一昨日の夕方、歯医者の帰り道、西の空に黒い雲。
寝しなに窓を開けるともやっと温かい空気。雨は降っていない。
深夜2時ごろ、大きな雷鳴が何度も。
窓を開けてみると激しい雨。自分で植えたわけではないガーデンシクラメンが気になる。世話人Mさんは「だいじょぶでしょ」と。
明け方まで雨が残り、風が加わる。珍しく散歩は中止。
7時50分発の瀬谷駅行きのバスに乗る。始発のマークで、すでに満員。ほとんどが瀬谷中の生徒たち。男子生徒が坐っている隣りの席が一つだけ空いていたので坐る。立っている女子生徒は男子の隣りには坐らない。マスクをしている上に換気用の窓が開いておらず、車内は蒸し暑い。発車まで5分、次々に乗ってくる中学生。
2つのバス停からも合わせて中学生が15,6人。
字義どおりの中学生のすし詰め状態。毎日こんなだったら大変だなと思ったが、帰宅してMさんに話したら「雨のせいで自転車通学の生徒と歩きの生徒が乗ったんじゃない?」とのこと。こんな状態は、広島で平和公園ー広島駅間を安く上げるために男バス女バスと称して超寿司詰めを敢行して以来。1台に80人ほど詰めた。
ぎゅうぎゅうな中でスマホを見つめている女子中学生が何人か。
こういう人たちを相手に38年間も仕事をしていたことが、信じられないような気がする。不思議な感覚。仕事を辞めてから中学生と話した記憶がない。
さて、本日の映画は『のさりの島』『MINAMATA』の二本。
その前に、28日にグランベリーシネマ109で見た『モスル』のことを書いておかないと。
『モスル あるSWAT部隊の戦い』(2019年製作/102分/G/アメリカ/原題:Mosul/監督:マシューマイケル・カーナハン/出演:ヘール・ダッバーシ アダム・ベッサ他/日本公開2021年11月19日)
制作陣はこの映画を「アラビア語を母国語とする俳優」で撮りたいと考えたという。
ナチスを題材にした映画に登場するドイツ人が皆英語を話すという不思議さ、ロシア映画でさえ英語で話されるのは、映画が消費される材である限り仕方のない面があるのかもしれないが、語学にくらい私のような人間でさえ「何でも英語」の映画には鼻白むことが多い。
全く理解できないアラビア語だからこそ、伝わってくるものは間違いなくあると思う。
冒頭にbased on true eventsというキャプション。
原作は「ニューヨーカー」に2017年2月に掲載された「The Desperate Battle to Destroy ISIS(IS殲滅への死闘)」というルーク・モゲルソン(Luke Mogelson)さんという方のルポルタージュだそうだ。
The Desperate Battle to Destroy ISIS | The New Yorker
冒頭の戦闘シーン。
容疑者を逮捕したところでISISの武装集団に襲われたイラクの警官3人。激しい戦闘シーンは接写に次ぐ接写でなかなか全貌がつかめないが、迫力は十分だ。弾が尽き万事休すというところで、全く違う方向から機銃掃射の音が響く。10人ほどのSWATがISISを一気に凌駕してしまう。
3人の警官のうち1人が死に、2人のうち若い警官カーワがその場でSWATにリクルートされる。資格は、家族をISISに殺された者だけという。
SWAT(Special Weapons And Tactics)は軍や警察の中にある特殊部隊だが、このSWATはその中のハグレ兵を集めたもののように見える。命令の理不尽さからか途中で軍や政府の命令系統から逸脱し、自分たちの「任務」を全うするためにISISと戦い、武器やお金を奪い、進軍している。
殺された警官はカーワの叔父にあたる。
もう一人の年配の警官は立ち去ることを許される。
この冒頭のシーンが映画全体の大きな布石となっている。
このSWATとは何か。任務を尋ねるカーワに誰もそれを伝えない。
これがこの映画の要諦だ。
気になる会話が一つ。
結婚していないのか?と訊かれたのに対しカーワが
「家族がいたらこんなところに身を置けない」といった意味のことを答えると、
隊員の一人が激高するというシーン。この隊員がワイードだ。
映画の背景には、2016年当時、ISの支配下にあったモスルをイラク政府軍が奪還する作戦「モスルの戦い」がある。
イラク北部の第二の都市モスルを舞台に映画は展開していくのだが、その荒廃ぶりはすさまじい。とても映画のためにつくったセットとは思えない。撮影される範囲が狭いところに限定されず、視界すべてが荒廃をとらえてしまう。
3台の装甲車に乗って舞台は進軍するが、何処に向かうのかはカーワにも見る者にも明かされない。
かれらはたしかにISISと戦っているのだが、誰かから指令を受けているわけでもなく、単独行動を貫いている。検問所を通るときには賄賂を渡し、しつこく誰何する兵隊には「見なかったことにしろ」と脅す。
少佐とカーワ
冒頭で立ち去った警官があらわれ、発煙筒を投げ、SWATを攻撃するISISの手引きをする。
