教員は50年近くもたった4%の「定額」で「働かせ放題」状態だ。高プロの末路は、給特法の「今」を見ればわかる。

政治の話なんかしたくはないのだが。

 高度プロフェッショナル制度(残業代ゼロ制度)を含む働き方改革法案が、30日参院本会議で可決され成立した。
 私は正規の労働者として38年間働いた。その労働現場を離れてもう4年以上になる私にとっても(現在は一年のうち5か月週一度働く非正規労働者である)、この法案成立は、胸塞ぐ思いで受け止める類の代物だ。この「でたらめ」ぶりは何なんだと思う。
法案は、繁忙期には月100時間、年間720時間までの残業時間を認め、新たに36協定を結ぶこととしているが、今までも36協定自体がざるであり、またその36協定さえ適用されない業種がたくさんあった。今度の法案成立によって、このざるの目はすさまじく粗くなり、ほとんど何もひっかからない素通り状態になったのではないか。残業規制は効か、青天井となったということだ。 

 もともと月100時間という数字は、過労死ラインと言われているものであり、これを超えた場合、産業医の診察を受けることになっている数字である。その数字を上限として半年までは認めるというのでは、一年の半分は過労死ラインまで働かせてもよいということだ。どうしてこんなものが通ってしまうのかわからない。

 高プロに至っては、もうばかばかしくて話にならない。10年前にホワイトカラーエグゼンプションとして出てきたときは、厚労大臣の舛添要一が「家庭だんらん法」などと言って、お調子者の真髄を発揮したものだ。残業代ゼロ制度は残業そのものがなくなるんだというわけだ。学者上がりの政治家というのはろくでもないものだなと思ったものだ。

 それが今度は、「高度プロフェショナル制度」と名前を変えて出てきた。これで3回目になるだろうか。財界にとっては「残業代ゼロ」は悲願の法改正。それはそうだ。残業代を払わずに労働者が働いてくれるなんて、打ち出の小づちのようなもの。振れば振るほど内部留保はたまるばかり。企業体質はムキムキになっていく。ただ、経営者がすべてそういう発想をするとは思えないが。

 しかし、今度は本気。政権にとって最重要法案!首根っこをつかまれている役人は走る。たった十二人の調査で「制度が望まれている」なんてやってしまう。それでも政権はひるまない。猪突猛進、人の話は聞かないに限る、である。
年収1075万円以上だって?そんなもの私には関係ないよと考えていた人も、通勤手当や住宅手当も併せて算出する可能性もあり、だいたいがこうした法律が新たに導入されるときの「規制」など簡単に外れてしまうもの。そんな例は山ほどある。労働にしても、たとえば裁量労働制を考えてみればよくわかる。仕事のやり方や時間配分を労働者が自由に選べるという触れ込みのこの制度の末路はどうなったか。いまでは、新人君たちが訳も分からずに裁量労働の枠にはめられ、こき使われている。誰にとっても裁量か。
この4月に始まった無期転換ルールはどうだろうか。無期転換しないため、させないためにどれほど非正規労働者を雇っている企業や学校がムキになっているか。

 ことほどさように1075万円なんて規制は、すぐにも有名無実になるのは見えている。法律違反をしてでもやってしまえばいい、指摘や指導があったらその時に対応すればいい、なければそれでいいじゃないか。現場ってそういうものだと、経営もときには労働者も考えているのが、この国の労働現場だと私は思っている。私のような法令で守られているかに見える公務員労働者でも、そんな場面は何度も見てきた。

 いずれ広範に対象を広げ、高プロどころか中プロ制度、一般労働者制度、になっていくだろう。あの竹中平蔵に至っては、すでに高プロの対象範囲を広げるべきと発言、「時間に縛られない働き方を認めるのは自然なことだ。時間内に仕事を終えられない、生産性の低い人に残業代という補助金を出すのも一般論としておかしい」(6月22日東京新聞)と言っている。

