今回の講演で小村さんが取り上げた戦没作曲家・音楽学生は6人。
生年は1913年から1923年、東京音楽学校・東洋音楽学校入学は1931年から1943年である。
中で最も早い召集は、尾崎宗吉の1939年(43年に再召集)そして紺野陽吉の1941年、最も遅いのが1944年の草川博と葛原守である。鬼頭恭一と村野弘二の2人は入学した1943年に召集されている。
6人の没年はすべて1945年。
紺野、尾崎、葛原はそれぞれ黒竜江省、全州、台北で戦病死、草川はルソン島で戦死、鬼頭は霞ケ浦海軍航空隊で飛行訓練中に殉職、村野はルソン島で自決している。
小村さんは、紺野と尾崎を「在野の作曲家」と定義。
紺野は、出身が山形県西置賜軍白鷹町。医家の次男として生まれ、医学校入学のため上京するも、学費でヴァイオリンを購入、音楽活動に入る。
召集された際、すでに作曲家として活躍していた清瀬保二にそれまで作曲していた「弦楽二重奏曲」「木管三重奏曲」「弦楽三重奏曲」を託して出征。清瀬がなくなった後に家族がこの楽譜を発見したという。
このおかげで現在でも紺野の曲を聴くことができる。
小村さんが、市販されているという木管三重奏曲(山吹木管三重奏団)を聴かせてくれた。抽象性の高い重厚な音楽だった。
続いて尾崎宗吉。尾崎は東洋音楽学校(現・東京音大)ピアノ科に入学。諸井三郎に師事している。1935年二「小弦楽四重奏曲」でデビュー、楽壇から高い評価を受けたという。そのほか歌曲、管弦楽曲、室内楽など旺盛な作曲活動を行う。2度の応召により、中国・湖南省東安駅の駅長在任中に虫垂炎となり、広西省全県(全州)にて手術するも亡くなったという。
二度目の招集は1943年であるとすれば、学徒出陣によるものと思われる。30歳で駅長を務めているのも将校扱いということか。
尾崎については、無言館館主の窪島誠一郎氏が『夜の歌ー知られざる戦没作曲家・尾崎宗吉を追って』(清流出版)という本を書いている。この本、Amazonで中古を注文したのだが、まだ届いていない。
清流出版のブログに窪島氏の文章の一部が抄録されているので、紹介する。
私はおととい、つまり十月十二日の夕刻、東京本所吾妻橋の隅田川畔にある ホールのロビィにいた。凡そ十年前、私に尾崎宗吉の楽曲「夜の歌」の存在を教えてくれた音楽プロデューサーの池田逸子さんの企画する、ロビィ・コンサート「死んだ男の残したものは」を聴くためだった。
その日のプログラムには、尾崎宗吉の「ヴァイオリン・ソナタ第三番」が組みこまれていた。この曲は、先の大平洋戦争に二度召集されて三十歳で満州で戦死した尾崎が、最初に出征した二十四歳のときにつくった作品で、第一楽章「夜の曲」と第二楽章「トッカータ」を、ヴァイオリン荒井英治、ピアノ山田武彦といった実力派のソリスト二人が演奏する試みだった。
演奏のはじまる一時間近くも前からロビィの片すみにすわった私は、そのプログラムをにぎりしめ、それからやってくる何か重い鈍色をした時間の到来に身を固くしていた。それはまるで、池田さんのいう「輝く今日」も「また来る明日」も信じられない人間が、ただ縋りつくように、やがて自分の心に射しこんでくるにちがいない一筋の「希望」の光を待ちわびている姿だった。
同行した親しい編集者のFさんが
「ビールでも買ってきましょうか」
そう声をかけてくれたのだが
「いや、今日はシラフで聴きましょう」
私はこたえた。
喉はカラカラだったが、缶ビール片手に演奏を聴くことに抵抗があったからだ。
とにかく、私は息をつめて、尾崎宗吉の「ヴァイオリン・ソナタ第三番」が演奏される瞬間を待っていた。
