『苦い銭』ひたすらディテールを積み重ねることでにじみ出てくる何か。『収容病棟』にもそれは共通している。

苦い銭』(2016年・フランス・香港合作、163分)をみた。163分もつかなと思ったが、途中わずかにZZZZが入ったが、見終わったときの気持ちとしてはかなり充溢した感覚が残った。

 タイトルがいい。いい映画の匂いがする。原題も中国語・英語・フランス語《苦銭/BITTER MONEY/ARGENT AMER》。そのまま。
 ろくに下調べもしないでみにいったのだが、始まってすぐに既視感。あの映画もかなりの長尺ものだった。たしか中国の精神病院を撮ったドキュメンタリー・・・。あれも凄かったな、ずっと画面は暗いままで、鬱々として…。

 『収容病棟』(2013年・フランス・香港・日本合作・237分)はやはり同じワンビン監督のドキュメンタリー。中国雲南省の精神病院・隔離病棟。200人が暮らす病棟で交わされる会話をただひたすら追い続けた映画。いつしかカメラがカメラでなくなり、壁そのものになってしまったように感じられた。

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 収容されているのは、アルコール依存症や薬物中毒患者など精神的な病だけでなく、反政府活動の活動家も、一人っ子政策に違反した者など含まれていた。いわゆる反国家分子の「収容施設」という面が強い「病棟」。カメラは、というよりワン・ビン監督は自らカメラをもってそこに居続ける。 

 ナレーションも音楽もなく、いわば画面を解釈する、テーマ性をもって主張するということを一切しないで、話されることを記録するという手法。たぶん、そういう手法でなければ中国という国家が撮影を許可しても上映は許可しない。
 そんな事情があるにせよ、それが強いられた手法というより、そういう手法から浮き出てくる、しみ出てくるものをワン・ビンという監督はひたすらに待ち続けながらカメラを回しているのだなと、私には思われた。

 これを表現したいとか、テーマはこういうことだというのと違って、こうして待っていれば何かが見えてくるよ、それが何かはみるほうで決めてくれ、ということか。かと言って、漫然とどうとでもとれるように撮影しているわけではない。長回しのカメラワークが、いつもこちらに何か問いかけてくるような感じがあるのだ。これが『苦い銭』にも共通した感覚だ。「苦い銭」に話を戻そう。


 映画の舞台となっているのは上海の近くの浙江省の織里(ジィリー)という町。ここには衣類加工工場が密集していて、子ども服の生産が全国の8割近くを占めるのだという。中国経済の発展を象徴するような町である。

 冒頭、2000㌔も離れた雲南省(一口で2000㌔というが、東京から2000㌔だと台湾にまで行ってしまう。中国は広い。この距離を汽車で行く)から織里へ出稼ぎに行く少女たちの家族との会話が延々と続く。少女二人と少年一人。そして長い汽車の旅。日本で言えば集団就職に近い感覚だが、若者たちの顔には悲壮感はない。

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 この映画、中国の社会問題、とりわけ労働問題を扱っているとみえるのだが、ワン・ビン監督のカメラはわかりやすくそこに落とし込まない。中国の現実、システムを批判しようとはしない。

 そこに物足りなさを感じる人もいるだろう。でもここは中国なのだ。共産党の統制抜きには社会システムを語れないことは自明のこと。弾圧を真っ向から受け止めるか、それとも規制を表現のなかに吸収し、独自の技法をつくりあげるか。ワン・ビン監督は後者を選択し、その技法をつくりだした。

 徹底してディテールを重ねること、解釈や説明をしないこと、それが安易なテーマ主義を拒否していて、作品に深みをもたせている。

 見ている側にとっては、ディテール自体も簡単には理解できない。考えているうちに次のシーンに移る。宙ぶらりんにされているような感覚が付きまとう。でも異国の文化や労働者の感覚が簡単にわかるものかとも思う。わかったと思う時に思考は停止する。

 零細企業がしのぎを削るこの町では、労働者はただただ搾取され続け、使い捨てにされていく。寝る間もないほどの長時間労働に耐えられず、少年が仕事を断念し故郷に帰っていくシーンはせつない。うまくいかないのは自分に能力がないから、いつか自分はもっと仕事ができるようになって戻ってくる、と言いながら去っていく中年の男もいる。つい「なぜ闘わないのか」と声をかけたくなる。「あなたが悪いんじゃない」。その発想だけではやっていけない現実がある。

 理不尽な労働を強いるものに対して闘うというより、なんとか彼我の折り合いをつけて生きていこうとする、ある意味楽天的ともとれるところも。

 最も多いシーンは、若い労働者が、原色に近い派手な色の子ども服に囲まれながら、ひたすらミシンをかけ続けるところだ。
 酒におぼれる中年の労働者。男の子に声をかけたいが、うまくいかない女の子たち。一発当てようと夫婦で街に出てきはしたが、痴話げんかにも見える夫婦げんかを延々と続ける二人。本気でぶつかればぶつかるほどどこか滑稽なのだが、いったい何が原因でそこまで?よくわからないところがリアルだ。

 間に入って仲裁しようとする人、周りであきれている人、いつのまにかカメラはそのうちの一人になり、お店の机になったり、壁になったりして消えていき、見ている私も脚本のないドラマに参加している気分になる。

 厳しい現実があるのに、どこかのどかな感じもある。貧しいはずなのにみなスマホをっている。短い距離だろうにタクシーに乗る。 

 人はこうして生きているのだという一つの「了解」の変更を迫られる感覚。お前が見ている人の生き方なんて世界のごく一部でしかないのだ。
 それなのに見終わった後のこの充溢感は何だろうか。比べても仕方がないのだが、この二日前にみた『長江愛の詩』(2016年・中国・115分・ヤン・チャオ監督)は、私には空疎に感じられた。邦題がひどいのは別にしても(原題:長江図 Crosscurrent)、あまりに思い込みの強いつくり方に入って行けなった。長江60日間のオールロケ、長江の壮大な風景をバックに云々という惹句、その風景の美しさ大きなポイントだというのだが、さほどにも感じられなかった。ただ木造の船がきしんで発する「音」だけが嫌に陰鬱で印象に残っている。残念、退屈だった。

f:id:keisuke42001:20180628142217j:plain         本文とは何の関係もありません。涼しそうでしょう?6月23日京急油壷マリンパークのペンギンです。京浜急行「みさきまぐろきっぷ」(電車・バス乗車券+まぐろ満腹券+三浦・三崎おもいで券:横浜から3400円)。