小説『カトク』を読む。コンプライアンスを無視して業績を上げてきたいくつもの会社がどのように法律をすり抜けていくか。それを支える社員、経営者の独特の論理が、城木自身の痛恨の来歴と監督官としての労働実態が重ねて語られるため、単なる勧善懲悪に陥らず、深みのある小説になっている。

 新庄耕の『カトク』を読んだ。文庫本で864円はやや高めだが、“文庫書下ろし”であることを考えれば妥当なところかもしれない。
 カトクとは厚生労働省に3年前に設置された「過重労働撲滅特別対策班」の略称。配属されるのは労働基準監督官だが、労働条件の是正勧告だけでなく、逮捕権もあり検察官送致までの権限が付与されている。『カトク』は、その一員である監督官城木忠司を主人公とした小説である。

 ブラック企業である大手ハウスメーカー東西ハウジングを舞台に、末端で長時間労働だけでなく、営業成績が上がらないため精神的にも追いつめられる若い社員のエピソードに始まり、終盤で会長逮捕にいたるまでの道すじを城木の視点から描いている。 

    コンプライアンスを無視して業績を上げてきたいくつもの会社がどのように法律をすり抜けていくか。それを支える社員、経営者の独特の論理が、城木自身の痛恨の来歴と監督官としての労働実態が重ねて語られるため、単なる勧善懲悪に陥らず、深みのある小説になっている。

 


 一部、 登場人物たちが語る言葉を拾ってみる。
 東西ハウジングの若手社員大原和夫は、失速寸前で城木と面談する。母親が息子を心配してカトクに連絡したからだ。城木がf:id:keisuke42001:20180905145950j:plain
「…もし法律違反があるようなら、それを見過ごすわけにはいかなくてですね」と言うのに対して大原は、
「こっちは命がけでやっているんですよ。何にもしなくても一生安泰のあなたたちと違って。わからないでしょ、どれだけ大変か。だから平気な顔でそんな勝手なことが言えるんですよ」
東西ハウジングの求人票の年収例には、成果報酬が1千数百万円になるような記載があるが…と城木が水を向けると、大原は自分はそうではないとしながら、本気になれるからやっているんだという。
「そうです。単なる組織の歯車なんかじゃなくて、ひとりの個人として本気で挑戦できて、自分を圧倒的なスピードで成長させてくれる環境があるからですよ」
「役所にいるとなかなかわからないでしょうけど、この環境がどれだけ意味のあるものかなんて。でも、いずれ僕が正しいってことを、本気の環境がどれだけ大事かってことを証明してみせますよ」
 入社以来の不健康な生活で30㎏も太ってしまった大原は、社員の前で立たされながら罵倒され続けているのだが、離脱は考えない。マインドコントロールからなかなか抜け出せないのだ。城木は歯噛みする思いで大原の話を聴く。


 カトクは勤怠記録だけでなく、電話やメール、ビルの退館記録などを引き合わせて実際の残業がどれだけなされているかをつかんでいく。
 広告代理店コンクラーベのシニアマネージャー中村沙智は、業績をあげるために部下に不当に残業を強いるだけでなく、その叱責のきつさからサッチャーと呼ばれている。
 城木は事情聴取の中で中村に対し、中村自身は23時に退勤しているが、部下はみな18時に退勤しているという勤怠記録をもとに
「おうかがいしますが、この10月の最終週はメンバーの方は終業後すぐ退社されてましたか。何か業務とは関係なく別の用事があって会社に残ったりはしていませんよね。・・・この週はどの方もビルの退館記録が23時を過ぎているんです」
 中村は
「…上のソライロで食事でもしていたんじゃないですか。よくメンバーで仕事が終わったあと行ってるみたいですから」としらばくれる。ソライロは37階にある見晴らしのいい社員食堂である。
 城木はメールや電話の記録をもとに問い詰める。今まで何人もの社員が中村の不当な恫喝、長時間労働の指示によって休職や退職に追い込まれていることを調べ上げている。
 中村は開き直る。怒りを込めて
「そんなの知らねえよ。仕方ないじゃん。結果出てないし、頑張んないんだから。あの、わかんないと思うけど、結果が出ないと給料も下がるし、クビ切られるの、うちは」
 「言い訳ばかりしていくら言っても仕事しないやつとか、態度だけでかくてパソコンもまともに使えないやつとか、日中はぼーっとして夜になってようやく働き始めるようなやつもいるし、って言っても仕事しているふりだけで全然何もしないんだけど。他にも、小遣い稼ぎだか家のローンが苦しいのか知らないけど、あからさまな残業代目当てで、すぐに終わるような仕事をだらだら引き延ばすっていうせこいのもけっこういるし」
「寄せ集めの部隊任されて、会社からは結果出せって言われて、あんたたちからは法律守れって言われて、どうしろって言うの?」
 黙っている城木に対し中村は
「誰も守ってくれないんだよ。キレイごと言って聖人ぶってるあんたもふくめて」。
 実は中村自身が心身ともに病みつつあるのだが、それを言い出せないまま・・・。
 送検されるのは現場で不当な労働を直接命じる中間管理職である。トカゲのしっぽきりである。