「絶望」から「希望」へ、あるいは「希望」から「絶望」へ、強靱な一本の音のロープによって、聴く者の心をはげしくゆさぶり振幅させる、あの尾崎宗吉の「夜」の訪れを待っていたのだった。
私はそのときふと、自分の美術館に飾られている、尾崎と同じ満州で二十六歳で戦死した中村萬平という画学生の絵を思い出していた。
萬平は尾崎より一年あとの大正五年九月に生まれ、昭和十一年四月に東京美術学校(現在の東京芸大)油画科に入学し、モデルとして学校に通っていた霜子と学生結婚、十七年に出征したときに霜子は身籠もっていた。萬平は生まれたわが子の顔をみることなく、また出産後半月で他界した霜子をも看取ることなく、昭和十八年八月二日、満州武川の野戦病院で失意のうちに死んだ。
私の眼にうかんだのは、萬平が出征直前に描いた「霜子の像」だ。
それは、仄昏い緑黒色のひろがる画肌の奥に、片ヒザをたてて両腕で乳房をかかえ、ひっそりと背高い椅子にすわっている霜子の裸像だった。絵の職業モデルをしていただけに、その肉叢は雄々しいまでに豊かで、立てたヒザや太腿にも張りつめたような生命感があった。闇のなかからこちらをうかがう両眼は、大きく見開かれているようにも、半ば閉じられているようにもみえ、口もとにはかすかな微笑みさえうかべているようにみえる。しかし、古びた画布の中央を横切る幾条もの、鉄条網でも思わせるような亀裂線は、まるで戦後六十余年の「時」を緊縛しているかのように痛々しいのだ。
あれはたしか十三年も前の、私が信州上田に戦没画学生の遺作をならべる美術館「無言館」を開館した春のことだった。私は「無言館」に中村萬平の絵を展示するために、萬平の遺児である中村暁介さんの住む浜松市中区の家を訪ねていた。
納戸の奥から暁介さんが運びだしてきた「霜子の像」に眼をあてたまま、私がしばらく黙りこんでいると
「これは……父が私と母とを描いた母子像なんです」
暁介さんがつぶやくようにいった。
「母子像?」
私が怪訝な顔をすると
「この絵を描いたとき、母のお腹にはもう私が入っていましたから」
暁介さんはそういって笑った。
*
そうか、あの「霜子の像」を描いた中村萬平も、この浜名湖の白い光をあびる駿河の里で生まれ育った人だったか、と私は反芻した。
しかも、尾崎宗吉と一歳ちがいだった萬平が応召したのは、美術学校を卒業した翌年の昭和十七年二月のことで、尾崎はそのときすでに満州の華北に出征していた。同じ浜名湖を郷里にもつ一人の音楽生と一人の画学生は、同じ戦地満州の華北ですれちがっていたかもしれないのだ。そして、戦死したのも同じ満州でだった。中村萬平は応召して僅か一年半後の昭和十八年夏に武川で餓死に近い戦病死をとげ、尾崎もその翌年五月、湖西省全県の陸軍病院で中垂炎のために息をひきとっている。
「あの戦争で亡くなったのは、若い画学生たちだけではなかった。音楽を志していた若者も、演劇をやっていた若者もみんな戦死した」
私はいつか、「無言館」を訪れた演劇評論家の尾崎宏次さんがそんな言葉をもらされていたのを思い起こした。
たしかに、そうだ。
あの大戦は、万余の人の命を奪っただけでなく、その命が生み出すであろう数知れぬ「創造」の命をも奪ったのだ。
この世に生み出されたであろう数々の名作の、名画の、名曲の命を──。
小村さんが聴かせてくれたのは、CDとして販売されている「尾崎宗吉作品集成 夜の歌」(ALM RECORDS, 2011年)だと思うが、もちろん手元にないので、youtubeから84年に演奏された井上頼豊さん(チェロ)林裕子さん(ピアノ)の演奏を載せる。