ボランティアに出掛けられるほどの体力もなく、みていることしかできない身であるが、せめて目をそらさずに気持ちを切らせずにとは思っているのだが。

    夕方、少し涼しくなったので、切手を買いに近くのコンビニまで出かけた。コンビニはマンションの敷地内にあるのだが、サンダルを履いてプラプラと歩くと5分ほどかかる。途中、中庭を通る。

 数本の百日紅、盛りが終わって花を落としているのに気がついた。そういえば近くのタチアオイも花が少なくなった。どちらも炎暑に気圧されずに長いこと咲き誇っていたのだが。

 一昨日の明け方4時ごろ、パソコンを立ち上げた途端、北海道の地震の報道。3時8分、震度6(のちに7に変更)。テレビに切り替えるとヘリが厚真町上空から土砂崩れの状況を映し出す。すさまじい状態なのにレポーターの声にそれほど緊迫した様子が感じられない。ぼやっとしたアタマで、これだけの土砂崩れは見たことがないなと思った。レポーターも言葉を失っていたのではないか、たぶん。

 苫小牧に住む高校時代の友人のところにLINEで連絡を入れる。今、スマホの画面を見返してみるとこれが4時48分。1時間経っても返信はない。LINEを組んでいる千葉に住む友人が呼びかける。5時46分。

6時31分になってようやく北海道からのメールが入る。 

 仕事で札幌に居り、揺れで目が覚めた、停電、断水しているがけがはしていない、震源に近い自宅がどうなっているか心配だとのこと。ほっとする。彼は長いこと道議を務めていて、議会が開会していて札幌に来ていたようだ。

 清瀬に住む友人からもメールが入り、ひとしきりみなで情報交換。ただ、この時点では被害の甚大さは互いに認識できていない。全道295万世帯が停電と広範囲の断水など前代未聞の事態がはっきりしてくるのは、数時間後のことだ。信号は消え、医療関係の機材は動かず、北海道がマヒしている状態だ。 

 8日現在、19人の方が亡くなり、9人が安否不明。停電は今朝までで大方解消。しかし道路の陥没や液状化、住宅の全壊半壊は数知れず。また今夜もたくさんの方々が眠れない夜を過ごすことになる。

 つい先日までは台風の被害があいつぎ、ダメ押しのように関空が水浸しになり、5000人の人たちが孤立していたのに、それが解決もしていないうちにまた次の災害が起きている。まさに天変地異。真夏なのに心胆を寒からしむる思いだ。避難所の様子がテレビに映し出されるが、一様に老人に表情がなく気の毒だ。まさか自分たちが、という思いだろう。 

 今日になって件の友人から3日目の状況が伝えられる。自宅はさほどの被害ではなかったとのこと、電気が止まると水が出ていてもウォシュレットが使えないとか、今まで考えたことがなかった問題に相対したとのこと。

 彼から私たち3人に「停電になってお店からなくなった“ベストファイブ”は何だったか」と問われる。三者三様に、食べ物や紙おむつなど思い付きで答えたのだが、彼によると、トイレットペーパー、乾電池、カセットボンベ、カップラーメン、そして氷だそうだ。冷蔵庫が使えないため氷が飛ぶように売れたそうだ。

 停電と言っても、これほど長い停電は私は経験がない。3・11の時の計画停電でも意外に短かったものだ。
 全面的で長期の停電の中ではこうしたものが必要になるということだ。 

 しかし氷は家庭で備蓄と言っても停電になればできない相談。お店も氷を冷やすためにクーラーボックスに入れていたとか。電気がなければ商品にならないものがコンビニだけでもかなりあるはず。生鮮品を扱うスーパーに至ってはお手上げだろう。一方お菓子やアルコールを含む飲み物は売れていなかったとのこと。ライフラインがどんなかたちで毀損するかで必要とされるものは違ってくる。
 

 3・11後のコンビニの棚の閑散とした様子を思い出す。物がないお店というのがこれほどみすぼらしいものかと思ったものだ。ものがあって当たり前という状況は、ふだんの停滞のない物流が担保しているということだ。
 ガソリンスタンドの周りを何重にも取り囲んだ車列も思い出す。そういえば今回、ガソリンはあまり話題になっていなかった。クルマが損傷を受けたという報道は多かったが、原発事故の時のようにすぐにも避難という状態にはならなかったからか。

 しかし旅行や観光で北海道に来て地震に遭い、帰途が確保されずに港や駅に滞留してい人も多いようだ。家族とも連絡が取れずに心細い思いをした人もたくさんいただろう。
 いずれにしろ、北海道が通常の状態に復するまでにはかなりの時間を要することになるだろう。

 

 おりもおり、横浜・関内にあるニュースパーク(新聞博物館)を訪れた。長年住んでいながら内部に入ったのは初めてのことだ。

 企画展の「新聞が伝えた明治」の中に、明治21(1888)年7月に会津磐梯山が噴火し、死者461人に及ぶ甚大な被害をもたらしたことを伝える部分があった。

 私たちの眼になじみ深い裏磐梯のえぐられたような山肌はこの時にできたもの。高村光太郎が「智恵子抄」のなかで、智恵子の精神状態を比ゆ的に描いたのものもこの噴火の跡のことだ。

 この噴火の直後、東京朝日新聞は現地に洋画家の山本芳翠を派遣、山本は版木に直接絵を描いたのだとか。新聞には噴火を描いた精細な版画が附録として付いたという。写真以前の新聞による初めての「速報」だったとのことで、特別に取り上げられていたようだ。

 ボランティアに出掛けられるほどの体力もなく、みていることしかできない身であるが、せめて目をそらさずに気持ちを切らせずにとは思っているのだが。