山口敬之の唾棄すべき発言「苦しんでいるのは私だけではない。伊藤さんも苦しんでいるはずだ」

今朝の5時の気温5℃。

小雨。

散歩に出るころには、朝日が雲にあたってオレンジ色に、その奥に青空がほの見える。

丹沢山塊、下の方まで降雪。

雨が降っていたせいか、近所の畑に霜は降りていない。

すれ違う顔見知りの人たち、「寒いですね」と言い交すが、帰途には身体が少し温まってきた私は、ネックウオーマーも外している。

 

今日の鳥たちは、カモ、セキレイコサギアオサギカワセミなど。みなどれも数は少ない。

 

 

Twitterやブログを見ていると、伊藤詩織さんのことで、膨大な情報が飛び交っている。

 

概略としては、

元TBS記者でワシントン支局長の山口敬之氏から性的暴行を受けたとして、被害者の伊藤詩織さんが東京地裁に損害賠償1100万円を求めた民事裁判、東京地裁は伊藤さんの主張を全面的に認めて、山口氏に330万円の支払いを命じた事件。

併せて裁判所は、山口氏が「伊藤さんに名誉を棄損され、社会的信頼を失った」として1億3000万円の損害賠償や謝罪広告を求めた反訴に対して棄却。

 

 

さまざまな情報を読んだり、見たりするのが途中で嫌になってしまうのは、どこか既視感がつきまとうからだ。

 

3つだけ、心に留まったことを書いておく。

一つ目。

 

まず、東京地裁の判決について。

いい判決は東京から遠い裁判所で出るのが通例だが、この判決を見るとそうした傾向が変わったというよりは、ようやく性的暴行事件に対する裁判所の見方が、世間の変化に合わせるように変わってきているということを感じる。

それともうひとつ、伊藤さんが出した被害届に対して警視庁は立件相当として裁判所に逮捕状を請求、裁判所はこれを認めて山口氏の逮捕状を発布。しかし、空港で帰国する山口氏を待っていた捜査官らが山口氏を逮捕することはなかった。

 

送検された山口氏に対して検察は不起訴、検察審査会も不起訴相当としたのだが、裁判所としては発布された逮捕状が、官邸の番犬とまで言われる警視庁の中村格刑事部長(当時・元菅官房長官の秘書官、現在は警察庁官房長)の指示によって執行されなかったことに対して、強い異議をもっていただろうと推察される。

このことが、判決の結論に直接関係したかどうかは別として、少なくとも裁判所はその独立性をしっかり守ったといえる。一方官邸が、安倍夫妻とも交友のある官邸べったりの記者山口氏を刑事手続きを捻じ曲げて守ったことは、政治や省庁の信頼性を失わせたのは間違いない。

これって既視感そのもの。この数年、そんなのばっかし。

さて、判決。

この部分だけは外せない。

 

「(伊藤さんが)自らの体験を明らかにし、広く社会で議論をすることが性犯罪の被害者をとりまく法的、社会状況の改善につながるとして公益目的で公表したことが認められる。公表した内容も真実である」

 

重要なのは、もちろん最後の「公表した内容も真実である」という部分で、伊藤さんの主張を裁判所が全面的に求めたことにあるのだが、それ以上に前段部分の「性犯罪者被害者を取り巻く法的、社会状況の改善につながるとして公益目的で公表した」事実を取り立てて明らかにしたことだ。

 

裁判所が認めたのは、被害者が被害者として訴えることの当たり前さ以上に、訴えそのものが「公益目的」、つまりこれからも起きるであろう性犯罪事案に対して被害者が泣き寝入りをせずに堂々と闘える、そういう場を伊藤さんはつくったのだということを、裁判所の意思表示、判決というかたちで明らかにしたということだ。

 

裁判所も捨てたものではない、と思った。

 

ふたつ目は、この事件の外枠の関する論評について。

元文部次官の前川喜平氏は、東京新聞のコラムで次のように述べている。

『(略)東京地検が山口記者を不起訴にしたのも、被害者が首相のお友達だからではないか?検察審査会の結論も「不起訴相当」だったが、審査会事務局が素人の審査員を誘導したのではないか。/「刑事と民事で判断が分かれた」と言われるが、裁判所は刑事の判断をしていない。「検察と裁判所の判断が分かれた」と言うべきだ。不起訴の背景に「法の不備」や「立証の困難さ」がるという声もあるが、真の理由は「政権による検察の支配」なのではないか?/山口記者はなぜ逮捕も起訴もされなかったのか?そこには、安倍政権による「刑事司法の私物化」という恐るべき疑惑が存在するのだ。』

 

さまざまな論評があるが、あまりにもあからさまな「私物化」が進行しているのを前川氏は在職中にいくつも見て来たはずだ。彼の言葉には重みがある。

「私物化」、まだ桜の季節ではないけれど、新宿御苑「桜」は、安倍のもの。

 

3つ目は、これぞ既視感そのもの。山口氏のインタビューの中で語られた女性の『伊藤さんは偽物の性犯罪被害者だ。ほんとうの被害者は笑顔や表情を失っており、テレビ出たり、インタビューを受けたりできないはずだ。』という主張を山口氏が真に受けて主張していることだ。

 

この理屈で言えば、性犯罪の被害者は、自ら堂々と被害を訴えることなどできない存在ということになり、性犯罪自体が立件されることなどありえないというすごい理屈が成立することになる。

 

社会的弱者の抵抗権を思い切り否定している理屈。さらにこの裏には、性犯罪被害者には相応の「隙」があるものという偏見が隠れている。

 

 

これを根拠に山口氏はもちろん、彼を支援する人々、私がインタビューで見たのは国会議員の杉田水脈氏が、「伊藤さんは明らかに嘘をついている。山口氏こそ被害者である」としていることだ。

杉田議員は、生産性発言や映画『主戦場』での根拠のない感情的なしゃべくりでもその偏狭さは明らかだが、彼女の一番の問題は、性被害が現場での事実を立証できない場合、すべて無罪となってしまうこと、つまりいつまでも女性は性被害をこうむり続けるのであり、それに対して被害を訴えることなどできないということになること、そのことに気づいていいないか、それとも意図的にそう主張しているのか。これは、慰安婦問題はなかったとする主張と全く同じ視点であることを忘れてはならない。

 

こういう主張を今まで何度も見てきた。ばかばかしい。

コラムニストの小田嶋隆氏のTwitterでの見解が、この理屈のばかばかしさを浮き立たせている。

 

「水に沈めて浮いてきたら魔女確定。無実なのは沈んだまま浮いてこなかった女だけ」

     『小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句~世間に転がる意味不明』から

 

きちんと自分を主張する人間は魔女であり、まっとうな人間は黙って死んでいけ、ということだ。

 

 

もうやめよう。

 

山口氏は、自らこの事件によってPTSDを患っているとしている。そのことを記者に問われて、

「苦しんでいるのは私だけではない。伊藤さんも苦しんでいるはずだ」という意味のことを答えていた。

 

お前がそれを云うか。唾棄すべき発言とはこういうのを云うのだろう。