5月24日、かつての同僚SさんHさんと菊名の「野菜レストランさいとう」でお昼に待ち合わせた。久しぶりのおしゃべりをしようという企画。少し汗ばむ陽気。電車を降りたら、街を歩く人はいつのまにかみな半袖になっている。、長袖の綿のシャツの袖をまくり上げる。
10分ほど前に着く。
エントランスのベンチにSさんが坐っている。満席だという。
平日のお昼に36もある座席が埋まるとは思いもしなかった。近辺にお昼を食べるお店が少ないこともあるが、菊名はどんな街になったのか。
種々検討の結果、となりの駅大倉山のロイヤルホストに行こうということに。バイクのHさんが先に行って席を取っておいてくれるという。わたしとSさんは炎天下を歩くことに。歩いて15分ほどの距離だ。
3人は初任校こそ違うが、同期で同年齢、みな今年66歳を迎える。
Hさんは定年退職後も、あちこちの学校から請われて、英語科の非常勤講師として働いてきた。これは彼女が話してくれた最後の学校となった某中学での話。
放課後、職員室に生徒がやってくる。ドアを開けて「○○先生、いらっしゃいますか?」。
今では、職員室の中、つまり教員のデスクのところまでは生徒を入れない学校が多い。
何やら話し込んでいる教員は大きな声で「いません!」とだけ云ってまた話し込む。
教員は生徒の方は見ない。熱心に自分たちの職務に「専念」しているのだという。
こういうことが何度かあって、理不尽なことには黙っていられないHさん、とうとう職員会議の場で発言。このへんがHさん。定年退職した非常勤だし、よけいないことを言って…などとは考えない。忖度なし、見かけによらず猪突猛進。
「私も偉そうなことを言えた義理はないが、この学校、やはりおかしい。生徒に対しもう少していねいな対応ができないかと思う」。要約すればそんなことを発言したらしい。
Hさんからすれば、生徒が職員室に来るのは、単なる用事のこともあれば、何か問題を抱えている場合もある。なかなか言い出せない生徒が、意を決して職員室を訪れることもある。目当ての先生のいる、いないを答えるだけならサルでもできる。せめて顔ぐらいしっかり見て対応すべきでないのかということだ。
会議の終わりに校長が立ち上がって
「H先生、さきほどは重要なご指摘ありがとうございました」と云ったという。
Hさん「あきれちゃってさ」。
私も笑ってしまった。この話、ジョークでないところがすごい。
ここは「ありがとう」ではなく「申しわけない」ではないか。
職員のそうした対応を知らなかった自らの至らなさを認め、今後は気をつけていくからと云うのが校長の正しい?答え方でないのか。
職員会議が終わった後、今度は副校長がHさんの座席に来て小さな声で云ったという。
「先生、さっきのあれって、だれ先生のことですか?」
論外。
このレベルが管理職をやっている。生徒のほうを見ない教員、その教員を人事評価はするが、どこをみているのかよくわからない管理職。この手の話がとにかく多い。起きなくてもいいトラブルの元をつくってしまうこともある。
教員は忙しい、というのは今では衆知の事実だ。しかしこういう傾向は「働き方改革」にかかわる問題なのだろうか?
