『サバ―ビコン 仮面を被った街』(2017年・アメリカ・104分・監督ジョージ・クルーニー・主演マット・デイモン)
不思議な映画である。
1950年代のアメリカ、人工的につくられた白人だけの街サバ―ビコン。ここに住むガードナー一家が物語の中心。
ガードナー(マット・デイモン)は、中堅会社の幹部のようだ。しかしお金に困っている。
妻のローズは交通事故(単なる事故なのかそうでないのか、よくわからない)で車いすの生活、1人息子ニッキーの3人家族だが、ここにローズの姉のマーガレット(ジュリアン・ムーアの一人二役)が同居して3人の生活を支えている。
白人だけが住むこの街に、ある日黒人一家マイヤーズ家が移り住んでくる。彼らの家はガードナー家と裏庭でつながっている。
ローズの勧めもあってマイヤーズ家の息子とニッキーはすぐに仲良くなる。ありがち。
しかし、街の人々はこの黒人一家に対し激しい憎悪を抱き、集団心理が暴走、最後にはマイヤーズ家を焼き討ちしてしまう。
これは1957年にペンシルベニア州レヴィットタウンで起きた人種差別事件が下敷きになっているとのこと。この事件を背景に、ガードナーが引き起こす保険金殺人事件が重ねられる筈なのだが、これがまったくつながっているように見えないのが不思議な点だ。
黒人差別の描き方は、今ではどうなの?のレベルの観念的な差別論。今の時代にこういう事件を映画化することにどれだけの意義があるのかと考えてしまう。
今年のアカデミー賞作品賞の『グリーンブック』を高くは評価しないが、長いアメリカの歴史の中で、縦横に入り組むさまざまなルーツを持つ人々の関係性の中に、差別のありようを見ようとしている点は理解できる。それは現代に通じる普遍性を帯びている。
『サバ―ビコン』はどうか?
題材をどの時代に取ったとしても、問題を現代から解き明かす際には、その時代と現代をつなぐなんらかの「補助線」が必要だと思うのだが、この映画は反黒人差別という観念的で骨がらみの主張で終わっていて、成功していないように思えた。
暴徒と化す人々の心情に分け入ってもいないし、マイヤーズ家もただただかわいそうな被害者として描かれている。わざと?
一方の保険金殺人事件はというと、これもなんだかよくわからない。マット・デイモンはじめそれぞれの登場人物の内面がちっとも描かれず、複雑な(でもないか)利害関係と性急な展開だけが淡々と描かれる。マット・デイモンの起用の意味がわからない。
唯一狂言回し役のニッキーの心情が伝わってくる。ニッキーだけが現代とつながっているような?が、彼を取り巻く状況があまりに絶望的なのに、ニッキーはけなげすぎてリアリティを欠いている。
マイヤーズ一家排斥運動の陰で行われるガードナーによるローズの嘱託殺人、二人の犯人は面通しでニッキーに顔を見られたことを理由にニッキーにも刃を向ける(ガードナーとマーガレットは面通しで、この二人は「犯人ではない」と断言、ニッキーは「なぜ犯人だと云わないのか」と父親と叔母に不信感を抱く)。
マーガレットは新たなガードナーとの生活に邪魔となるニッキーを毒入りのサンドウイッチで殺そうとする。
ガードナーもニッキーを少年士官学校?へ入学させて、遠ざけようとする。
そこにガードナーとマーガレットの保険金詐取を目的とした嘱託殺人に対し、かまをかけて暴き、金をゆすろうとする保険屋が登場する。
この保険屋を殺そうと画策するガードナーとマーガレット。そしてガードナーは保険屋を殺してしまう。
さらには嘱託殺人の犯人らはガードナーに対価を払えと迫る。追いつめられ、破滅へ向かうガードナーとマーガレット。
どれもが計画性がなく、したがって簡単に破綻していく。皆が皆、簡単に破滅の方向に向かっていく。
重ならない二つの事件、暴動も保険金詐取、も同じような構造であることに気づく。
どちらも、だれも止めない、それどころかどんどんエスカレートしていく。暴徒集団もガードナー家のふたりも同じだ。
ポスターから感じられる無機質な奇妙さとこれはつながっているのか?
初めは、国連のピースメッセンジャーを務め、政治活動にも熱心だというジョージ・クルーニー、リキが入り過ぎっちゃったのかな、と。理念が先行して、映画としての面白味が消えてしまっているよと考えた。
そうとも言えぬ。
ジョージ・クルーニーもマット・デイモンもあえて破滅に向かう様を淡々と描くことで、人間がもつ理性では測れない不可解さ、不気味さを表そうとしたのかとも考えられる。観念的ともとれる差別論も織り込み済みか。
映画として成功しているか?と問われれば、不気味ではあるけれど、「否」と答えるしかないのだが。 (TSUTAYA)
『The Upside人生の動かし方』(2017年・アメリカ・118分・監督ニール・バーガー・主演ケヴィン・ハート・ブライアン・クランストン・ニコール・キッドマン)
『最強のふたり』(2011年・フランス・原題:UNTOUCHABLE)のパクリかと思いながら見た。パクリにしては主演3人の名優の演技が魅力的でとっても自然。アメリカに舞台を移したリメイク版。3人の演技はそれぞれ際立っていて素晴らしい。よく出来ているのに、既視感が先行し見終わったあとの満足感、充溢感は『最強のふたり』に及ばない。なぞるだけではパクれないものが本家版には確かにある。
邦題はいずれも不可。(Amazonプライム)
『シャボン玉』(2016年・日本・108分・監督東伸児・主演林遣都・市原悦子)
封切り時に映画館で何度も予告編を見た。「見なくていいな」と思った映画。「恵まれない少年が罪を犯して逃げ込んだある山里で、ひとりのおばあさんとの心温まる交流を通して人間らしい心を取り戻していく」といったありがちなものにみえた。実際にみて、やはりそういう映画だった。みなければいいのにとは思ったのだが、市原悦子をみてみたかったのだ。
全体に演出が過剰。地元のお祭りをかみ合わせているが、こういうのはうまくいかないとしらける。この映画でもほとんどかみ合わせが効いておらず、なんだかなあと思った。なにやらストーリーと関連付けているのだが、田舎への愛着の押し付けを感じる。
『羊の木』(2018年)などの田舎の取り込みの方が鮮やかに思えた。
主演の林遣都はややスケールが小さい。訴えてくるものが弱い。もっとギラギラしたものがあるといいなと思った。市原悦子は上手い。しかし演出なのかそれとも記録係のミスなのか、時々年齢が一定しないシーンがある。雑。綿引勝彦のシゲじいは威厳がありすぎ。意味もなく猟銃を見せびらかしている。リアリティなし。唯一印象に残ったのが市原悦子の息子役を演じた相島一之。息子役にしてはやや若い設定だが、狂気を演じるに迫力がある。もっとみてみたい役者である。
何とか最後まで見通した。(Amazonプライム)
なかなか「暇つぶし読書」までいかない。