昨日、東京で木枯らし一号が吹いたとのこと。
夜、青葉台からの帰り道、南町田の駅から歩いたのだが、存外にあたたかく、少し厚手のジャンパーは脱いでしまった。
木枯らし一号といえば、いつもそこそこ冷たい風が吹くものだが、昨夜は風もなく、少しだけ欠けた月が出ていた。
昨夜はフィリアホールで、ピアノとヴァイオリンのコンサート。
以前にも一度聴いたことのある二人の組合わせ、梯剛之と松本紘佳。
ベートーヴェン生誕250周年と謳っている。
250周年ならばなおのこと、年末の第九など各地で華々しく演奏されるはずなのに、今年はあちこちで中止の声が聞こえる。
そんな中、一席ずつ空けてはあるが、ホールでこうしたコンサートが聞けるのは嬉しい。
曲目は、ベートーヴェンの大曲が2曲。あとはバルトークとショパンである。
梯剛之は、小児がんで生後1か月で失明。4歳半からピアノに取り組み、小学校を卒業と同時にウイーン国立音楽大学準備科に入学。ロン・ティボー国際コンクールで第2位をはじめとして数多くの賞を受け、ヨーロッパ各地でプラハ響など多くのオーケストラと共演。アラン・ギルバートや小澤征爾、小林研一郎の指揮でN響、読響などでソリストを務めている(プロフィールから)。
Amazonでみると30枚以上のCDが出ている。
さて今日は「月光」。「悲愴」「熱情」とともに聴きなれた曲。でも、ホールでナマで聴くのは初めて。
「月光」というタイトルは、のちに詩人レルシュタープが「レマン湖の水面に映る月の光のようだ」と語ったことからつけられたという。ベートーヴェンがつけたのではない。この名前でよく知られるようになった曲とはいえ、泉下のベートヴェンにとっては、イメージの固定化という点で迷惑な話だったのではないだろうか。
そういえば交響曲第5番の「運命」も、弟子のシンドラーが勝手につけたもの。ベートーヴェンにとってシンドラーはけっこうな困ったちゃんだったようだ。「勝手なことをするな」と怒っていたかもしれない。このへんは昨年読んだ『ベートーヴェン捏造』(かげはら史帆)に詳しい。
「ダダダダーン」は「運命が扉を叩く」なんて言われるけれど、扉を叩く音かどうかはわからない。ただこれほど印象的な出だしも珍しい。
2楽章の流麗な優雅さ、3楽章の繰り返される思索、そして4楽章の圧倒的な歓喜からすると、聞き終わったときには「運命」というより、残るのは内側から湧き上がる何とも言えない心地の良い高揚感。冒頭の深刻さなどすっ飛んで、生きる希望のようなものを感じさせられる。まだまだ大丈夫だ!さあ行くぞ!みたいな。
今回『月光』を聴いて、たしかに最初の印象的な旋律は月光と云えなくもないかなとは思ったが、「月の光」はドビュッシーのほうがふさわしい。2楽章では月光は消えて広間の明るさだ。優雅で軽快。3楽章は激情があふれ出るような。いつも「熱情」や「悲愴」と取り違えそうになる。
どちらかと言えば、「波」の印象。凪いだ海が少しずつ風が吹いて波立ち、嵐になるような。
梯剛之は古典派風?の抑制した響き。あざとく耳目をひこうとはしない。淡々とややくぐもった響きを聴かせた。
バルトークの小品から、ショパンの「子犬のワルツ」。短い曲だが、少しずつ響きが明るくなってとき放たれる予感。
「幻想即興曲」で一気に爆発。小気味いいほどの堂々たる響き。前から7列目の座席、久しぶりにピアノの音に包まれる快感。
ここで休憩。
後半は「クロイツェルソナタ」。30分ほどの大曲。
松本は当然のようにステージ中央に立っており、松本は梯には一瞥もくれない。
しかし、二人の間には私たちには測り知れないつながりがあって、きわめて難解(だと思う)な曲想をいとも簡単にやり取りする。素人には想像もつかない地点。
ピアノソナタに比べ、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタは、弦楽四重奏などもそうだが、晩年に向かって構造が複雑になっていき、曲想も思念的というか内省的になっていく。正直、その全体像を自分ではつかめているとも思えないし、ほぼ漫然と聞いているだけである。それはそれで、楽しい。
それでも、幾つもの聞き覚えのある旋律が聞こえてくるのは、ベートーヴェンのしつこさか。とにかく何度も何度も納得いくまで繰り返す。またかと思っていると、ちょっとひねりをくわえた変奏になっていく。納得がいくと、そこからまた新しい局面に向かうといった感じ。面白いけれど疲れる。
まったく不安を感じさせない精妙な建築物が出来上がったような演奏・・・と思った。
カーテンコールを終えて、アンコールかと思ったら、梯がマイクを取った。
「えーと、途中2楽章で一部をとばしてしまいました。アンコールということでもう一度2楽章をやります」
こんなことって珍しい。
だいたい、とばしたといったって、私にはどこを飛ばしたのかさえまったくわからない。精巧な建築物は、施工ミスがあったということだ。
演奏のあとの梯の話だと、以前に一度だけオーケストラとコンチェルトをやっているときに、オケに出遅れたことがあるとか。その時以来のことだという。
「神様が、もうちょっと勉強しろと言っているのかもしれません」。
松本も平然と弾いていたし、よほどの愛好家でない限り、そうだったの?だろう。
2回目を聴いて、たぶんここだろうというのは察しがついたが確信はない。
でも二人とも満足そうな様子。やっぱりきもちわるいのだろう。
岩城宏之の著書に
「頭の中でスコアを間違って2ページ一緒にめくってしまったことがある」という記述があった。
暗譜していても、そういうことがあるらしい。
梯も暗譜がどうも・・・・と口ごもっていた。
途中で演奏が止まってしまったというのを一度だけ見た?ことがある。
山田一雄指揮神奈川フィルハーモニーの第九。あれはたしか85年。私はステージの合唱団の中にいた。
4楽章。中盤のテナーのソロ。単音の行進曲のリズムから始まって少しずつ音が重なっていき、感極まるようにテナーのソロが入ってくるところ。
テナーの歌手の声が聴こえない。出られなかったのだ。
歌手の背中しか見えないが、指揮者の山田一雄はよく見える。
一点の曇りのない銀髪の山田はあわてず、静かにオケを止める。そしてもういちど徐ろに指揮棒を振り下ろした。同じ場所からやり直したのだった。
2度目は無事に入った。何事もなかったように最後の歓喜の爆発まで駆け上っていったのを憶えている。
昔話、突然思い出す。老人ぽい。
アンコールは、梯がフランツ・リストの「森のざわめき」(たぶん)
松本が『タイスの瞑想曲』(たぶん)。
久しぶりのふたりでの夜の外出だった。
どこかで酒でも飲んで帰ろうとも思ったが、終演は21時。いつもならそろそろ歯磨きの時間。長津田の「彩」も今日は定休日。
それで、月の光の下、歩いて帰還したというのである。