万が一改革が進んだとして教員の多忙さが緩和されれば、こうした教員や管理職は減っていくのだろうか。
Sさん、大病を患っていると云う。いつものように若々しく明るくユーモアを交えて話すその中身は深刻だ。同じ状況を自分ならばこんなふうに話せるだろうか。
Hさんとは2年間一緒に働いた。Sさんとは学年も同じで5,6年働いだろうか。
いつも力が抜けていて、不機嫌なときはまれにあっても怒ったところは見たことがない。情緒の安定は、教員の重要な資質のひとつだ。だからといってSさん、何事も中庸を重んじ、君子危うきに近寄らず、ではない。話していうちに30年も前のことを思い出した。
「あんとき、私もいたよ」
あれはたしか90年の夏のことだ。中2の学級担任だった私は、夏休みのクラスの行事に「一日トライアスロン大会」を企画した。名前は立派だが、ようするに夏休みのレクリエーション企画である。もちろん弁当もちである。
朝、地域のボーリング場に集合して、ボーリング大会。「スロー」である。これが1種目目。2種目目は、そのまま電車に乗って鎌倉の由比ガ浜海岸で泳ぐ、つまり「スイム」、最後は鎌倉から30キロ足らずの学校まで歩いて帰る「ウオーク」、これで3種目、つまりトライアスロン。
泳ぎ疲れて、そろそろ日が西に傾き始めたころ、秘密にしていた最後の種目を伝える。「ここで解散です。私たちはこれから歩いて帰ります。みなさんは私たちと一緒に歩いていもいいし、疲れた人は電車でもバスでクルマでも自由に使って帰っていいですよ」。
疲れていても中学生は、こういうノリが大好きだ。「えー、うっそー」などといいながら、だれ一人「先に帰る」とは言いださない。
20数名と3人の教員が、とりあえず北鎌倉に向かって歩きだしたのは、夕方4時ごろだったろうか。遅くとも9時には着くだろうということで、終点の学校ではクラスの保護者らが豚汁を用意してくれる手はずに。
しかし、あんのじょう朝からの「二種目」で疲れている生徒らは、思いどおりには歩いてくれない。
「先生、疲れた」「先生、アイス」「先生、ハラへった」「先生・・・何でもない。呼んだだけ」・・・。
「だから言ったじゃん、無理しないでいいんだから、疲れたなら電車かバスで帰れば」。
「いやだ。絶対歩きとおす!でもハラへった」。
途中、雷を伴った激しい雨が降る。天気予報はちゃんと見ていたのか?
誰一人雨具など持っていない。急きょコンビニでごみ袋、そして一人一個のおにぎりを買う。
ゴミ袋の底を切ってポンチョ風の雨がっぱ。強風を伴う大雨、生徒の動きはどんどん鈍くなる。
学校まであと10キロほどの京急線上大岡駅に着いたところで万事休す。改札口の傍らにみな坐りこんでしまう。
ゴム袋のポンチョをかぶった中学生の集団はかなり異様。帰宅を急ぐ人々は一瞬視線を投げるが、首をかしげて通り過ぎていく。
ようやく再び歩き始めて桜木町の東横線(今は走っていない)高架下あたりに。このころには空は晴れ上がってお月様が見えた。風はやみ、雨のおかげで気温が下がり、気持ちのいい夏の宵。
あと3キロ!
学校到着は予定を大幅に遅れて深夜の12時過ぎ。
携帯電話のない時代、途中で何度か役員の保護者宅に電話は入れた。
でも中学生とはいえまだ子ども、深夜まで引っ張りまわすなんて非常識だという批判は避けられない。覚悟はしていた。が。意外に逆風は弱かった。
この無謀な企画のきっかけは、マジメな生徒たちの「先生たちはいつもフリョ―の相手ばかりしている」だった。
この企画?を「わかった」のひとことでOKを出したのが当時のK校長。前年の14時間ソフトボールをし続ける「マラソンソフトボール大会」もノーチェックだった。
そして、この日いっしょにまる一日付き合ってくれた副担任の1人が、Sさんだった。
Sさんは途中ひとことも批判めいたことも言わず、最後まで面白がってつきあってくれた。
もし誰かが急病になったり、交通事故に遭ったりしていたら、今じゃなくても大きな問題になったはず。いざという時のための「保険」が、一緒に行ってくれたSさんはじめ同僚の先生たちだった。
古い話が出たところで2時間ほどのランチはおひらきとなった。お日様はまだ中天にあって衰えていない。呑まずに語りあうのも悪くない。
現代の職員室の話と30年ほど前の夏休みの話。
二つはつながった同じ時間の延長線上にあるはず。なのに、どこかで断線している。
生徒指導に明け暮れ、深夜まで働かざるを得なかった時代、大変だったけどやりがいはあったよね、なんて云うつもりは毛頭ない。私だって、何とかしてくれ!と叫びたかった。
ただ、その生徒指導の向こう側にサイレントマジョリティの生徒たちがいて、つぶやいていたのも事実だ。
「先生たち、おれたちとも遊んでくれよ!」
でも、遊ばせるのは疲れる。自分が遊んでおもしろいこと、あのころいつもそんなことを考えていたような気がする。
やっぱり、どっか断線しているな。