 残業代を「補助金」といった学者は今までいたろうか。この発言は労働基準法を根幹とする戦後労働法の在り方を否定するもの(法案そのものがまさに戦後労働法を否定するもの。改正すればするほどつぎはぎだらけの一貫性のない法体系になっていく)。
高プロは「時間に縛られない働き方」ではなく、「時間を無視した働かせ方」であり、「定額働かせ放題」だということだ。学者というよりIT専門の人材派遣会社パソナの会長というのが、竹中の表の顔なのだから、こんなふうにしゃべるのは当たり前と言えば当たり前なのだが。 

 もうひとつ、この制度が今後どういう道をたどるか、好例がある。「定額働かせ放題」は、私自身38年間働いてきた公立学校の教員の給与体系そのものだ。ホワイトカラーエグゼンプションが人口に膾炙し、法案となり、結果として廃案となってきたこの10年、私は何度かささやかな媒体で、教員の給特法(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法)という独特の給与体系を引き合いに出し、ホワイトカラーエグゼンプション高プロも「給特法」と中身は同じだと主張してきた。教員には、1971年以降50年近くものあいだ、ホワイトカラーエグゼンプション高プロが適用されてきたのだと。

 給特法の眼目は、教員には給与の4%をあらかじめ支払う代わりに残業代は支払わないというもの。教員のすさまじい多忙化や部活動の問題が顕在化してきた底にはこの給特法がある。給特法≒高プロと考えれば、類似の問題が生起してくるのは理の当然である。

 給特法は高プロ同様、教職という仕事が専門職であり、仕事自体が時間計測になじまない自発的な労働であることが根拠となっている(当時の給特法をめぐる国会の議論を見てみるといい。高プロの議論と重なる部分がかなり多い)。高プロと違うのは1075万円という高額の年収設定ではなく、4%という残業代にしてみれば7時間程度のお金で「働かせ放題」を可能としたことだ。

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 給特法が、人を教えるというのは神聖な仕事、金や時間のことを言っていては出来ない仕事という日本的な「教師聖職論」をバックボーンとしているように、高プロは高度の専門性と「労働の自由」をバックボーンとしている。共通するのはともにそこには大いなる「幻想」が広がっているということだ。

 残業代を「補助金」と言ってしまう人が、「財界」そのものであり、それを背景に「力」を誇示するのが政治だとしたら、この軍門に下ってはならないと思う。給特法の問題は、教員であった私にとって最重要なものだった。超過勤務をめぐる裁判(無定量な超過勤務に対して、計測して返す制度を確認する裁判1990年~1995年)も、40年近く役員を務めた少数の労働組合、独立労組の課題も給特法だったし、数年かかって開いた文科省(当時は文部省)との団体交渉のテーマの中心は今でも給特法だ。

 給特法を抜きにして教員の労働は語れないというのが私の主張であるが、今では給特法自体が教員の皮膚の中にとけんこんでしまい、違和感なく残業代が出ないのは当たり前と考える人が圧倒的に多くなった。教育行政は、教員の働き方の問題は「多忙」であることより「多忙感」を強く感じていることだ、「生きがい」「やりがい」のある労働であれば「多忙感」は払しょくできる(横浜市教委)として、総労働時間規制には向かわない。提灯学校という言葉が以前はあったが、今では常夜灯学校であり、教員の再登校も珍しくないという。

 労働組合こそがこうした状況を打開する契機とならねばならないのだが、行政の補完機関、第二行政のような役割しか果たせないのが、多くの労働者を組織する労働組合であり、その組織率も低下している。いつも思うことだが、この国に労働組合が生まれて100年以上が経つけれど、資本や経営とぶつかりながら労働者の利益を追求するという労働組合の本源的な文化は日本には根付いていない。単独で行政と交渉し、直接他の仲間の現場に入って交渉をするという動き方ができたのは、日本的労働組合ではない、独立組合というある意味アナーキーな労組の在り方によるものだった。そこから得たものはたくさんあるが、根付いたとは言い難い。
 
元現場労働者の端くれとして、高プロの行く末をしっかり見ていきたい。
政治の話なんかしたくないのだが。

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