944年5月から9月まで伍長として相模大野の陸軍通信学校で通信への訓練を受け、11月フィリピン・ルソン島マニラに上陸。

米軍上陸後、バギオ陥落から北を転々とするが、兵隊の3分の1がマラリアで死亡。村野の最後については、部隊の生還者が伝えたとされる。草川宏同様、悲惨な最期を迎える。

以下は生還した部下の小林軍曹が村野の家族の書き送った手紙から。


翌二十一日未明(四時頃でしたろうか)一発の銃声に目覚め「自決らしい」といふので附近を捜しました処、小屋より約十米はなれた草むらに村野見習士官を発見しました。弾は喉部を貫いて居りました。服は今まで来ていた服でなく、持参していた将校服(新しい服でした)に着更て居りました。戦友達と共に見習士官が持参していた少尉の襟章を見習士官の襟につけて埋葬致しました。

 

入隊直前の11月13日、上野の奏楽堂で開催された第149回 報国団 出陣学徒壮行演奏会で、歌劇『白狐』第二幕『こるはの独唱』を発表。アルト独唱は戸田 敏子、ピアノ伴奏 太田 道子。この演奏が好評を博したため、『白狐』こは他の3作品と共にレコードに録音する。現在、レコード3枚組として現存している。

 

小村さんはオペラ「しろ狐」より「こるは」の独唱(1943年)を聴かせてくれた。アーカイブの中の新しい録音。もうひとつが歌曲「重たげの夢」(三好達治作詞・昨年不詳)。これがとっても印象的な曲。私のメモには「good!フォーレの歌曲のよう」と書いてある。今聴いても、そう思う。

 

https://archives.geidai.ac.jp/murano/

 

小村さんは、まとめの中で、15年にわたるアジア・太平洋戦争の中で日本の若い作曲家たちが自由な創作活動ができなかったが、それでも一人ひとりは懸命に自己表現を追求したこと。その中で1920年代生まれの作曲家たちは学業半ばで出征し、多くが戦死、戦病死する結果となったこと。こうした戦没作曲ア・音楽学生のの作品のほとんどは死蔵されてきたが、戦後50年を経て次第に演奏される機会が増えてきたこと。作品は演奏されて初めてその真の姿を現すもの。彼らの仕事を「近代日本の作曲家の仕事」と位置付ける事の必要性があること。伊福部などの在野の作曲家が目指した自由闊達な創作活動と、東京音楽学校に代表されるアカデミックな音楽のふたつの流れがあったが、戦時下では前者は逼塞状態に、後者は戦時体制に動員奉仕させられた結果、歪みを内包した「発展」へ向かったこと。彼らの作品をこのような視点から聞き、語り合うことがいま求められていること。

 

最後に、レジュメ補遺として出された資料に大きな断絶点があることを指摘された。

今回紹介した6人の戦没学生はみな1923年生まれでみな若くして亡くなっているが、1924年以降に生まれた団伊玖磨芥川也寸志間宮芳生武満徹、林光などの日本を代表する作曲方たちはみな長命でたくさんの作品を残しているというのだ。

 

たった1年の違いで生死が分かれる戦時の人々の運命をこの作曲家たちの人生にも見ることができる。

 

 

ここまで読んでいただき、感謝したい。簡単に講演を紹介するつもりが、ついつい調べたり聞いたりしているうちに長くなってしまった。

 

慣れ親しんだ作曲家の名前が随所に出てきて、いままで脈絡もなく聴いていた音楽が少し自分の中で整理されたような気分にもなった。

 

無言館の画学生同様、短い人生の中で精いっぱい自分の音楽を五線譜に書き込んで戦地に赴いた無名の音楽家が、まだたくさんいるのだろう。せめて掘り起こされた作品をしっかり聴いてみたい。

 

最後に武満徹の「死んだ男の残したものは」。

武満徹「うた」から