映画『ブラッククランズマン』ストーリーと登場するキャラクターを「観客」という神の位置から見るのでなく、「では、おまえはどこにいるのか」と映画は迫ってくる。

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   忘れないうちに映画、先ず二本について書いておこう。

 

「バーニング劇場版」(2018年・韓国・148分・イ・チャンドン監督・主演ユ・アイン・2月公開)★★

 


 「劇場版」という変なタイトルがついているが、昨年暮れにNHKで95分のバージョンが放映されたことによるらしい、みていないが。


 この作品、カンヌでパルムドール賞を争ったとか、アカデミー賞作品賞の9作品に残ったと云われるが、正直、私には退屈だった。

 タイトルも含めて村上春樹の空気を感じさせるところがいくつかのシーン、キャストのキャラクターの立て方、セリフに見られるも、それが何?という感じ。

 ところどころに感じる既視感、たしかに村上春樹らしさはあるが、148分を貫く映画の面白さがないと思う。

 ストーリー性がないということではない。ストーリーなんかなくても面白い映画はたくさんある。何というか内向き。

 映画に中に入っていけなかったし、したがって何も伝わってくるものがなかった。昨年封切られた『ハナレイ・ベイ』はどうなのだろうか。『ノルウエイの森』もほとんど印象に残っていない。

 

「ブラック・クランズマン」(2018年・アメリカ・135分・原題:BlacKkKlansman・スパイク・リー監督・主演ジョン・デヴィッド・ワシントン アダム・ドライバー)★★★★★


 タイトルの意味は「黒人のKKKメンバー」のような意味。Kのスペルをタイトルに3つ並べている。クークラックスクラウンに対して真っ向勝負だ。


 すごい映画だ。コメディーをしっかり楽しませながら、同時に観客に対し、アメリカ社会に対して鋭い批評、批判の矢を放っている。


 その一つが冒頭のシーン。『風と共に去りぬ』。何千人の負傷した兵士たちの姿から、カメラが空中に引いてくるとアメリカ連合国陸軍の軍旗(南部連合旗)がはためいている。奴隷制度を温存し合衆国から離脱して南北戦争を戦った連合国軍の旗だ。のっけから「ほら、これでどうだ?」である。今では公的に掲げられない旗を映画に一場面としてまず掲げる。

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 このシーンは、ラストに10数秒流れるさかさまの合衆国国旗とつながる。今のアメリカだって差別を温存しているのではないかというメッセージとして読める。こういうシーンを入れながら商業映画として成立させるスパイク・リー監督には恐れ入ってしまう。
 

 単に旗一枚を骨がらみに使うのではなく、『風と共に去りぬ』のシーンを使ったのは、「名作」と名高い『風と共に去りぬ』とはいったい何だったのかと問う。

 その社会、その時代をちゃんと見ろよということだろう。登場人物の白人男性はレッド・バトラー以外みなKKKのメンバー。KKKを肯定的に描き、黒人奴隷のありようを捻じ曲げて描いた、いわば奴隷制度を正当化する白人貴族の物語であるわけだが、これを無批判に無上の美しい物語と受け入れる、そういう映画の見方をもう一度考え直してみたらどうだい、と云っているようだ。日本でも「風と共に去りぬ」は依然として名作だ。


 ストーリーは、黒人警官が白人に成りすましてKKKの中に入り込み、KKKの謀略を暴くというものだが、それ以上に驚くのは、スパイク・リー監督はストーリーの面白さで観客を映画に惹きつけながら、けっして観客を映画の中に埋没させないことだ。


 KKKのメンバーが集会の中で叫ぶ「アメリカファースト!」はまさに今のアメリカであるし、シャーロッツビルの暴動に対し「双方に責任がある」としてKKKを擁護したトランプ大統領の映像もふんだんに出てくる。また映画『国民の創生』(1915年)に熱狂するKKKメンバーの描写は醜悪だが、リアルでもある。

 ストーリーと登場人物のいくつかのキャラクターを「観客」という神の位置から見るのでなく、「では、おまえはどこにいるのか」と映画は迫ってくる。


 独特のスラングやジョーク、それに各所で挿入される音楽も私にはほとんどわからないが、それは別としても差別をテーマにしながら観客を「気持ちよくさせない」スパイク・リー監督の力量、そして批評性はすごいと思う。

 

 自分のおかれた立場をいつの間にか失念させ、「なんとなく気持ちよくなりたい」という、ある種の思考停止こそ、差別を温存させるものだとの主張がそこにはあるのではないか。

 

 今年のアカデミー賞授賞式で『グリーンブック』が作品賞を受賞したと発表されたとき、スパイクーリーは会場を離れたというが、これを児戯と嗤うわけにはいかない。スパイクーリー監督は『グリーンブック』的な映画を忌避したところに、自らが拠って立つ場所があると確信しているのではないか。


 このブログでも少しだけ触れたが、『グリーンブック』には差別問題を扱いながら「おまえはどこにいるのか」という問いかけがいつの間にか封印され、空の高みに身を置いて、差別は大変な問題だけど、いい映画だったよねと思わせるからくりがある、と私は思った。「気持ちよくさせる映画」である。言い方を変えれば「思考停止」を誘う映画ともいえる。


「ブラッククランズマン」にはそれがない。『グリーンブック』をみ終わったあとの、何か尻がむずむずして落ち着かないあの感覚が、この映画にはない。


 何の予備知識もなく見るのもいいけれど、できればアメリカの政治や歴史、音楽、映画に詳しい人にシーンごとに説明をしてもらえるといいなと思った。

 

 

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