『フレンチアルプスで起きたこと』(2014年・スウェーデン・デンマーク・フランス・ノルウェー合作・原題:“Turist”・118分・監督リューベン・オストルンド)をみたのは3年ほど前になるが、映画の印象は薄れていない。
トマスは妻と二人の子どもとともにフレンチアルプスにスキー旅行に来ている。お昼時、レストランで多くの客とともに彼らも食事をしている。遠く山の頂きに小さく雪崩がおきる兆しが見える。このシーンがこわい。
レストランの客の視点に同化して、初めは私も“たいしたことないだろう”と高を括って見ているのだが、あれよあれよという間に雪崩が眼前に迫ってくる。声が出そうになる。この演出は凄い。パニック映画ではないけれど、この迫力が映画のリアリティを支えている。
レストラン全体が雪崩に襲われ、阿鼻叫喚の…。と思ったのもつかの間、レストランがパニックになったのはほんのわずかな時間、どういう偶然か、奇跡的にレストランは被害を受けず、次のシーンでは従業員も“しょうがないなあ”という感じで片づけを始める。
しかしトマス一家には大きな傷跡が残る。父親トマスは、自分の身を守るのに精いっぱいで妻や二人の子どもを守る行動に出なかったことが、妻や子の目に焼き付けられてしまったのだ。
ここから先、トマスはさまざまな言い訳、弁解に終始し、最後に何とか自分の誠意を示すような行動に出るのだが、映画はそのまま問題を提起しながら終わる。不正確かもしれないが、こんな映画だった。
今回同じ監督の『ザ・スクエア思いやりの聖域』(2017年・スウェーデン・ドイツ・フランス・デンマーク合作・原題:“The Square”・151分・監督リューベン・オストルンド)をみて、『フレンチアルプス~』にはあった共感のようなものが抜け落ちて、精神的な回路の違いのようなものを感じてしまった。印象はあまりよくない。
『フレンチアルプス』で父親トマスは、雪崩という自然災害に対して家族を守るという、一般的に父親に求められる行動をとらなかったために家族の信頼を失うのだが、トマスの弱さと失意はスクリーンの中だけでなく、私たちの中にもあるものというメッセージを受けたからこその共感だった。
それに比べ『ザ・スクエア』は、やや高みから人々の弱さや傲慢さ、ずるさを“実験的”に引きずりだそうとしているように思えた。
人間がもつ近代的な理性とは正反対の、他者への悪意や無関心、欺瞞、差別意識といった問題が、この映画の中でむき出しにされるのだが、その描き方が、私には人と人との関係や距離のルールを無視して、見えるはずのないところにカメラを置いて、利己的な行動を起こしてしまう人を笑いものにする“ドッキリ“系のテレビ番組に共通するなと思えた。
主人公が、失った信頼を回復するために自分のプライドを捨てて行動するシーンには共感するし、パーティーでの“モンキー人間”の常軌を超えた行動に対して、皆でそれを抑え込もうとするシーンもわからないではないが、それよりも人の弱さのようなものを捉えるときの視点が、私にはやや傲岸に感じられるのだ。回路の違いとはそういうことだ。
自分の中にある、ときには超えられない弱さ、ずるさというものは、パーツとして存在するものではなく、自己と一体的にあるものだし、人はときにささやかな勇気や理性的な行動をとることもないわけではないし、理性と私的な感情を併せもつ矛盾した存在として“自己”というものが規定されると、私は考える。
この映画では人間をトータルなものとして捉えられず、パーツパーツの寄せ集め、統合されない不自然なものの集合体として捉えられているように思う。そのあたりが回路のつながり方が違うとおもうのだ。
一方映画の中には、幾つもの不可解なシーン“よくわからない仕組み”がはめ込まえられている。
物語全体に筋道がつかみにくい面が多いのだけれど、少しだけ中身に入ってみたい。
