5月1日
「日本人の絆を感じます」
「これからの新しい時代が素晴らしいものとなることを祈っています」
「長い間本当にお疲れさまでしたと云いたい」
ミレニアムのときも同じだった。
大晦日と何もかわらない。
各地で行われたカウントダウン、そして乾杯。
ゆく年くる年か?
感極まって吐かれる言葉のなんと軽いことか。
勘違いして年越しそばでも食べている人の方がどれほど罪がないか。
政治と マスコミとが垂れ流す夥しい情報に、安易かつ無節操に乗っかってモノを云う人たち。
空虚だなと思う。
30年前も、悲しいとか残念だとか、訊かれれば応えてしまう人々がたくさんいた。
そして何かを懼れるように「それはまずいでしょ?」という忖度、自粛。
よけいなことはしないで自宅で逼塞するのがいちばんだよという面従腹背。
レンタルビデオ屋は大繁盛だった。まだよかった?
時間を奪われる。時間を差し出す。時間を自分に被せる。
天皇に感謝し、天皇を敬愛し、天皇とともに生きる。天皇こそ心の拠りどころ、・・・なんて考えているわけではないだろう。それならば話は別だが。
積極的に肯定しているわけではないけれど、あえて否定をしてまで他の人と区別はされたくない。
「こういう時はノリで楽しまなきゃ」の声。
ノッていればその時間、いやその時間以降もいろいろなものを見なくても済む。
「それがいいんだよ」と云うのは若者たちの声か?いやいや喜んでいるのはもっとも老獪な人たち。国民を上手に動かす術に長けた人たち。
改元イベントはオリンピックそのもの。
ノリたくない。目を避けていたい。何も言わず、テレビは最小限に。新聞は老眼鏡をかけずに斜め読み。
30年前、1989年の手帳を引っ張り出してみた。
1月7日は土曜日。
前年の9月から重体報道が始まり、年内は自粛の嵐。
手帳の1月7日の欄の最初に「Xデー、6:33」の記述。当時、昭和天皇の死は『Xでー」と称されていた。多くの人が初めて経験する代替わり。不気味で不安な空気が「Xデー」に表れていた。
次に「S来訪」とある。25歳になる卒業生のSが遊びに来る予定ということか。この日、Sは来たのか来なかったのか。
続いて「12:00~1:00執行委」とある。
当時、私は独立系の少数組合の執行委員長だった。
昼には組合事務所に執行委員を集めたようだ。
その下に「臨時大会 3:00~4:00」とあって、右端に「抗議文→市教委」とある。
「Xデー」に対して、準備はいろいろなところで粛々となされていた。組合も同様にXデー対応を事前に固めていた。
それに従って執行委員会を開き、同時に全組合員を招集し、臨時大会を開催したのだろう。
横浜市教委は朝のうちに全学校の校長に対し、半旗掲揚を含めた「弔意奉表」の指示を出す。これに対して組合は「弔意の強制をやめよ」という抗議文を出したのだろう。
その下に「事務所開き4:00~6:00」とある。
これは従前から予定していた事務所開き、いわゆる組合の新年の旗開きである。
たった20数名の小さな組合。しかし一寸の虫にも五分の魂。断固として(組合的用語?)自粛せずに決行したようだ。
「7:00~12:00 麻」とあってその横に「I・S・M +7」。とある。「麻」は麻雀のこと。組合内の独得のルール、ありありの東まわしに鳥打ち。対戦相手3名の名前と、+7は成績だろう。負けはしなかったようだ。この日、午前様。
1月8日、日曜日。手帳には「出勤11:30」「ビラづくり・資料印刷・校長交渉」の文字。
憶えているのは校長交渉。K校長には前日のうちに、電話で交渉の申し入れをしている。
要求は、天皇逝去は学校教育とは直接関係がないのだから、「半旗を掲げない、特段の対応をとらない」ことだったはず。K校長も休日出勤。
交渉は簡単に終わった。「○○(私の名前、呼び捨て)よ、いろいろあるけどよ、なにもわざわざ事を荒立てたって、学校の中、ちっともいいことなんてねえよ。○○も立場上云わなきゃなんねえこともあるだろうし。お互い、つまらない争いはやめよう」といった内容だったのではなかったか。
その当時、学校は荒れていた。非行と云われるもののほとんどがあった。教員は疲弊していた。チャイムが鳴っても職員室の座席から立つことすらできないまま療休に入った教員もいた。
そんな状況の中では、外から持ち込まれるあったことすらない人の「葬儀」は、リアリティ皆無だった。
争わず、交渉は終わった。
その下に「事務所待機 3:00~5:30 M・I」とある。3人で各職場からの連絡を待っていたのだろう。「大漁 6:00~9:00 I」は、二人で「反省会」をしていたのか。
1月9日、月曜日。始業式。手帳には「弔旗掲げず・講話で触れたのみ」とある。校長は約束を守った。「なあなあ」のように映るかもしれないが、一校長の判断としては大きなものだったと思う。悩んでいるところなど一切見せない人だった。
このころ、ほとんどの教員を組織していたのは日教組系の浜教組だった。7日8日の二日間で何が決まったのか、彼らは知らなかったが、誰も文句など云わなかった。
組合からの抗議に校長室の机上に旗を掲げた校長がいた。自分では掲げず、技術員に任せた校長もいた。大仰に昭和天皇の死を嘆いて見せた校長もいた。
30年前、まだ戦争責任問題がリアルに論じられていた時代。世はバブルに入ってはいたが、まだ生真面目に、戦争や政治のことを考えようとする風潮が残っていた。
「君が代・日の丸」問題は、多くの人々の関心を惹く大きな問題だった。
この中学では、卒業式の儀式の際、壇上にも屋上にも日の丸はなく、君が代はうたわなかった。
校長は壇上に掲げられた自ら作成したテーマに沿って講話を行った。「卒業式講話は校長の最後の授業」という位置づけだった。校長自身、形式ではない実のある言葉を求められた。古い地域でどんなに荒れていようと、卒業式は温かい空気があった。
そんな横浜の学校の「戦後」にひとつのピリオドを打ったのが、昭和天皇の死ではなかったか。
この年、1989年改訂の学習指導要領に初めて「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする」との文言が入った。
1989年2月24日、大喪の礼。学校は臨時休業に。
「クラスの生徒を集めたいんですけど」と私。
「いいぞ、好きなようにやれ」と校長。
広い校舎内を使って校内どろ巡大会。いつもフリョ―君たちの手前、縮こまっていた一年生が校内を思い切り走り回った。
あれから30年。K校長は泉下の客となった。私ももうすぐ66歳を迎える。
人込みが苦手だ。映画館もバスも飛行機も通路側の席でなければ坐れない。閉所パニックだ。
しかしいちばんの閉所は、昨日今日のような雰囲気だ。
空気が薄い・・・深呼吸が必要だと思う、映画のタイトルだけど。