8月22日(木)
早朝に起きだして、エアコンを切り、窓を開ける。
冷たい風が入ってくる。
曇天。
急にやってきた秋の気配。
境川河畔は虫の音だけ。蝉の声は聞こえない。
カモの親子、2羽の子ガモが流されるように親ガモのあとをついていく。
雨もよいだったので傘を持って出かけるが、ささずに帰ってくる。
そういえば、まだ日傘をさしていない。
9時すぎ、雨が降ってきた。
昨夜は、退職時の職場の同窓会?「お達者倶楽部」と呼びならわしている会があった。まだ本調子とは言えず「お達者」でないので、欠席。
年に一度、気の置けない元同僚たちが集まってひと晩を過ごす。ヒラも管理職もない。10年近く続いている。老人だけでなく若者、中年も。
読み飛ばし読書備忘録⑥
入院中の楽しみのひとつが、院内にあるコンビニ、ナチュラルローソンへいくこと。タリーズコーヒーの隣にある。平日は消灯時間の22時まで開いている。点滴を引っ張りながら暇つぶしに日に2回ほどヨーグルトやバナナ、飲み物などを買った。
雑誌や書籍もそこそこ揃っている。そこで
『蜜蜂と遠雷』(恩田陸・幻冬舎文庫上・下 2019年3版 単行本2016年)
を見つけた。
単行本が出た時に図書館に予約したが、待てるような順番ではなかった。2016年の下半期の直木賞、それに本屋大賞も。いつか読めるだろうと思っていた。その「いつか」が突然やってきた。
病院で読むにはたぶんちょうど良い?と上下を購入。早速ベッドで読み始めた。ベストセラーだけど、一応あらすじを。
あらすじ
3年ごとの芳ヶ江国際ピアノコンクールは今年で6回目だが、優勝者が後に著名コンクールで優勝することが続き近年評価が高い。特に前回に、紙面だけでは分からないと初回から設けられた書類選考落選者オーディションで、参加した出場者がダークホース的に受賞し、翌年には世界最高峰のS国際ピアノコンクールで優勝したため、今回は大変な注目を集めていた。だが、オーディションの5カ国のうちパリ会場では、「不良」の悪名の審査員3人は凡庸な演奏を聴き続け、飽きて来ていた。だがそこへ、これまでにない今年逝去の伝説的な音楽家ホフマンの推薦状で、「劇薬で、音楽人を試すギフトか災厄だ」と、現れた少年、風間塵は、破壊的な演奏で衝撃と反発を与える。議論の末、オーディションに合格する。
そして日本の芳ヶ江市での2週間に亘るコンクールへ。塵は師匠の故ホフマン先生と「音を外へ連れ出す」と約束をしていて、自分では、その意味がわからず、栄伝亜夜に協力を頼む。亜夜は塵の演奏を聴いていると、普通は音楽は自然から音を取り入れるのに、彼は逆に奏でる音を自然に還していると思った。マサルは子供のころピアノに出会わせてくれたアーちゃん(亜夜)を出場演奏者に見つけ再会する。3人の天才と年長の高島明石のピアニストたちが、音楽の孤独と、競争、友愛に、さまざまに絡み、悩みつつ、コンクールの1次2次から3次予選そして本選へ、優勝へと挑戦し、成長して、新たな音楽と人生の地平を開く。
これは恩田陸という作家がつくりだしたまぼろしの「コンクール」。魅力的な登場人物たちが、劇画タッチで動き出す。面白い。こんな参加者たちを俯瞰できるのは読者冥利。
しかしコンクールがこれほどスリリングなものなのかどうか。もちろん寡聞にしてそのの実態など知らないが、コンクールの裏側を描いた『ショパンコンクール 最高峰の舞台を読み解く』(青柳いずみこ・中公新書2016)や中村紘子などの文章から感じられたのは、コンクールってどこまで行っても、順位をつけること「選ぶ」ことの「基準」のあいまいさだ。
数年前、大阪国際音楽コンクールの一部門を聴いたことがあるが、この時もこの小説とはまったく別の位相の、コンクールの恣意性のようなもの。何を基準に審査しているのかい?という不満だけが残った。
物語が入り組んでスリリングであればあるほど、リアリティを欠くということもある。
正直、読みながら作者の音楽への造形の深さと、それを上回る思い入れの強さに少し引いてしまうところがあった。
主人公の風間仁や栄伝亜夜、マサル・カルロス・レヴィ・アナトールはとっても魅力的なのだが、その来歴や行動、そして演奏はあまりに現実離れしている。物語としては美しいけれど、音楽ってもっと物理的な?面もあるのではないかと思う。
タイトル『蜜蜂と遠雷』は16歳のピアニスト風間仁の来歴に由来するが、彼は
「16歳、音楽大学出身でなく、演奏歴やコンテストも経験がなく、自宅にピアノすらない少年。フランスで、父親が養蜂業で採蜜の移動の旅をしつつ暮らす。ピアノの大家のホフマンに見いだされ師事し、彼が亡くなる前の計らいで、現在、パリ国立高等音楽院特別聴講生となっている。野性的な演奏で、出場後「蜜蜂王子」と呼ばれるようになる。」
という少年。あまりにスーパーマン過ぎて、あくがなさ過ぎて物足りない。だから面白い、というのも分かるが。
文中、夥しい数の曲が出てくる。好きな曲も知らない曲もあるが、作者の、微に入り細に入りして言葉を尽くして表現される登場人物それぞれの演奏は、表現、言葉としてはわかるし、その筆力の凄さに驚かされるが、でもそこまで書かれるとなあという思いも一方にある。
たとえ文章で極致まで音楽を表現したとしても、読者からするとその文章に蹂躙されてしまうような気がしてしまう。もっと自由に聴かせてよ、という思いもある。
小説だし、本屋大賞だし、直木賞なんだし、超売れたということだから私の違和感などどうでもいいのだけれど、すっと乗り切れないものが残った小説だった。
実際にコンクールに参加する人たちはこれをどう読んだのか聞いてみたいものだ。
ということで、病院のベッドで読んだこの大長編音楽小説、私はちょっとおなかいっぱい、というものだった。