大雑把に言うと、現代美術館 X-Royal Museum のキュレーター、クリスティアンの身の周りで起きるいくつかのことが、実は自分の中にある差別意識の裏返しであることに気づかずに、どんどん深みにはまり込み最後はクリスティアンが解雇されてしまうという話。
“よくわからない仕組み”を挙げていくと、冒頭女性記者からインタビューを受けるシーン。記者にわざと持っている書類を落とさせたり、クリスティンの無関心を引き出したりしながら、簡単に終わる。このシーンが意味することが全く分からない。
なんなんだよ?と観客に思わせることを狙っているのだろうか。音もどこか不安になるものだ。
この記者に対しクリスティアンは、別のシーンで「あの女とは寝ないぞ」と言いながら、直後のシーンでは彼女とベッドの中にいる。セックスシーンも無機質で不思議なものだが、ことが終わると精液の入ったスキンをどちらが捨てるのかで言い合いになる。
クリスティンは意固地になって「自分が捨てる」。ゴミ箱を持ってきてここに捨てろという記者。何のための議論なのかよくわからない。宙ぶらりん。
この記者との関係が何なのか、最後までよくわからなかった。彼女の部屋にゴリラが住んでいるのも。
タイトルのように、美術館の新しい企画展示の中に四角で囲った平面があり、コンセプトは「ザ・スクエアは、信頼と思いやりの聖域です。この中では誰もが平等の権利と義務を持ちます」というもの。話はここを中心に進む。
思いつくままに並べてみると、クリスティアンは、街中で女性を助けようとしてその女性に財布と携帯をとられてしまう。これを取り戻そうとして部下と相談してGPSによって財布と携帯のありかを特定、そのアパート全戸に、返さないと大変なことになるぞと脅しの文句を書いたビラを配る。そのうちに財布と携帯は送り返されてくるが、思いもかけない反応が出てくる。そのアパートに住む少年が“自分は家族に泥棒と疑われた。あやまれ、そして自分の潔白を証明しろ”と怒鳴り込んでくる。これがたいそう迫力がある。クリスティアンはこの少年を追い返し、階段から突き飛ばしてしまう。“助けて助けて”という声がアパートに響くが、クリスティアンは助けに走るのではなくごみ集積場に行き、捨ててしまった自分を告発する誰かから来たのかもわからない告発の手紙をゴミだらけになって探し回る。
そのうちクリスティアンは自分の子どもを連れて少年の住むアパートを訪ねて謝ろうとする。少年は引っ越していて会えないのだが。このエピソードはいったいなんなのか。
もうひとつ、クリスティアンがいい加減にGOサインを出したスタッフのyoutubeへの投稿が炎上する。
金髪の少女がスクエアの中でなにか助けを求めているのだが、次の瞬間少女は爆死する。ここに至るまでのシーンがかなり長いが、私にはよくわからない。
とにかく随所に“よくわからない仕組み”があり、それがある意味この映画をそれほど単純でない人間批判を形成しているのかもしれない。単なる高みからの人間批判に終わらずに、クリスティンの不条理な行動の中に優しさも残酷さも同居していて、寛容はときに不寛容に、誠実さはいつでも不誠実さに、出し入れ自由だよという一つの批評性に行きついているのかなと思うが、なんともすっきりしない映画であったことは確かだ。
この映画がカンヌ映画祭の昨年のパルムドール賞、つまり今年の『万引き家族』にあたる賞を受賞したという。「ある視点」部門へのノミネートならわかるが、なにゆえこの作品が最高賞を受賞したのか。
ノーベル賞同様、伝統あるカンヌ映画祭も世界の中に政治的な位置があるとすれば、クリスティアンは難民問題の困難に直面しているヨーロッパのメタファーなのか?要するに「思いやりの聖域」なんて成立しないよ、ということか。随所に出てくる移民、難民と思われる人々は、歓迎されるべき存在として描かれてはいない。ではどんな人々が歓迎されるべき存在なのか。そもそも歓迎するされるって?
思いつきにすぎないが、そんなことを考えさせられたた映画だった。