『万引き家族』に「作品の寸評はさておくけれど」の市議の仕儀、「公」を後生大事に勘違いし続ける人たち

 『万引き家族』は、まだみていない。好きな食べ物はあとに取っといてというわけではない。単に映画館が込むのが嫌なだけだ。

 人込みが苦手になったのは50歳を過ぎたころからだ。つれあいと映画館に出掛け、込んでいたので仕方なく別々に坐ることにした。空いていたのは前から三列目の真ん中あたり。とりあえず坐ったのだが、本編が始まる前にすぐに気分が悪くなった。我慢できずに席を立ち、通路に立って最後までみた。

 それ以来、コンサートもバスも飛行機も電車も通路側以外は坐れなくなった。
 どうしても込みそうな映画の時はなるべく早く出かけて早い順番を取る。一桁の番号で入れば、後ろの端っこの席がたいてい取れる。

 ところで映画館が小さくなった。ちょっと話題になった映画など、80席ぐらいの名画座だとすぐに満員になってしまう。

 大きな劇場で同じ映画をみて、終わるとしっかり拍手までしていた時代なんて50年も昔のこと。今では嗜好の違いによっては、互いに全く「知らない」映画がたくさんある。

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 シネコンではたぶんさまざまな市場調査によって、どの映画をどの規模のスクリーンを充てるか決める。決められた期間内にあふれることなく効率よく客を入れることが求められるからだ。

 国内で一年間に封切られる映画の数は、1200本ほど。一年365日毎日3本以上の映画が封切られる計算だ。シネコンのスクリーン割り当ては、そう考えるとかなり難しい選択ということになる。

 何しろ上映する映画より上映しない映画の方が圧倒的に多いわけだし、上映する映画の中でも、かけてみないと分からないものも多い。テレビで予告編を見て、面白そうだなと思っても本編ボロボロという映画もかなり多い。予告編というのはあれはあれで一つの作品だといつも思う。宣伝惹句の巧みさと同じ。中身はともかく、客に劇場まで足を運ばせるところまでが役割だ。本編がつまらなくてたとえ客足が遠のいても、第一陣が来てくれれば「いい仕事」したということになる。

 であったとしても、実際かけた映画が予想通りにヒットする喜びって、今だれがどこで感じているのだろうか。ロビーをぶらっと通りかかる毛玉のついたカーディガンを羽織り、老眼鏡をかけた頭頂部が薄くなった館主、ではないだろうなあ。

 で、劇場の規模の話。今時一番多いのは、せいぜい100席~200席ぐらい。横浜・桜木町みなとみらいにあるブルク13は大きなシネコンで、最大で404人。あとは80人から300人ぐらいまで12スクリーンが入っている。私がよくいく本厚木の映画ドットコムシネマは、3スクリーンあって一番小さいのが58席。黄金町のジャックアンドベッテイは、2スクリーンで100席と110席。

 横浜で一番大きな劇場が入っているのは、横浜西口のムービル(旧相鉄ムービル)だろうか。ここは1971年創業。古くて5つのスクリーンをもったシネコンだが、今でも500人を超える劇場が二つある。コンサートホールならば普通の規模だが、映画館としては今見ると、かなり大きく感じられる。

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 私は西口で映画はほとんど見ないが、一昨年だったか映画そのものは忘れたけれど、入ってみてその広さに驚いた。「おおっ」と声がでた。こんなところでモスララドン鞍馬天狗を見ていたのだなと思った。

 閑話休題。『万引き家族』まだあまり評判はきかないが、外野の声がうるさい。是枝監督が、「公権力とは距離を保つ」と発言したことに対して、ネット上ではこんなのが。

〈距離を保つとか言いながら金だけはもらってるわけか〉
〈ただの祝意より、カネもらってる方がよっぽどべったりじゃねえかwwwww〉
〈はやく一人暮らししたいわー言いながらヌクヌク実家暮らししてるヤツみたい〉
 
 名前も顔も出さずに、こう言い方でくさすわけだ、ネトウヨという人たちは。
公に対して常に恭順の意を表して「恐悦至極にござりまする」と拝跪しないと、「オマエ、公なめんじゃねえぞ」といらだつ。「わけか」「じゃねえか」「みたい」と語尾を濁しながら、自分としては「痛いとこ」突いたようないい気分で、かと言って相手の反論は受けつけない。そうすると調子にのって同じようなことを書き散らすやからが次々に出てくる。 

 顔を出して言っている人もいる。群馬県の伊勢崎氏の伊藤純子市議

〈作品の寸評はさておき、是枝監督の「公権力から潔く距離を保つ」発言には呆れた。映画製作のために、文科省から補助金を受けておきながら、それはないだろう。まるで、原発反対の意向を示しながら、国から迷惑施設との名目で補助金を受けている自治体と同じ響きがして、ダサい。〉

 「寸評はさておき」というのが面白い。映画の話をするならまず寸評さておくなよと思う。いずれにしても、国や公から金をもらうなら、ガタガタ言うなよという体である。

 でも国の金って税金。国が時の権力にまつろわないものには、税金である補助金を出さないという方がよっぽどおかしい。政権が変われば補助金の行き先も変わる。それでは恣意的な使い方ということになる。

 大阪の橋下が文楽補助金を切って、言いたい放題だったことがある。橋下は、文化とはかくあるべしなどと言い立てたが、市長が私的な感性で文化を評価してはいけない。自分の発言がお足つきでないときにやるべき。

 権限やお金をもつ行政は、文化の中身まで口を出してはいけない。お金を出しても見返りを求めてはいけない。

 一方、カンヌ映画祭で一番大きな賞をもらったのに、知らん顔をしている安倍晋三などという人もおかしい。サッカーやオリンピック、国民栄誉賞など、使わなくていい金を使って自分の印象操作に利用するのに、自分のところにゴロニャンと来ないと分かると知らん顔。新聞の「首相の一日」を見ると、この人が芸能人と食事をするのがとっても好きなことがよくわかる。それだけにまず自分のところに報告に来ないというのが面白くないのだろう。

 この人同様、日本には偉業? を達成した人はみな「表敬訪問」をすべきと思っている人が多い。行政の何たるかを分かっていないということだ。行政というのは僕(しもべ)、公僕であることを認識していない人が多い。行く方も行く方だ。優勝すると地元の市や県に挨拶に行くという悪習、いやだなあといつも思う。あなたはあなたでよく頑張ったのだし、あなたの友人やファンはあなたのことをしっかり見ています、そのうえなにゆえに公僕のところにわざわざ行かなければならないのですか。

 日本の芸能、文化の担い手で是枝監督のように自分の立ち位置を明確にする人は珍しい。かといってどこにも寄り掛からず、頼ることをせずに生きていくことは簡単ではない。無理に赤貧、孤高を求める必要はない。

 私は、是枝監督が変な色のついていない公的な補助金をちゃんともらったうえで、いい作品をつくり、そのうえで「公権力と距離を保つ」という姿勢はとってもいいと思う。強く共感する。
作品の寸評はさておくけれど(笑)。

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本文とは何の関係もありません。うちの庭でとれた梅、これで全部です。