 これ以上はネタバレになるのでやめる。

 カトクから見える会社の状況は、表向きはコンプライアンス重視のように見える大手上場企業が、件の電通のように社員を死に至らしめる労働文化を手放さないまま、結局多くの社員を見殺しにするさまをよく伝えている。
 政府は政府で働き方改革と言いながら、残業規制を弱め、高プロの導入やみなし労働を悪用するなどして、労基法を換骨奪胎していく。互いに形の上では労働者保護を唱えながら、企業に奉仕する政権、そして企業の内部留保ばかりが積み上げられ、労働者には還元されない。やりがい搾取と言われる巧妙な労働者への抑圧が日常化している。政府や企業のやり口を、労働者自身が支えてしまっている。”正規”であることを守るために”非正規”を貶める。
 小説という形でそうした労働問題を取り上げるのは、そのまま企業への攻撃ともとられかねない。日本では労働問題は表現の世界ではタブーに近い。あえてそれをやろうとする新庄の姿勢に共感する。相場英雄が『ガラパゴス』(上・下 2016年)で取り上げた非正規の問題とともに重要な提起である。

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 わたしは元中学校の教員である。教員の長時間労働について90年代の初めに最高裁まで争った経験がある。荒れた中学で周りの教員が病気で倒れたり、職を離れたりする、そういう状況を訴えたかったからだ。それ以降、教員の勤務問題について微力ながら問題提起を重ねてきた。しかし今世紀に入り、学校や教員を取り巻く状況は大きく変化し、学校現場の労働は悪化の一途をたどっている。
 最近は部活動問題を含めて、コンプライアンス無視の無定量勤務が話題になるようになってきた。教員の意識も少しずつだが、長時間労働をおかしいと感じるような感性が若い教員の中に現れるようになってきた。
 しかしつぶさに見れば、文科省は道徳の教科化も含めて教科の授業時間増をはかり続け、その準備の時間すら取れないほど仕事量は勤務時間の中に収まらなくなってきている。それ以外の膨大な事務仕事や部活動、生徒指導や進路指導などは、日常的に時間外労働とならざるを得ない現状がある。

 一番の解決策は教員を増やすことだが、そのなり手が減り続けている。この20年ほどで教員は魅力的な仕事ではなく、ブラックなものだという認識が定着してきているようだ。
 8月31日の毎日新聞は、こうしたどん詰まりの状況の解決策として、文科省が変形労働時間制の導入を決めたことを報じている。

 繁忙期と閑散期の差の多い旅館業などに特別に認められてきた年間を通しての変形労働時間制を教員に当てはめるというのだ。

 繁忙期の勤務時間を10時間、12時間にして、夏休みなど閑散期には6時間、4時間勤務にするという発想だ。
 これがどれだけ長時間労働が日常化している現状を追認し、更なる長時間労働につながるか、普通に現場にいた人間ならばわかるはずだ。給特法によって残業手当を支払われない教員が変形労働時間制をとれば、さらに勤怠は杜撰になり、通常の労働がさらにきつくなることは間違いない。
 ひと月を単位とする変形制は、修学旅行などですでに導入されているが、年間を通しての変形制は、日常的な勤務時間の長時間化を生み出し、家庭生活のリズムをさらに乱していくだろう。寝だめ食いだめはからだと心をこわすもととなる。変形労働時間制は、労基法労基法自身を否定していくことにつながるものだ。

 『カトク』を読みながら、いつかカトクが学校現場に投入されることがあるのだろうか、と考えた。

 一読をお勧めしたい本である。