辛くも攻撃を逃れたSWATの隊長ジャーセム少佐を演じるスヘ-ル・ダッバージは酷薄なそのものの印象。この人が醸し出すリアリティがすごい。随所で少佐の信頼が厚いことが伝わってくる。
スヘール・ダッバージは爆弾処理班を描いた映画『ハートロッカー』(2008年)にも出演したとあるが、主な配役に彼の名前はない。端役だったのか。しかしあの映画にそのままはまる風貌であることは間違いない。
このジャーセム少佐の奇妙な行動がフレームアップされる。
一つは、荒廃した街の中で父親の遺体を運ぶ二人の兄弟を見かけると、少佐は二人に装甲車に乗れと言う。このままここにいてはいけない、安全でないということだ。兄弟は父親のとの約束がありここを離れないというが、最後は弟だけが装甲車に乗ることに。戦闘中のSWATが子どもを連れ歩くことなど考えられない。
ジャーセム少佐は次の街で、子どもを二人連れた若い夫婦を見つけると、二人に金を渡し少年を引き取ってくれないかと頼む。夫の方は拒否するが妻のほうがお金をつかみ、少年を引き取ることを選ぶ。戦場でのなんとも厳しいシーン。
もう一つは、分単位秒単位で休憩を指示する少佐が、その寸暇を惜しんでごみを見つけるとゴミ箱に入れるという行動。よくわからないからこそリアルに見えるシーン。説明も何もないが・・・。
ジャーセム少佐役のヘール・ダッバーシ
三つめは、敵の基地を見つけ出し、攻撃をするかどうか判断するときに、少佐が部下のワイードに
「どうするかはお前が決めろ」。
これがよくわからない、この時点では。
これが「任務」と深くかかわっているのはあとでわかることになる。
隊はひたすら前進するが、途中でイランの有志連合の隊と出会う。
銃弾とたばこの物々交換だ。
1カートンで銃弾が何ケース・・・。
互いにISISと戦う身でありながら、簡単に手を組もうとはならない。ささやかないさかい。
少佐はアメリカと手を組んでの有志連合のイランを批判、自立していないじゃないかと。有志連合の隊長はイラクは自分で国境も決められないのではないかと。
取引が終わったところで、有志連合の隊長が少佐に対し、
「捕虜の面通しをしてくれ」と頼む。
少佐は一人ずつ顔にかぶされた袋をめくって確かめると、ISISを手引きしたカーワの同僚の男がいる。
男は、家族をだしに脅されたとして命乞いをする。
少佐は有志連合の隊長に、「この男を引き渡せ」と要求するも、有志連合の隊長は拒否。二人の間に緊張した瞬間が訪れたところでカーワが動く。
斧のようなものをもって男にとびかかり滅多打ちにして男を殺してしまう。
ふたりの隊長は息を飲んで言葉もない。みなが驚きの表情でカーワを見つめる。
カーワが戦士となっていく瞬間。
カーワの表情がアップされる。なんとも言えない表情。
銃弾の取引を終え、別の建物での休憩。
少佐は「90秒の休憩」を宣言し、部屋の中を探索する。例によってごみをゴミ箱に投げ入れながら、必要と思われるさまざまな資料を箱の中に入れる。
そうして、その箱を持ち上げたとたん爆発。少佐は死んでしまう。
このシーンもまたカーワにとって戦士としての自立を促す。
戦意を失いかける隊員に対し若いカーワが
「進むしかないんだ」と告げる。
隊員たちの反感と戸惑いと。
さて、映画は終盤に。
目的物らしい大きな建物の中に舞台は入っていく。建物内を探索し終わり、上階にあるある部屋の前。
ワイードは靴の中から鍵を取り出す。ゆっくり差し込んでドアを開けて部屋に入ると、そこには男と女性と女の子。ワイードは迷わずそこにいた男を撃ち殺す。
ここはワイードが暮らしていた家、そして家族。ワイードは妻を抱きしめる。
「任務」というのは、隊員を家族のもとに返すことだった。
妻はワイードに「妊娠している」と告げる。
ワイードは妻のおなかに手を差し伸べるが、妻はゆっくりとその手をどける。
3人の抱擁。子どもはそこに死体となって転がっている男の子だ。
珍しくあらすじを長々と書いたのは、なかなか映画の核心がつかめなかったからだ。
任務ってそういうことだったの?
という拍子抜けした感じと、いやいやそれが一番重大な任務だったんだという納得と。
冒頭のシーンで、カーワは確保した容疑者を取り調べるべきだと主張するが、大佐は殺してしまう。どんな事情や理由があったとしても、敵は殺す。
戦争状態になればISISも政府軍も違いはない。
任務と目的を失った大佐の部隊が見つけた究極の任務は
「家族のもとに隊員を返すこと」。
大佐にとっても隊員にとってもこれだけが間違いのない任務だったということだ。
カーワは、ワイードの任務は終わったとして、
「次はあなたの番だ」と別の隊員を指名する。
すでにカーワは、一人の戦士として究極の任務を担うリーダーだ。
こう書いていてもまだ何か腑に落ちない気持ちもある。
生死の境にいる人々が、どのような感情をもちどのような判断をするのか。
戦争映画は、客席で茶の間で見ている私たちに、それを驚きも含めて噛んで含めるように共感を促すものだ。
この映画はそこがどうも違うようだ。家族愛のようなものを最後にもってきながら、共感を拒否するようなそんなわからなさがある。
わからなさをそのままに?
それでいいのかもしれないが。